クルマは単なる工業製品ではなく愛すべきパートナー。 その1

VOL.8_2

佐藤 久実 

1965年生 東京都出身
大学在学中にレーシングドライバーとして活動を始める。ワンメイクレースや耐久レースをメインに、海外の24時間レースにもチャレンジしている。レースで培ったスキルをベースに、ジャーナリストとしてのクールな視点、女性の視点からクルマを評価。自動車専門誌への執筆やTV出演をしている。また、ドライビングインストラクター、大学非常勤講師も務める。日本自動車ジャーナリスト協会会員。日本カー・オブ・ザ・イヤー2005~2006選考委員。

レーシングドライバーのほとんどが男性という中で、
80年代末から常にトップドライバーとして活躍してきた女性ドライバー、佐藤久実氏。
他のスポーツでは男女が別れて行う種目がほとんどだが、
レースの世界はまったく同じ条件で戦うことになる。
当時のツーリングカーのトップカテゴリー、グループAにも参戦、
'96年のN1耐久ではシリーズチャンピオンに輝く。
ニュルブルクリンクやスパフランコルシャン24時間耐久など海外レースにも参戦。
'05にはニュルでクラス2位を獲得している。
国内では'01年のGT選手権を最後に第一線を退き、
現在はレース経験をいかしてジャーナリストやドライビングスクールの講師として活躍している。
今回は佐藤久実氏にお話しをうかがった。

自動車部に入部。

私は大学に入る時にクルマの免許をとりましたが、モータースポーツには全く興味がありませんでした。ごく普通に免許をとって、当時のいわゆるハイソカーなんていうクルマに乗ってみたいなあ、なんてミーハー的に思っていたくらい(笑)。大学に入学したらクラブへの勧誘があって、自動車部に誘われたんです。とても優しい先輩に誘われて、断りきれず入部したというのが本音で、免許を取ったばかりでウマクなりたい、というくらいの気持ちはありましたがクルマで競技をしたいとか、全然思ってなかったんです。
 大学は薬学部だったんですが、それも母に『手に職をつけておけ』といわれるがままに決めたことで。ですから、いわれるまま大学に入って、誘われるままに自動車部に入ってと、それまではさほど自分の意志がなくきてましたね(笑)。それでもちゃんと卒業して国家試験も受けて薬剤師の免許も持ってますよ。こちらはペーパードライバーですが(笑)。
 大学自体、女子学生の割合が多かったので自動車部も女性部員が半数くらい。活動の中心はラリーで、当時学生はほとんど計算ラリー。入部当時はもっぱら後部座席で下を向いて計算してました(笑)。それでもラリーやクルマの運転には興味が湧きはじめていました。

'90年からN1にも本格的に参戦、チームオーダーによりマシンはGTR。「それまでシティでは筑波のストレートでも160キロくらいだったのが、一気に富士のストレートで260キロとか出るわけですよ。最初はもうピットサインも見てる余裕がないくらい。でも、このGTRでパワーやスピード、さらに高度なコントロールのスキルが身に付いたので、グループAやGTにも乗れたと思います。シティが基本の教科書とすればGTRは上級の教科書だったと思います」('92N1耐久シリーズ)

初のレース観戦は“全然面白くない”

初めてレースを見たのは入学した年のゴールデンウィーク。レースのことは何も知らないまま先輩につれられて富士のグランチャンを観にいったんです。その時は、車もドライバーも知らないし、耐久だったので順位もよくわからない。同じところをグルグル回るだけだし、広いサーキットを一日中歩き回って疲れるし“全然面白くない”って思ったんですよ。興味がないとそんなもんですよね(笑)。
 ところが、自分でレースに出るチャンスが回ってきたんです。たまたま女性だけのワンメイクレースっていう企画があって「面白いから出てみれば」って誘われたんです。クルマもタイヤも主催者側で用意してくれてあって、エントリーフィー5万円だけ払えばOKなんです。バブルが始まるころで景気も良かった時代ですよね。じゃあ、一生に一度くらいレースに出てみようかと、ライセンスをとってスーツを用意して参加したんです。
 まわりは女性ばかりでほとんど素人。私はクラブ活動でダート走行をしたり、先輩とサーキット走行も経験して少しは知識があったので、デビューレースで3位に入賞。いきなり表彰台でシャンパンファイトですから、これで夢中になってしまいました(笑)。一生に一度のつもりが「レース走り続けたい!」っていう気持ちになったんですね。

レース参戦3年目に1300ccクラスのプロダクションレースに参加。マシンは初めて自分用のレーシングカーとして新車から造ったシティ。「うれしかったですね。でもシビックからの乗り換えにシティ・・って思いもありました(笑)」しかし、このシティの素直な特性は佐藤氏のスキルアップにとって重要な役割を果たした。「まさにFFの教科書のようで、スキルアップにはクルマの特性も重要なことを認識しました」
('90年東京プロダクションカーレースシリーズ)

'87年、レースデビュー当時。まだ大学在学中だった。

レースへの志。

サーキットもレースを何も知らない頃は、同じところを回るサーキットはラリーに比べると大したことはないと思っていましたが、いざ走ってみるとその奥深さと面白さに取り付かれてしまいました。当時まだ学生でしたから自分で車を買ってまではできませんから、そのレディースレースのインストラクターに頼み込んでチームに入れていただいたのが、本格的にレースを始めるキッカケになりました。
 そこはプロとしてやっているチームで、1シーズンごとに新車にするんです。それで中古のレーシングカーがいっぱいあったので、それをレンタルしたりとか、チャンピオンチームの後ろ楯をいただけたので、最初の頃から少ない予算でレースができる様になりました。今だったら結果も無いし名前も出ていないのにサポートしてもらえるなんてあり得ませんよね(笑)。そういうチームに面倒をみていただけたのは本当にラッキーだったと思います。
 学生時代にレースにデビューしてワンメイクを走るようになって、最終目標はグループAを目指すようになりました。でも、試験期間にぶつかったりすると走る時間も限られてしまい、勉強もレースも中途半端になって不完全燃焼だったんですね。だから就職の時には役員面接で“就職してもレースを続けるけれどかまわないですか”なんて平気で聞いてたんですよ(笑)。でも、当時はレースウィークも長くなり、土日だけでなく火曜日頃からサーキットに入るなんていうこともありましたから、とても休みを貰っての参戦ではできないんですよ。学校は自分の責任だけですけど、仕事になったらサボれないですからね。それで、卒業の年には内定していた就職を辞退して、チームの会社に入れてもらったんです。自動車部のメンバーはほとんど卒業まででモータースポーツから離れていきますが、私はどうしても続けたかったんです。それは初めて自分自身ではっきり持った志だったんだと思いますね。(以下次号)

N1耐久を走りながら、目標だったトップカテゴリー、グループAにも参戦。
('92年 全日本ツーリングカー選手権)

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