現代から脱現代へ。その起爆剤としてのEV。 その1

VOL.7_2

舘内端 

1947年生 群馬県出身
日本大学理工学部卒業。
東大宇宙航空研究所勤務の後、レーシングカーの設計に携わる。
現在は、テクノロジーと文化の両面から車を論じることができる自動車評論家として活躍。「NAVI」「JAFMATE」等、連載多数。 行政の各種の委員もこなし、低公害車の普及をボランティアで促進している。1998年、環境庁長官より感謝状授与。日本EVクラブ代表。
「胸をはってクルマに乗れますか?―美しい自動車社会を求めて」(二玄社)、「すべての自動車人へ」(双葉社)、「ガソリン車が消える日」(宝島社新書)、「クルマ運転秘術-ドライビングと身体・感覚・宇宙―」(勁草書房)など、著書多数。

'70年代からエンジニアとしてグランチャンマシンやF2の設計・製作に携わり、
'77年には高橋国光選手のチーフ・エンジニアとしてF1に参加するなど
日本のモータースポーツの頂点で仕事をしてきた舘内端氏。
その一方で現代のクルマとクルマ社会を批評するモータージャーナリストとしても活躍、多くの本を出版している。
モータースポーツの第一線で活躍してきた舘内氏が
エンジンからEV(エレクトリック・ビークル)へと軸足を移しはじめたのが'90年代初頭。
'94年には日本EVクラブを設立し本格的な活動に入る。
その視点は単にEVの環境負荷や省エネではなく、その向こうにある重要なテーマを見据える。
今回は舘内氏にお話しを伺い、2回にわたってご紹介する。

自分でクルマを造りたい。

中学2年の時にポンコツ屋から拾ってきたエンジンでゴーカートを造りました。ステアリングとかはオモチャ屋でペダルカーを見て参考にして本当に手探りで。学校の帰りに毎日親戚のおじさんの所に寄って、地面に図面を描いて溶接してもらうんです。それで町中を走り回りましてね。その正月の日記に『レースのバイクかクルマを作ることを職業にしよう』と書いたんです。私の人生はそこで決定しましたね(笑)。どうしても自分でクルマを作りたかったんで、大学に入る頃には真剣に考えて、エンジンを作るよりも、車体のほうがお金がかからず(笑)自分で作れそうだと思い車体に行くことにしたんです。
 卒業する頃には日本のレースも盛んになってきてプライベーターが自分で車作りはじめるんです。ただ、それはお金にならなくて生活ができない。ちょうどベルコが出来た時で、それを雑誌でめざとく見つけて『これならレーシングカーを作りながら給料を貰えそうだ』と(笑)。それでレースの世界に入っていったわけです。

'77年富士スピードウェイで開催された第2回F1GPに高橋国光選手のチーフ・エンジニアとして参加。この時、高橋選手は9位。この成績は中島悟選手が4位に入る時まで、日本人のF1最高位となった。また、このレースでは2台のマシンが接触し観客席に飛び込んでしまうという大きな事故があったレースで、直後を走行していた高橋国光選手は危機一髪でこの事故を避けたという。写真中央が舘内氏。

次の時代の人を育てたい。

数年すると、オイルショックで先行きが不安定になって、ベルコもレーシング部門の人員削減になってしまうんですね。辞める前から雑誌に原稿書き始めていて、原稿料で生活ができるくらいになっていたんで、'77年にジャーナリストとしてフリーになる決心をしたんです。稼ぐのは原稿、実際に体を動かしているのは、いろんなチームに行ってレーシングカーの設計をしたり、レースの時に車の調整をしたりという仕事がでてくるんですね。 
 その頃SRE(ソサイアティ・オブ・レーシング・エンジニアーズ)という勉強会を始めたんです。当時から常に次世代の人を育てたいという気持ちがありまして、学生にレーシングカーの事を教え、作って、走って、楽しもうとフォーミュラSREというのを実際に作らせたんです。JAFのほうでも入門クラスのフォーミュラを模索していたところで、これをベースにFJ1600が生まれていくんです。
 その後は高橋国光さんとF2を5年間ぐらいやりながら、GCもやり、フォーミュラSREがFJ1600に成長していく手伝いをしたり車の相談受けたりで、底辺でFJ1600、トップでF1、真中でF2とGCみたいな事をやっていました。その頃は、ガソリンエンジンガンガンの時代ですね。

'94年3月、自費でEVフォーミュラカー「電友1号」を製作。米国フェニックスで開催されたEVレース「APS Electric 500」に参戦し、3位入賞。その後、同年10月に日本EVクラブを立ち上げる。ドライバー林哲氏。

ポストモダンとの出会い。

'80年中ごろになると、ポストモダン論議みたいものが出てきて、僕の原稿もそんな視点で車を切っていくと何が見えるか、自動車の文化的な位置付けみたいな話になっていくんです。NAVIの創刊時に「ポストモダン近代主義批判を非常にユニークにやられているんで、是非」ということでナビトークという連載が始まるんです。その中で資本主義の高度情報社会の中で情報としての自動車というのが見えてきたんですね。
 僕も早くから地球的な問題には気付いていました。成長の限界っていうローマクラブの報告書やレイチェルカールソンの「サイレントスプリング」。その方面の勉強をしていて、文明論的に自動車を批評していくと今度は近代という文明の問題に行き着くんですね。自動車が存在しうるのはなぜかと言うと、近代文明があるから。で、「自動車の問題って何」と見ていくと、それは近代文明の問題なんですよ。「近代文明って何」と考えていくと、ポストモダンにぶつかってくる。でもポストモダンの旗手達も近代をどう越えていくかとなると越えられずに閉塞状態に入っていくんです。

舘内氏近年の著作。

自分の体に回帰していく。

ナビトークを始めた80年代の真ん中以降から「相当まずいぞ」いうのを感じて、それが大きな問題として僕の中に住み着いちゃうんですよ。その時に出した本が「2001年クルマ社会は崩壊する」でその時に現在の状況を言い当てているんですよ。でも、ポストモダンの諸先生方と同じように近代をどう越えていくかということに行き詰まって、その時に僕は自分の体に回帰していくんです。ポストモダンが言っていたのはね、「頭じゃないぞ」っていうことですが、「頭じゃないぞ」っていうのを頭で言っていた(笑)。僕は「頭じゃないんだったら体だろ」って、それも自分の体以外ないぞって、頭じゃなくて自分の体で知ろうっていう行動に出たんですよ。
 自動車は移動の媒体だと言うことで、移動の原点に立とう。人間はなぜ車を発明したのか。車を発明する前は何だったのか。それは歩いたんだと。馬に乗る前も歩いた。だとすれば移動の原点は歩くことじゃないかということで、92年の10月に日本橋から鈴鹿サーキットまで470kmを歩くんですよ、2週間かけて。そのことが、大きなことに気付かせてくれる契機になったんです。(以下次号)

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