ラリーで走ること。それは人生の道しるべ。

VOL.7_1

片岡 良宏 

1961年生 神奈川県出身
81年、ラリーデビュー(KP61)。'82年、全日本ラリー選手権参戦、クラス6位入賞。その後、三菱ランサー
(A175A)、トヨタ カローラ(AE82)、トヨタスターレット(EP71)と乗り継ぎ、'87年からタスカエンジニアリング率いるチームより三菱ミラージュで参戦。その後もギャランVR4、ランサーEvo1からランサーEvo6まで三菱車をドライブする。海外ラリーは'94年、世界ラリー選手権(WRC)「ニュージーランドラリー」初参加。'95年、WRC「ニュージーランドラリー」「RACラリー(英国)」の2戦に参戦。難コースで有名な英国「RACラリー」では初参加で総合11位クラス3位を獲得し注目を集める。'96年、アジア・パシフィックラリー選手権(APRC)プロダクションクラスでシリーズチャンピオン獲得。年末には世界中のチャンピオンを集めて行なわれる「レース オブ チャンピオン(スペイン)」参加。'97年よりグループA車両に乗り「'98年タイラリー」と「'99年キャンベララリー」総合優勝。シリーズチャンピオンシップシップでは'98年、'99年連続APRC2位を獲得。'99年、ラリードライバーとしての一線は退くが、国内レース等には現在も参加。また、チームマネージャーとして国内ラリー、海外ラリーにも参戦しチームに関わり、ドライビングインストラクター等も務める。有限会社セルバ(モータースポーツパーツや車両販売)代表。http://www.selvasports.com

'95年RACラリー総合11位クラス3位、
'96年アジパシ(FIAアジアパシフィックラリー選手権)グループNシリーズチャンピオン、
'98年・'99年はグループAランサーで参戦、二年連続シリーズ2位など
90年代の海外ラリーシーンで多くの戦績を残しているラリードライバー、片岡良宏氏。
'99年でメジャーラリーへの参戦から退いたが、
モータースポーツ関係のショップを経営するかたわら、
後進の指導やチームマネージャーなどラリー参戦のサポート活動をしている。
今回はラリーへの情熱を片岡良宏氏にうかがった。

ナンバー付車両で競技ができるんだ!

子どもの頃からレースは好きでテレビの富士GCやF1中継を一生懸命見ていましたが、ラリーは全然知りませんでした。高校3年の5月で18才になるとすぐに免許を取り、夏休みにはクルマを乗り回してましたね。当然シャコタン、ワイドタイヤ仕様(笑)。最初はセリカ、次にケンメリのスカイラインで峠を走っていました。まぁ、本当にその辺のオニイチャンですよね(笑)。
 大学一年の時にバイト先の先輩でラリーに出ている人がいて「走ってみないか」と誘われて行ったのが宅地の造成地。クルマが横に流れるのが面白くて、夢中で走っていたら「お前、イケるよ」といわれまして、これが悪魔の囁きでした(笑)。その時、ナンバー付車両で競技ができるラリーを初めて知ったんです。普段乗ってるクルマでモータースポーツがやれるというのは感動でした(笑)。“シャコタンに乗ってる場合じゃないぞ!”(笑)と早速KP61スターレットに乗り換え、先輩にショップを紹介してもらい、ラリーの世界に入ったんです。

'98年 WRC/APRC 「ラリー ニュージーランド」
総合8位

絶対にWRCを走る!

当時は“一日一回はダートを走る”と決めて週に7日、時間が無い時は近所のあぜ道を走ってでも練習してました。ガソリン代が月13万円(笑)。“やるとなったら、徹底的にやりたい”という性格なので、全日本ラリーもろくに出れていないのにWRCのビデオを見ては“いつか絶対これに出る”と信じていましたね(笑)。デビューは練習ラリーに1~2回出た後、いきなり全日本の鳥海ブルーラインラリー('82年10月)。ここでの6位に自信を付け、そのまま全日本選手権に参戦していきました。
 3年目には借金も増えてきて“この一年で結論を出そう”と決め、がむしゃらに走りました。その時「ウチから全日本に出ないか」と声をかけてくださったのが、カーショップマツモト(現株式会社レイル)の松本社長。そこで働かせていただきながら、ラリーに参戦できるようになり“お店に恩返しをしなければ”とますます頑張りましたね。ただ、当時は成績よりもSS(スペシャルステージ)のベストタイムに熱くなって、SSで10本中7本トップを取りながらもラリーは勝てないという走り方でした。
 32才の時、独立を申し出たら「お前、海外ラリーに行きたいといってたな」と辞めて行く人間をWRCニュージーランドに連れて行ってくれたんですよ。これが初めての海外ラリーになりました。“日本人はロングSSは獲れない”といわれていた50キロ以上ある名所「MOTU」というSSでベストタイムを出せたんで、みんな喜んでくれました。自分としては“これは、オレのためのコースだ!(笑)”と思うくらいに得意なコースでしたね。その後、タスカエンジニアリングから海外ラリーに参戦できるようになり、'96年のアジパシで、この年から始まった初代グループNシリーズチャンピオンを獲得することができました。SSベストタイム集中からシリーズ全体を考えて走るようになった年で、自分自身ドライバーとしての転機ともなりました。
 '97年から日本人としては数少ないグループAで走らせていただけるようになり、総合優勝2回と'98年と'99年連続シリーズ2位となりましたが、もっと上に行きたいという気持ちと裏腹に、努力する割に伸びない自分に納得できず、'99年に一線を退く決意をしたわけです。

昨年、中国国内選手権の「六盤水ラリー」にスポット参加。海外ラリーは5年ぶりにもかかわらず、見事N2クラス優勝を獲得。ドライバーとしての実力はいささかも衰えず、その健在ぶりを証明した。左は現役時代にもコンビを組んでいたコ・ドライバー林哲氏。

海外ラリーの経験を活かして。

昨年7月、中国「六盤水ラリー」に出場しました。中国ラリー選手権に参戦している大先輩の大庭誠介先生(本誌'02年8月号参照)から『チャンピオンがかかった国内戦と重なったから代わりに走れ』とのことでスポット参戦。コ・ドライバーにはかつて一緒に走った林哲君にお願いして、結果N2クラス優勝。海外で走るのは5年ぶりだし、クルマもポロは初めてだし、どうかなと思いましたが、レッキで3キロ位走ったら慣れまして『まだまだやれるな』と思いました(笑)。
 今、会社の経営もしているのですが、ラリーの厳しさの中で得た経験は他の仕事にも共通して活きています。ラリーは自分にとって人生の道しるべのようなものですね。振り返れば、本当に多くの皆さんの力添えがあって成し得たことだと感謝しています。そうして、今度はこれからの人に自分が得たものを伝えて行くことが自分の役割だし、それがラリーの発展に役立てば、お世話になった方への恩返しだと思います。日本でのラリードライバーは未だ趣味の延長という存在ですが、海外ではプロドライバーがたくさん活躍しています。小さな子どもが“ラリードライバーになりたい!”と憧れるくらいに地位を向上したいですよね。

'99年 APRC
「ラリー オブ キャンベラ」 総合優勝

'99年 WRC/APRC
「ラリー ニュージーランド」

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