だれが、どういう使い方をするクルマなのか。今、日本のクルマを語り直す。

VOL.6_2

福山 尚生 

1953年生 神奈川県在住
一般総合誌を中心に企画、編集、執筆活動を続ける。80年代には講談社PENTHOUSEの創刊から関わり廃刊まで様々な企画、記事を手掛ける。90年代以降は女性誌から硬派ジャーナル誌までの種々雑多な分野で活動。車雑誌では96年から98年までカーグラフィック誌で“走らせる人”、“車最前線”を連載。
現在、新たな車情報企画と格闘中。
株式会社エン代表取締役。

かつてアメリカの雑誌「PENT HOUSE」の日本版に創刊から関わり、
その後フリーのエディター・ライターとして男性誌から若者向け雑誌、
女性雑誌にいたるまで幅広く活躍している福山尚生氏。
テーマも料理、音楽、インテリア、自然環境などありとあらゆる分野にわたる一方、
子供の頃からの無類のクルマ好きとして、クルマ関係の記事も多く手掛ける。
幅広い分野の知識を背景にしながら、独自の視点からクルマを語ってきた中で、
今新たなクルマ情報のあり方と提供方法を模索しているという。
今回は福山氏の仕事場を訪ねお話しをうかがった。

日本的なクルマのあり方。

僕のクルマに対する価値観を変えたきっかけは、バブル崩壊の92年から93年にかけて国産・外車を問わず当時日本で買えるクルマのほとんどに乗ってみたことでした。その結果、自分でも意外だったのが、数あるクルマの中で一番しっくりきたのが最後に乗ったクラウンだったことです。デザインに少しオヤジ臭さがある以外は(笑)日本国内を走ることにおいて非常にフィットしているんですね。“走る”ということは、乗り手と道路とクルマの三つの関係を一瞬、一瞬処理して行く連続なんですが、日本の道路を走るときにそのバランスが非常にいい。その時感じたのは“ユーザーと想定される中小企業で成功した人たちが、クラウンに求めているものを徹底的に追求した結果”だということ。当時、トヨタ自身もまだ気付いていなかったかもしれませんが、国産車が依然として西欧的価値感や他のクルマとの比較でクルマづくりをしていた中で、クラウンはそうではなく『だれが、どこで、どういう使い方をするクルマなのか』ということを最優先したクルマづくりだったんです。
 僕自身、子供の頃から“馬力や一秒でも速く走ることが機械の進歩”という西欧的価値観でクルマを語るメディアの影響下に育ってきましたから“クラウンは静かだけれども鈍重な挙動のオヤジ向けのクルマ”という先入観をもっていましたし、バブル以前まではそれも的を射ていたかもしれません。しかし、クルマづくりが一定のレベルに達し、右肩上がりの西欧的価値に限界が見え始めたバブル崩壊以降にクラウンと出会ったとき、欧米からの借り物の価値観ではなく、日本の現実の中で“日本的なクルマのあり方”を考え、自らの文化としてクルマを語る時代がきたことを意識したんです。

4キロを6分半で自転車通学していた高校時代「ある日、ふっと体の力が抜けて意識が違う次元になったのを感じたんです」。それが、“乗り物を操る”ことを“肉体感覚”として理解した最初だったという。大学時代は無駄な操作を廃してクルマを操ることを修行のように追求。雑誌時代の企画では自らニュルブルクリンクも走った。「ゲストのラリードライバーの横に乗ったとき、レベルは違いますが、自分が目指してきた走りの方向が間違ってなかったことを感じましたね」。そうして積み重ねてきた感覚や「かつてRX7を通勤に使い、目的と違うクルマを選択する失敗も体験しました(笑)」という経験をベースに「新たなスタイルでのクルマ情報の提供」を目指す。

西欧的価値観からの脱却。

ベンツにしてもロールスにしても、産業革命やルネッサンスを経て自然を支配し、今日より明日、明日より明後日の永遠の向上を信じてきた生き方の積み重ねの上に生れたクルマです。そこには“機械を操作する”という人工感があるんですね。それに対して、日本は四季はあるけれども気候的には不安定で台風がくれば収穫もままならないし、明日食えるかどうかわからないという中で自然と共存せざるを得なかった。そこから作られるクルマは本来あり方も違うのではないかと思います。“人とクルマが一体になる”日本的で少しウェットな感覚、それをクラウンに感じました。
 雑誌のインプレッションについて違和感を感じ始めたのは、陸送のバイトで当時の新車に乗る機会が増えた学生時代でした。自分が感じた印象と大きな相違はないんですが、なぜか回りくどく、素直な体感の表現ではないと感じたんです。当時は分からなかったその違和感が何だったのかというと、視点をヨーロッパの価値観に置き、ある意味高い所から見下ろすスタンスで国産車の評価を行っていたからだということに気付いたんです。クルマはヨーロッパで誕生し、アメリカで大衆化されてから日本で広まったため、国産車はまず欧米の技術とともにその文化も受け入れるしかなかったし、評価もその基準でせざるを得なかった。ところがその後、文化的には70年代半ばから、技術的には80年代後半から欧米とは異なる歩みを始めたのに、日本のモータージャーナリズムは、依然として数十年前の西欧絶対的な価値観から抜けきれていない思うのです。

「この本が僕のクルマとの最初の出会いでした」というのが子供の時に買ってもらった『世界の自動車・1955年版』だった。その後、クルマのおもちゃやプラモデルに夢中になり、中学1年の終わりにカーグラフィック誌を手にして本格的なクルマ好きの道を歩む。「でも当時は現実のクルマというより、日常生活から隔絶した情報としてのクルマでしたね」。写真右端は後年、古書店で見つけた『世界の自動車・1954年版』。

96年から2年に渡りカーグラフィック誌で連載した“走らせる人”。「日本で一生懸命やっている人を取り上げ、西欧からの借り物でない、根っこにある日本人のところを引き出したい、と決めてスタートした企画でした」。24人の取材の最終回はスタジオ・ジブリの宮崎駿氏へのインタビューで締めくくられている。

新しい形のクルマ情報提供へ。

数値の向上がクルマの進歩であり、最新技術による部分最適の集合体が最も良いクルマとされた時代は終わり、これからは『だれが、どういう使い方をするか』ということをスタートに、日本という国に根を降ろした、日本の文化にあったクルマを日本の価値観で語り直さなければならない時代に入っています。メーカーの車づくりもその方向に動いているし、コンパクトカーやミニバンの販売が自動車販売全体の2/3を占めている事実がユーザー自身もそうした選択を始めていることを示しています。ところが、そこに情報を提供していくモータージャーナリズムのあり方が、依然として変わっていないことを感じるんですね。趣味の世界では欧米のクルマが憧れだった時代を切り出し、その価値観を楽しむことは否定しませんが、それを現在のクルマを評価するスタイルとして使うことには問題があります。
 日本のクルマ文化は現在のクルマ社会から生れてくるものです。日本人は日本人であることが自然で、借り物ではない日本の文化としてクルマを語っていきたい。そういう視点から、実用としての側面から見たクルマ情報を新しい形で提供していきたいと思っています。ネットを通じてという形になると思いますが、現在その企画を進行させていますので、ご期待ください。

都内から現在の神奈川県逗子市に転居して約一年半。様々なクルマを乗り継いできた福山氏だが、転居を機に一旦クルマを手放し、現在も普段の足として自転車を愛用。現在、次の愛車を検討中。

  • facebook
  • twitter