「ロータリーの火を消したくない。」 その2

VOL.32_2

雨宮 勇美 

1946年3月3日生まれ、山梨県出身
RE雨宮自動車の代表。シャンテにRX-7のロータリーエンジンを移植するなど、改造車が法律でも世間的にも認められていない時期から活動。改造車を車検に通す活動もいち早く取り組んできた。95年からJGTCに参戦してRX-7を走らせてきた。06年にはチャンピオンを獲得している。
http://www.re-amemiya.co.jp/


95年からGTに参戦し続けてきたRE雨宮。
初年度にシリーズ総合2位に輝き
96年以降も常に上位争いを続け、06年に初チャンピオンを獲得――
ところが、雨宮氏はその06年オフが一番つらい時期だったと振り返る。
ロータリーエンジンを愛した雨宮氏は
その4年後に大きな決断を下した。

セパンで10戦中5勝。

本格的なチームとしてレースをやり始めたのは95年のJGTCからです。最初は本職をやりながらレースマシンのメンテナンスもやっていたから、成績は良くありませんでした。で、メンテナンスをRSファインに任せることにして、うちはエンジンとエアロとコンピュータに専念。そうしないと最終的には勝てない厳しい世界でしたね。
 16年やってきて、うちが誇れるのはお金をあまりかけていないこと。レースの世界ってお金をかければきりがないけど、ロータリーエンジンはお金がかからないんです。他チームよりお金がかからないから16年もできたのかもしれないですね。マツダ参戦車が1台ってことでお客さんの応援も多く、それも励みになりました。ただレーシングカーは毎年進化していくものですが、ロータリーエンジンは30年前とあまり変わっていない、最初から完成度が高いけど大きな進化がない……そういう部分での厳しさはありました。GTのように吸気制限されると、エンジン磨耗も早いんです。そんな中でも勝つことができたのは、大したもんだと我ながらに思います。セパンでは10回やって5回も勝った。セパンってレースが少ないから路面ミューが低いんですよ。ロータリーエンジンはトルクがないから、ミューが低いところはドライバーもアクセルを踏んでいける。ミューが上がってくると最終的に皆のタイムも上がってきますけど、いつも初日はタイムが良かったのを覚えています。RX-7がタイヤにやさしい車だっていうのもあったでしょうけどね。ただ、燃費は悪いですよ。GT500と変わらないぐらい(笑)。
 厳しいっていう部分では、パーツが不足してきてからは必死でしたね。メーカーは車を販売してから10年間は純正部品を作る義務があるんですが、それ以降は出回っているものしかもうない。だからその期間が終わった後、エンジン関連のパーツを探すのに苦労しましたよ。解体屋を回ったり、知り合いの知り合いから「部品取りしていいよ」って言われたパーツを持ってきたり。レースでは上位を走っているけど、内情はそんな感じだったんです。

GT参戦初期の頃は、本業をやりつつのレース参戦だったため、スタッフの疲労もたまった。レースで頂点を目指すために必要なこと、それを理解して雨宮氏は分業体制でレーシングチームを動かしていくことに。

今後は底辺拡大を目指す。

そんな思い出深いGTですが、撤退を決めました。それは昨シーズンスタート前から覚悟していたことなんです。昨年、一応スポンサーはついたんですけど、チームを1年間運営するには足りなかった……。そこで、ムティアラモータースに「シーズンが終わったらクルマを渡すから、スポンサーフィーを上げて」と頼んだわけです。昨年の契約の時に今年レースができなくなることは分かっていたし、覚悟は決めていたんです。ただ、まったく今年走れなかったかと言えば……ムティアラモータースは「そのままクルマを使ってもいいよ」と言ってくれたんですが、結局やるとなると金銭面でまた苦労することになる。良いドライバーを連れてくるにもお金はかかりますからね。それにあのクルマは7年も使っているんですよ。そろそろ潮時かな、と。
 でも、今思えば金銭面で一番厳しかったのは07年かもしれないですね。06年チャンピオン獲ったのに、07年にスポンサーがまったくつかなかった。その時も辞めたい気持ちは強かった。走れば走るほど赤字になるわけだから。ただ、続けて良かったこともありました。08年からスポンサーがついたし、09年にはシリーズ2位、10年にはシリーズ3位になれたし。でも、この業界で最終的に引き際を決める要因になるのは金銭面じゃないですか。うちの本業はチューニングショップ。従業員は15人もいるわけですからね。
 今後はRX-8でD1参戦を継続して、ロータリーエンジンの火を何とか消さないようにしていきたいと思っています。D1参戦を続けながら底辺を拡大するというか、ストリートを楽しんだり、サーキット走行する人たちをもっともっとサポートしていきたいなという気持ちが強いんです。フレッシュマン全盛期、エントリーしても台数が多いから受理されないこともあった。そういう時代を知っていますし、もうそんな時代は来ないだろうなとも思います。でも、ひとりでも多くの人に車の良さを再確認してもらって底辺から盛り上げていくことが、チューニング業界やモータースポーツ業界に対して、そしてマツダや僕らのレース活動を支えてくれた人たちすべてに対しての恩返しになるのでは、という考えも僕の中にはあり、それを大事にしていきたいなと思っています。

GT参戦当初から上位争いに加わっていたチームは、96~01年まで連続5回シリーズ4位を獲得している。98年からマツモトキヨシがメインスポンサーとなり、青とピンクのボディカラーが黄色一色に変更され、やがてチームカラーになった。

長くレースに参戦してくる中で、悩みも増えてくる。成績を求めれば車両開発費用や速いドライバーとの契約料がかさむ。結果が出なければスポンサーもつかない……。「葛藤の中で16年続けてきた」と雨宮氏は語るが、「続けたからこそ開いた扉もある」と過去の自分を笑顔で振り返る。

  • facebook
  • twitter