「将来を変える“企画書”」 その1

VOL.30_3

河本 卓也 

16歳でカートスタート。全日本選手権に参戦しながら、90年に有限会社KRPを設立。当時はレーシングカートチームとしてスタート。96年から鈴鹿選手権で無限エンジンRSOを使用したクラスを始め、3ペダルのミッションカートクラスも新設。04年から新M4シリーズを猪名川サーキットでスタートさせ、その後関東でも同シリーズを展開。08年からARTAのシリーズ戦と統一して、現在の「オープンマスターズカート」という若手を育てるシリーズ戦に発展した。
http://www.krp-ms.com/

将来プロレーサーを目指す若手の育成を目的とした
カートのシリーズ戦「オープンマスターズカート」。
それを統括するKRP代表の河本卓也氏もその昔はレーサーに憧れ、
自らもカートで走り回っていた。
だが、あるきっかけで表舞台から離れることになり「サポート役」へと転向。
その分岐点で彼の背中を押したのは、
自らが書いた1枚の企画書だった。

レースを始めたきっかけは兄貴でした。ラリーをやっていたんです。で、兄貴がレース雑誌を買っていて、それを読んだらカートのライセンスが取れるっていう記事を見て、行ってみよってなって。まだ実際のカートって見たことはなかったです。滋賀県の八日市っていうスケートリンクのガレージをコースにしていて、そこでライセンス講習会が開かれてるからライセンスを取りに行きました。16歳の時、原チャリに乗って。そんな遠いなんて思ってなかったから朝に家を出て現地に着いたら昼を回ってて、もうライセンス講習会が終わってた。遅刻どうのこうのって言い訳をしてたらライセンスをくれはって、その時そこで初めてカートを見ました。何じゃこりゃ、めちゃ速いなって。
 貯金があったので、それで近所のバイク屋でカートを買いました。そこからカートを始めたんですが……結局、兄貴がいないとコースまで行けなかったんですよ。昔は車の上にキャリアを付けてそれで運搬するのが普通やったから。でも、一緒に行っていた兄貴が先にハマったんですよ。僕はどっちかっていったら見てる方。僕のカートは皆に遊ばれていた。その頃はプラグを換えるとかチェーンを換えるとか、まったく知らなかったんでプラグがかぶってることも知らず一日中押しがけをやってた。スピンしたら皆で押しがけして、押しがけ中に転んだり、轢かれたりなんてしょっちゅう。
 真剣にやり出したのは18歳から。免許を持って自分の車で行けるようになって、やっとそこから。関西カートランドで2~3年練習したのかな。で、何かのイベントで日本のトップドライバーの走りを見て衝撃を受けて、自分もそこを目指したいなって思った。関西カートランドのチャンピオンを獲って少しずつクラスを上がっていって、その後に当時の地方戦に出ました。その時にまた堺カートランドで(鈴木)亜久里とか当時の全日本ドライバーのレースを見て憧れて、次は全日本だみたいな。とりあえず目標を毎年立てていましたね。来年は全日本の何々クラスとか、思い切って海外のレースだとか。全日本と並行して香港のレースには3年出たのかな。その後は世界戦だと、もうマンガみたいにやっていましたね。資金的には、当時からコツコツとスポンサーを集めてました。その頃から今みたいな活動もやっていたわけです。
 全日本に出ていたのは20代前半。全日本の成績はあんまり良くなかったですね。レースはトラ(高木虎之介)と戦っていて、ほとんどトラが勝っていましたね。いつもグリッドは横にいてるんやけど、レース終わったら僕はどっかに行ってしまってるみたいな。
 僕らにとって、ワークスチームは憧れでしたね。当時はヤマハワークスが全盛でしたが、僕は人と同じは嫌やったんですよ。で、無限がちょうどカートエンジンを出した時ぐらいで、僕は無限に企画書を持って行った。サポートしてくださいって。最初に行った時は1分で帰ってきた。受け付けで企画書を渡しただけで会社を出てきたんです(笑)。まあそんなんの繰り返しでしたよ。でも1年ぐらい通ったら2年目に部品を出してもらえるようになって、その後はエンジンやいろんなパーツをサポートしてもらえるようになった。
 全日本に出ている時に使っていたタイヤは最初はダンロップ。でも、無限に入ったことによってブリヂストンの方を紹介してもらいました。ちょうどブリヂストンがカートで西を攻めたいと思っていた時期。当時は西が真黄色、要はダンロップばかりやったんですよ。東は赤、ブリヂストン。無限とのお付き合いをきっかけに赤に入って、赤を広めたいから力を貸してくれと言われて。その時、僕はアライヘルメットの西日本のサポート任命係みたいなこともやってたんです。速いドライバーを僕が紹介するっていう。そんなことにも協力していたから、いろんなドライバーが僕のところに集まってきてた。その中に脇阪(寿一)だ金石(年弘)ら今の国内のトップドライバーたちも当時西地域でカートをやってて、それで彼らにブリヂストンを勧めた。で、成績もともなって西地域が赤色に染まってきたんですよ。当時はまだ僕も現役で走っていましたが、それが実績になって今につながるプロジェクトが動き出しました。(以下次号)

資金のかかる全日本時代は、スポンサー活動してスポンサードを受けていた。当時から営業力は今につながる大きな武器だった

過去にはエンドレスやカストロールと組んでチームを作りレースに参戦したこともあった。カートドライバーの中では“異色”の存在だった。

自らが全日本現役時代にKRP設立。まずはカートチームとしてスタートすることが始まりだった。

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