「“発見”は苦労の中にある。」 その1

VOL.30_1

中山 雄一 

1991年7月25日生まれ、東京都出身
5歳でキッズカートスクールに入校後、東日本ジュニアのコマー60エキスパート(99~00年)、スーパージュニア(02年)でチャンピオン獲得。05年はJAFジュニア選手権とARATチャレンジRSOクラスでダブルタイトルを奪い、06はイタリアに挑戦した。07年全日本カート選手権最高峰FAクラス参戦(シリーズ3位)。08年から4輪にステップアップを果たしFCJに参戦開始、08年シリーズ13位、09年シリーズ4位、そして今年は4戦を残して早々と第8戦でチャンピオンを決めた。
http://ameblo.jp/yu-one-nkym/

エンケイホイールが足元を支えていることでも知られている
ステップアップカテゴリー「FCJ(フォーミュラチャレンジ・ジャパン)」
将来のF1ドライバーを目指す多くの若者が集まるカテゴリーであり、
シリーズがスタートした06年から激戦が繰り広げられてきた。
2010チャンピオンを決めた中山雄一もその中で育ったひとり。
今季の圧倒的な強さの秘密とともに、彼の半生を追いかける。

レースを始めるきっかけになったのが、遊園地のゴーカートです。以前、父が4輪レースをやっていてレース好きだったこともあって、遊びに行くなら多摩テックとかゴーカートが乗れる場所が多かったんです。ただ当時5歳だった僕がひとりで乗れるゴーカートは少なく、どうにか父に探してもらったところ子供向けのキッズカートのスクールが開催されていることを知りました。参加して乗ってみたらすごく楽しかったです。スクールの最後にコースを1周したんですが、最初から前のカートに追突するほどの気合の入りようで(笑)。
 そういうふうに家族の協力があったので、始めたての頃はすごく活動的でした。父の車にカートを積んでキッズカートのサーキットに行って毎週のように練習して、レースもたくさん出ました。6歳の頃は1年間で60戦ぐらいレースに出たんじゃないですかね。1日2レース、3レースとかが普通で、もっとレース、もっとレースという感じで、とにかくレースをやってその中で経験を積み上げる日々でした。

成長期の悩み

その後、東日本ジュニアというシリーズに参戦するようになって、コマークラス、カデットクラス、スーパージュニアクラスとステップアップしていきました。ずっと父がメカニックとしてサポートしてくれていたんですけど、もう本当に怒られた思い出しかないぐらいです。10~11歳ぐらいの時に、学校の担任の先生に「つらかったら辞めてもいいんだよ」って言われたことがありました。「親とか家族に強制されているんだったら、先生から言ってあげるから」という話をされたんです。当時の僕は「5歳からやってきて、もう人生の半分をやっているから、退くに退けないんです」って答えていました。もちろん競争をしているので、つらいこともたくさんあったし、結果が悪くて家族の雰囲気が悪くなって嫌になることもありましたが、もう絶対に乗りたくないって思ったことはないです。親に強制的にやらされていたのではなく、最終的には自分が好きになってやり始めたことだったわけですからね。
 東日本ジュニアを卒業して、小学校6年生になった年は全日本ジュニアに上がりました。年齢的な条件を満たしてからの参戦になったのでシーズン後半しか出ていませんが、2歳年上の人とか先輩ばかりが集まるクラスに入っていくことに、すごく緊張したのを覚えています。それでもトップを走ったり3番手を走ったり、上位で戦えていました。でも、いざチャンピオンを狙おうとなった翌年はかなり苦しむことになりました。ちょうど自分の成長期と重なり、1年間に身長が10センチずつ伸びたんです。カートってもともと重量が軽くて重心が低く、それより重いドライバーっていう重量物を積んで走る乗り物。だからドライバーの体重とか身長とかにすごく左右される部分があるんです。身長が伸びれば重心も高くなるし、体重も変わってきます。今まで良かったセッティングでは走れなくなり、シート位置から何から狂ってきて、3~4番は走れるけどトップは走れないっていうレースが続きました。その焦りからミスをしたり、無理なところで相手に仕掛けたりとか、レースを台無しにしてしまうこともありました。その悔しさを耐え抜いた1年が、翌年につながったんだと思います。
 中学2年になった翌年は全日本ジュニアとARTAチャレンジのRSOクラス、両方でチャンピオンを獲ることができました。当時のRSOも、参加台数が多くレベルも高い激戦区。すごく良い経験になりましたね。

05年に参戦したJAFジュニア。同年に参戦していたARTAチャレンジRSOクラスとは違い、かなり苦労してチャンピオンを奪い獲った。それもまた自信のひとつとなった。

東日本ジュニア、JAFジュニアでの功績が認められ、07年にはカートドライバーなら誰もが憧れるヤマハワークス入りを果たして1年間全日本最高峰の舞台で戦った。また同年には鈴鹿開催のビッグレースCIK-FIAアジアパシフィック選手権にも参戦し、KF2クラスで7位を得た。

世界レベルを知った。

翌年は半年間、イタリアの「イタリアオープンマスターズ」というレースに挑戦しました。全日本ジュニアでチャンピオンを獲って、どこまで通用するのか? 向こうで走る順位は一番危ない真ん中から下の混戦グループ。そこで生き残るっていうレースをしてきました。エントリー90台の中から決勝進出が許されるのは36台。それを争う予選は本当に激しいものでした。年5戦あって、最終的に予選通過したのは最終戦の1回だけ、確か34~35番手のギリギリだったと思いますが、それでもすごくうれしかったですね。
 その年の後半からは全日本カート選手権のICAクラスに出始めました。イタリアから帰ってきて自信だけはすごくあったんですが、今思えばまだまだカートの走らせ方が分かっていなくて、ダメダメな時期でした。セッティングも変な方向に振っていたし、「アンダー病」が直らなかったんです。アンダー病っていうのは、アンダーステアに苦しむ症状で、当時の自分はドライビングじゃなくてセッティングのせいでアンダーステアが出ていると思い込んでいたんです。全日本カートからはハイグリップタイヤというすごく軟らかくてグリップするタイヤを使い、それまで僕が使っていたタイヤとは走り方もブレーキングの仕方も変えなければいけません。それを認識せずに、同じような走り方、ブレーキの掛け方をしていたからアンダーステアが出てしまっていたんです。
 今になって思うのは、そういう失敗や苦い経験がたくさんできるのもカートの魅力だったんだなと思います。今年ダメでも来年頑張ればいいと思える余裕もあったので。4輪に上がれば1年1年が勝負で、来年頑張ろうなんて思っていたら確実にアウトです。ただ当時の僕は将来のことに関してもぼんやりとF1ドライバーになりたいなって考える程度で、フォーミュラカーなら何でもF1と一緒みたいな認識。4輪という世界はまだ遠い存在でした。

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