「どこまでも自分を追い込め。」 その2

VOL.29_3

伊藤 大輔 

1975年11月5日生まれ、東京都出身
95年にSRS-Fの第一期生で入校、96年にスキルスピードからフォーミュラトヨタにデビュー。97年にF3に上がり、98~99年はマカオグランプリにも参戦して99年に3位表彰台を獲得。00年から全日本GT選手権(現スーパーGT)に参戦開始。チームを移籍する中でホンダ系チームのエースへと成長し、07年にARTA NSXを駆りチャンピオンに輝いた。08年はホンダからトヨタのチーム ルマンへ電撃移籍。今季も同チームからGT500を戦い、現在ランキング首位を堅守している。
http://www.daisuke-ito.com/

鈴鹿レーシングスクールに入校する時から資金的なハードルが高く
余裕がなかった伊藤大輔選手だったが、周囲の協力のもとF3参戦に漕ぎ着けた。
そこから先は決断を迫られることばかり
資金的な面はもちろん、将来に向けた重大な選択も多かった。
そんな時、彼を正しい方向に導いたのは純粋なチャレンジ精神だった。

多くの人に支えられた日々。

F3のシャシーとエンジンが揃ってシリーズをスタートできることになりましたが、F3ではフォーミュラトヨタ(FT)とは比べものにならないほどランニングコストがかかります。参戦する上でスポンサーも見込めない。シーズンの半ばに入ると資金難に陥り、百田さんから「そろそろ腹をくくれ」と言われました。足りない一千万円以上のお金は、父が何度も頭を下げて銀行から借りることになり、それで1年目を何とか戦いました。
 少し話が戻りますが、スキルスピードでFTをやっていた時は、マシンを自分でサーキットまで運ぶ代わりにメンテナンス代を安くしてもらったりしていました。そのトラックは勤めていたサンユー技研工業(株)の4トンを毎戦借りていました。会社としても納品とかで使うんですけど、そのスケジュールを調整してくれていたんです。練習を含めたら水曜から借りて返すのが月曜早朝。その間、もちろん自分は会社を休んでいて……。とにかく会社には迷惑をかけたし、社長や皆のサポートがすごく助かりましたね。で、F3の1年目の最終戦で優勝できたんですが、その記事を社長がたまたま雑誌で見て、「お、こんなすごいことやっていたんか」と改めて思ってくれ
て、「もう少し別の形で応援しようよ」と周囲に呼びかけてくれ、津の市議会議員の方を通して、三重県の企業を回ってスポンサーを募ったり、後援会を作ったり、いろいろ協力していただきました。そういうサポートがあって、F3の2年目、資金的に一番苦しい時を乗り越えられました。
 スポンサーがついた3年目はお金の心配が少なくなり、レースに集中できる環境が整ったので、マカオGPで日本人初の表彰台に立てました。それで、マカオで表彰台に上がったんだからFニッポンにもすぐに乗れる……当時の自分はそう考えていましたが、そんな簡単ではなく、テストはさせてもらいましたが、結局シートは得られず00年は何も決まらないまま気づけば2月になっていた。どうしようと焦り始めた時、ナカジマレーシング(ナカジマR)のGTドライバーがまだ決まっていないという情報を聞き、すぐに中嶋(悟)さんに「何でもいいので乗せてください」と電話をしました。それで山口県の美祢サーキットでのオーディションに参加することができて、その結果00年をナカジマRで走れることになりました。シートが決まったのが3月、本当にギリギリでした。
 ずっとフォーミュラ路線だったので、頭のどこかでフォーミュラに復帰したいという気持ちはありました。でも結局、Fニッポンに乗ったのは02年だけ。そこからはGTに集中するシーズンが続いています。

移籍後3年目のチーム ルマン。今年は開幕から優勝こそないがポイントを稼ぎ、チャンピオン争いの
中心にいる存在だ。

新たな挑戦と決意。

1年目はナカジマR、2年目はチームクニミツ、3年目の無限は2年いましたが、すぐにARTAに移籍。移籍を繰り返すことはいい事じゃないけど、移籍できるっていうのは各チームに評価されているからだと思うんです。だから、振り返ればGTでは比較的順調だったのかなと。
 意識が変わってきたのはファーストドライバーというポジションで乗った03年の無限から。ニュータイヤをたくさん使わせてもらったり、僕を中心にセットアップしたり、そこで得るものは大きかったですね。次に自分が変われたなって思えたのが05年。ARTAの2年目、シャシーが新しくなってメンテナンスが童夢になり、ワークスチームの環境を得られたことで、気持ち的に成長できたんです。07年はマシンやチームの状況が良く、歯車が噛み合って念願のチャンピオンも獲れました。時間がかかったけど、そのステップの中で色んな経験もでき、自分を育ててくれ、支えてくれた人たち、それとホンダにようやく恩返しができたと思いました。
 08年もホンダで走る考えもありました。ホンダやチームからは信頼を得ていたし、色んな発言をできる非常に良いポジションにいましたから。そのままホンダに残ることも悪い選択ではなかったと思います。でも、いろいろ考えました。このポジションの中でやっていくのもいいけど、もうちょっと自分を成長させたいな、と。これまでチーム移籍は多かったけど、すべて同じメーカー内。今度はそうじゃなく、もっと違う環境に身を置いてみてどこまでやれるのかっていう挑戦的な考えでした。今まで築いてきたものがなくなり、そこで失敗したら後がないかもしれない……。それでも挑戦したい自分がいた。だから08年、ホンダからトヨタへ、ARTAからチーム ルマンに移籍する決意をしました。
 昨年は思ったように成績が出ませんでしたが、今年は開幕からポイントを重ねることができてランキング2位(9月10日現在)。チームも自分もまだ成長過程ですが、精一杯やってチャンピオンを獲りたいし、獲れると思うし、とにかく最後まで全力で戦います。

鈴鹿レーシングスクール時代の写真。スカラシップに選ばれることはな
かったが、手ごたえは充分あった。ここで学んだことは今にも生きている。

資金難で苦しい時期だったF3時代だが、年一回開催のマカオ
グランプリでは日本人初の表彰台にも立っている。

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