「参戦資金の壁をぶち破る“才能”。」 その2

VOL.29_1

石浦 宏明 

1981年4月23日生まれ、東京都出身
99年カートレースデビュー、01年もてぎFAクラスチャンピオン獲得。03年に4輪へステップアップ、03~05年はFTを戦った。06年にTDP契約ドライバーとなりF3へ。07年に名門トムスでF3を戦う一方、GT300で大嶋和也と組み王座獲得。08年よりFニッポン、GT500に上がり国内最高峰ドライバーの仲間入りを果たした。
http://ameblo.jp/ishiura/

参戦資金難に苦しむ石浦宏明選手が望みをかけて挑んだFTRSだが、
そこでも将来の道を開くスカラシップは得られなかった。
もう辞めるしかない……そんなどん底で手を差し伸べたのは
親とそれまで彼を支えてきたレース関係者。
「才能がある」本人以上にそう信じる人たちに石浦選手はサポートされ
ここぞというチャンスを拾っていく中で、突然の幸運は訪れた。
レース活動をする中で避けては通れない「参戦資金の壁」を
石浦選手は次々にぶち破り、トップドライバーに登りつめたのだった。

本当にこれが「最後」。

FTRSに合格できなかった後は、1ヵ月ぐらい落ち込んでいました。年末に開催された鈴鹿でのフォーミュラドリーム(FD)体験走行会でも1位だったんですが、そこにスカラシップがあるわけでもなく家に帰ってまた落ち込んで……。そんな事情を知った親が、いきなりこう言ったんです。「お前FTRSでもFDでも1番だったんだよな。じゃあ、やってみるか?」って。僕は説得しても無理だなと思える金額なので諦めていたんですが、広告代理店に勤めている親は初めて僕がカートに乗った時のカート大会のメンバーたちにも協力してもらってスポンサー活動をしてくれた。そして03年、トリイレーシングからにフォーミュラトヨタ(FT)にデビューできたんです。
 FT初年度は、中嶋一貴、小林可夢偉といったメンバーと戦っていました。シーズン途中まで3人でタイトル争いをしていたんですが、僕はなかなか1勝を挙げられず、最後は自滅する形でふたりに離されてしまった。結果はシリーズ4位。僕としては全財産を注ぎ込んで臨んだような1年だったので、もうこれ以上は親にも頼れない、ああこれで終わりだなって覚悟していました。ところが、以前オーディションを受けたチームから誘いが来て、破格の参戦資金で1年間走らせてもらえることになったんです。ただ、その04年は何をやっても成績が出なくて、シーズン途中から左足ブレーキ習得に専念してシリーズは6位。今後どうするか04年オフは悩んで、本当にこれが最後と言い切って05年に服部尚貴さんのチームナオキでもう1年だけやらせて欲しいと親にお願いしたんです。

今年勝利を挙げたスーパーGTだけでなく、石浦選手は国内最高峰フォーミュラレース、Fニッポンでもトヨタのエース的な存在。
まだ初優勝はないが、その日がぐんぐん近づく気配をレースごとに感じさせている。 

「レースを続けるべきだ」。

服部さんが鈴鹿に行くというのを聞きつけて親と一緒に鈴鹿へ向かい、「チームに入れてください」とお願いしたら、服部さんは「じゃあオレが判断してやる」と言ってくれました。「今年1年でダメだとオレが判断したら、きっぱりレースを辞めさせる」。そう約束させられて、トリイレーシングからチームナオキの一員として05年を戦いました。
 その年はGC21というカテゴリーにも出ました。GC21はF3の練習にもなりますからね。両カテゴリー並行して参戦する相乗効果で、GC21は5戦5勝でチャンピオンになれ、FTのレースでは2勝できた。結果的にFTはチャンピオンになれなかったけど、服部さんも親も「続けるべきだ」と判断してくれました。とはいえスカラシップもなく、僕にできることはF3全チームに連絡をして「乗せてください」とお願いすることだけ。でも、「もうドライバーは決まっている」という返事しかもらえなかった……。
 12月、インギングというチームのF3テストで5周程乗せてもらうチャンスを2回もらって、F3でもやっていける手ごたえを僕はつかんでいました。出られれば結果も出せる。そう信じて、トリイレーシングで頭を下げてF3エンジンを貸り、山口県のインギングまでトラックで行ってF3シャシーを貸してくださいとお願いして何とかマシン一式をそろえることができ、2月の岡山のF3合同テストに参加できる準備が整いました。テスト前週、僕は大学に退学届けを出しにも行きました。

国内最高峰Fニッポンでは、ものすごい握力と腕力が必要。レース後には手にマメができ痛々しく弾けている時も……。

幸運の電話が鳴った。

通常の合同テストはシリーズ参戦するドライバーしか走りません。そんな中、急に僕がやって来てトップタイムを連発したので、他のチームは驚いていました。ずっとトップタイムでしたが、トムスやホンダ勢がタイムを上げて最終的に4位。でも、僕はクラッチが壊れていて滑りながらの4位だったんですよ。それがなければ、ぶっちぎりの1位だったと後で分かった時は満足でした。
「あんな状態で実質トップなんだからシリーズに出ろ」とその結果を受けてチームには言われたんですが、資金的には厳しくて自分ではどうしようもありませんでした。でも、突然電話が来たんです。2月末に関谷正徳監督から。「オーディションをする。それに合格したらTDPに入れる」と。
 そのオーディションに合格してナウ・モータースポーツからF3に出られることになり、最終戦での勝利が評価されて翌年トムスに移籍することができました。トムスは最強チームなので結果もともない、FニッポンとGT500へもステップアップ。そこからは順調だったと思いますが、自分で振り返ってもトムスに入るまでの苦労は相当だったなと思えます。ただ、自分ひとりの力だけではなく、苦労している時に自分をサポートしてくれる人たちに恵まれていたのも事実。そういう人たちへの恩返しのためにも、さらに高いところをこれから目指していきたいです。

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