「急がず、焦らず、自分のペースを守って。」 その1

VOL.27_2

三橋 淳 

1970年7月2日生まれ 東京都出身
01~03年に2輪部門でパリダカに参戦。その活躍が認められ、04年からニッサンの育成プログラムを受けて4輪部門へ転向、市販車部門で参戦を果たす。06年には改造車部門にでステップアップした。07年よりトヨタ車体と契約して、市販車部門で部門優勝。08年は大会中止となったが、08年以降も継続して参戦し、先日の2010年大会では2度目の市販車部門優勝を飾った。
http://www.jun38c.com/

コンマ1秒を競うレースの世界とは違うラリーの世界。
主催者から渡されるコマ図、
そしてGPSを頼りに自分の進むべき方向を見出して「ゴール」を目指す。
三橋が始めてパリダカに参戦したのは01年。
2輪部門のエントリーから始まったそのラリー人生は
最終的に彼が予想しなかった方向へと向かう。
現在につながっている彼が歩んできた「ルート」は、
いかにナビゲーションして見つけ出したのか?

なぜ始めたか分からない(笑)

モータースポーツに興味がなかったけど、小さい頃にボーイスカウトをやっていて山遊びが好きな子だったんです。アウトドアで遊ぶことが多かったので、マウンテンバイクにも早くから手を出し乗り始めました。オートバイの免許を取ったのが16歳。なぜ取ったかいまだに分からないけど(笑)。
16歳で資格が取れるということに興味を持って、取れるなら取っておこうかみたいな。で、免許を取ればオートバイが欲しくなり、ホンダのXLRというオフロードバイクを買いました。普段の足やツーリングにしか使ってなかったんですけど、折りしもバイクブームが日本に来てオフロードレースの数も増えていきました。行きつけのショップに誘われて出場した草レースが、僕のモータースポーツへの第一歩でした。
 その初レースでは、とくにあまり成績を出してやろうとか気負ったりはしていませんでした。参加台数が1000台ぐらいいて「すげぇな」って思ったぐらいで。二人組で出場してクラス15位ぐらいだったのかな。その時はスキー場のゲレンデを使っていたコースでしたが、「今度は本当の山道でのレースがあるよ」って誘われたのが完走率の低いと言われる北海道のレース。そういう感じでレースに出るようになっていきました。
 バイクレースを始めた頃にパリダカが日本でドーンと盛り上がって、いろいろと情報が入ってくるようになり、完走率の低い北海道のレースで完走できたんだからパリダカも完走できるんじゃないのって何の根拠もない自信を持っていたのを覚えています(笑)。ただ、今思えば少年のたわごとでしかないですけど。実際に行動に移していませんし、オートバイのレースも趣味の延長線上でしかなかったので。27~28歳までそんな感じで過ごしていましたね。

パリダカのルートは森林地帯や沼地、乾燥地帯などさまざま。砂丘で視界がせまくなる砂漠のステージは、スピードを落とすとタイヤが砂に埋まってしまうのでとくに慎重な運転が必要だ。

3年計画で始まったパリダカ。

転機がやって来たのは29歳。ホンダの社員クラブがあるんですが、そこと仲良くなり面倒を見てもらっている中で、オートバイを「好きに使っていい」と言われたんです。最初は「えっ」て思いました。それはつまりレースに出ろってことなのかなって。当時は年に1~2回しかレースに出ていない状況。でもオートバイが出た以上、こりゃ出なければと思って年間6戦ぐらい出ましたね。比較的エントリーが多い大きな大会に出たんですが、全部勝ってしまった。全部勝つと翌年はサポートでパーツを出してやるとか待遇がよくなっていくわけです。それで新型オートバイXRシリーズが出るタイミングあたりから、「パリダカに出た方がいいんじゃないの?」みたいな雰囲気が自分の周囲に漂い始めた。で、企画書を持って行ったらポンポンって話が決まったんです。
 最初に出たのが01年です。幸運だったのはパリダカ参戦を後押ししてくれたのが広報部で、まだ1回も出ていないのに3年計画にしようって最初から言われて、3年間参戦できることが最初のレースから決まっていたこと。今までプライベーターで出るとなるとメカニックなしとか、パーツ持たずに行く人が多かった。それじゃ話にならないので、僕はメカニックを連れて行くことを大前提として、パーツもできるだけたくさん持っていけるように手配しました。
 現地に行く前までは他にもラリーに出ていたから雰囲気も何となくこんなんだろうって思っていたんですけど、予想以上に大きな大会だったから完璧に会場の空気にのまれてしまいました。本当に空回り、ペースを上げたら崖から落ちるとか。完走はしましたが、オートバイのトラブルもたくさん出てしまいました。
 翌年の参戦まではトレーニングに明け暮れる毎日でした。モトクロスレースに出て技術的、身体的なレベルを上げたり。ただ難しいのは、パリダカと同じシチュエーションが日本にないこと。砂漠、岩場、沼地といった場所もそうですし、170~180キロのスピードを出してギャップを超える練習もできません。ヨーロッパのライダーたちは、パリダカ以外の他のラリーに年5~6戦出て、場数を踏んだだけレベルアップしてきます。サポート態勢もいい。そういう部分でのつらさっていうのはありましたが。でも、2年目の慣れとトレーニングの甲斐があって、翌年の2回目の参戦はSSでもいいところを走れて、最終的にプライベーターのトップ賞。そしたらホンダから「次は全面バックアップでいこう」って話になり、翌年はかなりいい体制で出させてもらって……。
 3年計画という短い期間の中にも結構浮き沈みがあったなと当時は思っていましたが、この後にもっと大きな転機が待っていました。

02年プライベーター最上位となり、03年は万全の体制で臨むことに。ただし、「3年計画」終了後の将来については未定だった。

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