「夢と安定、僕は夢を選ぶ。」 その1

VOL.26_3

井出 有治 

1975年1月21日生まれ 埼玉県出身
90~93年という短いカート活動後に全日本F3選手権に挑戦。99年にフォーミュラドリーム初年度チャンピオン獲得後に再び全日本F3選手権、全日本GT選手権へステップアップを果たす。02年フランスF3参戦後は国内に戻りフォーミュラ・ニッポン、GT500を戦う。06年にはスーパーアグリF1チームからF1参戦も果たした。
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サーキットのドライバーというと輝いていて一見華やかだが
実際にはあの表舞台に立つまでに多くの苦労を重ねてきている。
井出有治もまた苦労多きドライバーのひとり。
まず4輪へのステップアップの段階でつまづき、
一時はまったくレースができず、
プロレーサー・星野一義氏のカバン持ちをしたことも……
そんな彼に、今につながる波乱万丈な日々を振り返ってもらう。

F1ブームの中で。

小さい頃から乗り物が好きだったんです。自転車を含めて自分で操るっていう行為がすごく楽しくて、車に関しては父が車好きだったり、レースはうちの兄貴が雑誌をたまに買ってきてそれを見ていたり、そういうの全部を含めてレースを始める“きっかけ”になりましたね。ポケバイにも興味を持ってやりたいなって思いましたが、バイクとかレースっていうのに対して母が反対してやれませんでした。
 実際にレーシングカートを始めることになったのは15歳の時。実家が埼玉の浦和なんですけど、その近所にカートショップがありお店をのぞいたんです。バイクじゃないんだからいいでしょみたいな感じで母を説得して、自分でもバイトをしながらスタートさせました。
 最初は埼玉や茨城のローカルレースに出てたんですけど、当時はF1ブームでエントリー台数がとても多かった。地方選手権に出た時なんか1クラス、130台ぐらいエントリーがあって半分以上が予選落ちとか。それぐらい当時のカートレースはレベルが高かったんですよ。

03年からフォーミュラ・ニッポンに参戦。04~05年はチャンピオン争いに加わり国内トップレベルの実力を証明した。

「このまま終われない」。

カートをやっていた頃はレーシングドライバーになりたいっていうよりも、ただ乗ってて楽しいっていう気持ちが強かった。もちろん、なりたいっていう憧れはあったけど、具体的に将来像まで考えられてはいなかったですね。今のようにカートと4輪っていうつながりもなく、どうやって上にステップアップしたらいいのかがまったく分かりませんでしたし。(鈴木)亜久里さんや本山(哲)さんも僕と同じカートチーム出身で、スタッフの人たちと仲がいいというのは聞いていましたが、当時の僕にとってはかけ離れた人たちでしたから。カート時代はとにかくガムシャラにやっていました。
 転機というかステップアップしようってことになったのが、最終的に全日本選手権を含めて3年半ほどカートレースをやった後のこと。今思えば、ムチャでしたね(笑)。いきなりF3ですから。たまたま知り合いにF3車両を持っている人やレース好きの人がいて、その人たちの協力で筑波サーキットをF3で走らせてもらった。そしたら結構いいタイムで、「レースに出てもいいんじゃないの?」っていうノリで、本当に無謀な流れでステップアップした感じですかね。当時、ミドルフォーミュラにはフォーミュラトヨタというカテゴリーがあり、そこで経験を積んでF3に上がるというのが普通で、いきなりF3に乗る人はほとんどいなかった。今、そういうことしようとする若者がいたら、実際に自分でやった僕ですら止めますよ。そんなムチャはよせって(笑)。

GT500には00年にスポット参戦。フランスから帰国後、本格的にGT500を走り、F1参戦前後で中断はあったものの、昨年からTEAM KUNIMITSUのRAYBRIG NSXを走らせる。

決して計画的ではなかったから、エントリーして出たけどステップアップするためにどういうふうにレースしてどういう結果を残してっていうのをきちんと考えてなかったですね。今は分かるけど当時は何も分からず、テストしないで年間数レース出て……無駄とは言わないけど、後々に苦労しました。僕の場合は数戦出て資金もなくなって、その先の道が完全に見えなくなってしまったので。
 で、どうしようかって時に星野一義さんを紹介してもらって、星野さんのカバン持ちを2年ぐらいやらせてもらうことになった。星野さんも4輪上がってすぐの時、クニさん(高橋国光)とか先輩が走っているのをコースサイドでフェンスにへばりついて、音を聞きながらアクセルワークを勉強したりという下積みの経験を持ってて、「お前もそういうことやらないと一流になれないからやれ。カバン持ちやれば交通費、宿代も出してやるから、とにかくサーキットに来い」って言ってくれて。朝サーキットに着いたらピット前の掃き掃除から始まって、ヘルメット拭いたり着替えを干したり。走行中はピットにいなくていい、お前はコースサイドで勉強してろって言われて、コースサイドでずっと勉強していました。
 そんな中、結果を残してないのに松本恵二さんや5ZIGENの木下正治社長に応援してもらって、再びF3に復帰する機会を与えてもらいスポット参戦もしました。ただやっぱり、しっかりとシーズンに集中できる環境や体制が整ってなくて、次いつ走れるのかも分からない中途半端な状態でした。カバン持ち時代、丸1年まったくレースできない時期があって、このまま終わるのかなって思ったりもしました。
 ある日、鈴鹿サーキットで開催されたフォーミュラ・ニッポンとF3のレースについて行ってコースサイドで観ていた時、自分がそのグリッドに並んでいないことがすごく悔しくて……ひとりで泣いてました。自分もあそこのグリッドに並んでレースをやってやると、強く思ったのを今でも覚えています。(以下次号)

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