「待っていても始まらない。自分から動けば扉は開く。」 その2

VOL.25_3

吉本 大樹 

1980年9月2日生まれ 大阪府出身
99年にFJ1600で4輪デビュー。02~03年に全日本F3に参戦し、05~06年はF1直下のGP2に挑戦。国内ではトヨタの支援を受ける時期もあったが、ヨーロッパでの活動はすべて自分で交渉して道を開いてきた。ヨーロッパに戻ることを誓いながら、07年以降は国内に戻り、09年はS耐、スーパーGTで活躍中。
http://www.hiroki-yoshimoto.com/

レースをするためにオーストラリアから日本に戻り、
FJ1600という底辺からレースキャリアをスタートした吉本選手。
語学力と行動力でワンチャンスを逃さず欧州への扉を開き、
F1直下GP2まで上り詰めた矢先に、いきなり将来が白紙に……
夢が散った07年、
再び国内に帰ってきてから彼が進めているのは、
閉ざされた扉を再び開くための準備だった。

F1まであと一歩。

最終的にチャンスって待っていても向こうから来ない。自分から探しに行かないと。国内でレースをやっている時、自分が出ていないレースにもすべて顔を出していました。チャンスはどこに落ちているか分からないし、行かないより行った方が見つけられる可能性は高いので。あとチャンスを生かすためには本番に強くないといけません。チャンスって何回もあるわけじゃなくその瞬間しかないから。レースの場合だとテストをさせてもらい(テストさせてもらうまでにも高い壁がありますが……)、そこで関係者をうならせるタイムを出す。それが一番。そこでタイムを出せなかったら終わり、その先にはまったく何もない。僕の場合、ここでチャンスつかめなかったら明日からコンビニでバイトでもするかっていう状況だったんです。そういう局面に行けば誰でもできるはず。もしできないのなら、それは極限まで自分を追い詰めていないんだと思います。
 ユーロF3選手権に参戦しているスイスレーシングがテストで認めてくれ、03年F3世界選手権マカオGPと、コリアSP参戦のチャンスをつかめヨーロッパへの扉が開けたと前回お話しましたが、その先の道が何も決まっていませんでした。白紙だった04年は国内に戻り、以前からかわいがってもらっていた5ZIGENの木下社長のもとでアコードを走らせました。また別で、JGTCでヴィーマックを走らせるチャンスをもらったり。そんなシーズンを送る中、レースマネージメント会社から連絡があったんです。ワールドシリーズ・バイ・ニッサンに参戦するドライバーの通訳をやってくれる人を探していると。チャンスだなって思いましたね。
 通訳で行ったレースの翌週にテストがあって、そこにはさりげなくヘルメットとレーシングスーツを持って行きました。目的は僕自身もテストに参加するためです。事前のレースでしっかりと任務をこなし、いざテストの時になって「10分でいいから乗せてくれ」とマネージング会社とチームに交渉し、走らせてもらいました。最終的に残り2戦そのワールドシリーズ・バイ・ニッサン参戦の約束まで漕ぎ着けました。車がねじれててアライメントも出ないようなマシンでの参戦だったので結果はイマイチでしたが、それがさらに次のステップにつながった。マカオGPがきっかけで知り合ったマネージャーがヨーロッパのF3000テストができるように取り付けてくれ、またそのテストでの調子が良くて(笑)。コンディションも良かったんですけど、レコードタイムより1.5秒速いタイムを出せたので、05年のGP2参戦に繋がったんです。2年目の06年はF1のチーム関係者ともすごくたくさん話をして、F1参戦まで本当にあと一歩というところまで話が進んでいました。

08年に参戦したGP2アジア。ここで活躍してヨーロッパのGP2へ返り咲く道も模索したが、トップチームの資金的な壁に断念せざるを得なかった。

09年は再び5ZIGENのNSXでスーパー耐久シリーズを戦う。
第5戦で勝利、現在ランキング2位でチャンピオン争いに加わっている。

意地でもリベンジしたい。

歯車が狂ったのは、F1参戦に向け10年契約していたマネージメント会社が急に「辞~めた」と言い出したこと。何よりそれが07年2月に起こったのが痛手でした。シーズンイン直前だったので。また全て白紙に逆戻りですよ。
 国内に戻って5ZIGENの木下社長の元に毎日通って、何とか空いていたフォーミュラ・ニッポンのシートに座らせてもらえることになった時はホッとしたけど、そこからがまたイバラの道で……。08年は過去最悪最低なシーズンでした。何をやってもうまくいかず成績も散々。起用してくれた木下社長のためにも結果を残したかったんですが。思い出しても嫌な気分になる、二度と経験したくない1年です。
 その年の暮れ、GP2アジア参戦で自分の力が劣っていないことを確認できたのがせめてもの救いでした。アジアでフォーミュラルノーV6を走らせているチームのオーナーが連絡をくれたんです。そのレースはオーディション的にGP2アジアのドライバー選定も兼ねていて、僕はレースで優勝してGP2アジア参戦の切符を得られました。Fニッポンで落とすだけ評価を落としてて、自分のドライビングがおかしくなったんじゃないか……と思うこともある中、自分が間違っていないとそこで確認できたんです。
 今年もレースの拠点は日本国内で、S耐とスーパーGTに参戦しています。もちろんヨーロッパのレースに戻りたいって気持ちが強いけど、それよりもFニッポンでリベンジしたい気持ちが今は一番かもしれません。あのままでは終われない。ただの意地ですけど、あんなもんじゃないっていうのを証明したい。そのチャンスを今は探している最中です。

07年に国内へ戻り5ZIGENからフォーミュラ・ニッポンに参戦。最高13位、シリーズノーポイントという苦しい結果だった。

レースと平行して「doa」という3人組のバンドのヴォーカルも務める。8月にはニューアルバム「FRONTIER」をリリースしたばかり 。

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