「待っていても始まらない。自分から動けば扉は開く。」 その1

VOL.25_2

吉本 大樹 

1980年9月2日生まれ 大阪府出身
99年にFJ1600で4輪デビュー。02~03年に全日本F3に参戦し、05~06年はF1直下のGP2に挑戦。国内ではトヨタの支援を受ける時期もあったが、ヨーロッパでの活動はすべて自分で交渉して道を開いてきた。ヨーロッパに戻ることを誓いながら、07年以降は国内に戻り、09年はS耐、スーパーGTで活躍中。
http://www.hiroki-yoshimoto.com/

憧れ続けていたレース活動をオーストラリアでスタートさせ日本国内へ
頂点F1を目指して底辺からはいあがっていく吉本選手が武器にしてきたのは
オーストラリアで身につけた語学と、
誰かに期待したりするのではなく何でも自分から動いていく行動力。
FJ1600という入門フォーミュラからF1直下GP2までの
階段を駆け上がった吉本選手の苦闘の日々をひも解く。

レースをするために日本へ。

父親の仕事の関係でオーストラリアとの接点があり、小学校6年生になってすぐの11歳から18歳まで、僕はオーストラリアに住んでいました。14~15歳の時だったと思うんですが、友達の家に遊びに行った時に古いレーシングカートが眠っていると聞いて、それをもらえることになったんです。その時点で15年落ちぐらいのカートやったんですけど、中古のエンジンを買って、タイヤもゴミ箱から拾ってというめちゃくちゃなマシン。僕自身、知識もないから走らせ方も知らなくて、ガソリンを混合しなければいけないことすら知りませんでしたが、それで数回走らせたのが僕のレース活動の原点でしたね。
 レースをやりたいという気持ちは小さい頃から持っていました。ただ、オーストラリアで日本人がレース活動をしていくっていうのはすごく難しいんです。実績もないし、スポンサーも取れない、日本でやるより困難。オーストラリアってレースが盛んなんですが、ツーリングカーのレースが人気でそれがメイン。僕の中ではF1ていう大きな目標があり、底辺からフォーミュラカーレースをやらなければいけないことも分かっていました。だから18歳になってレースするために日本に帰ることを決意したんです。オーストラリアで乗っていた乗用車売って日本までの航空券代を作って。
 日本に戻ってレース雑誌でレーシングガレージを調べて、まずはそこを訪ねました。しばらくはパチンコ屋の寮に住んで、朝から晩までパチンコ屋でバイトをしながら、そのお金をレースに注ぎ込む生活を送っていました。
 日本国内での最初の4輪レースはFJ1600というカテゴリーです。2回練習して、すぐにレースに出始めて半年で卒業して、翌年の00年にはフォーミュラトヨタというカテゴリーにステップアップしていました。フォーミュラトヨタでは、4位、5位がやっと。資金的に厳しく、他チームにブレーキパッドをもらったり、オイルも支給されたものを使ったり。そのシーズンは資金的なスポンサードを受けてもいたんですが、結果が残せなかった1年で何もなくなってしまいました。

11~18歳までオーストラリアで育ったためか、日本のレース界ともしっくりこないところがあったのは事実。再び海外へ羽ばたいたフォーミュラコリア時代は伸び伸びレースをしていた。

ヨーロッパでつかんだチャンス。

本当に何もなくなってしまった時、ウエストという日本のコンストラクターが韓国でF1800というレースをやっていることを知ったんです。幸いにもスポンサードしてくれる企業が見つかり、そのF1800にスポットで1戦出るチャンスをもらえました。レースの結果は2位だったんですが、僕の走りを見てチームが「来年、お金はうちが持つから乗ってみないか」と誘ってくれたんです。
 韓国ってレベル低いように思うけど、バンピーでせまいし、すごくコースが特殊で覚えることが多い。走行時間も日本とは比較にならないぐらいたくさん走れる。それで走り倒して僕はチャンスをもらった01年にチャンピオンを獲ることができました。チームは「来年も一緒にやろう」という声を掛けてくれていたけど、僕はさらに上を目指したい気持ちが強く、F1800に参戦する傍ら、トヨタが日本国内で開催するFTRS(フォーミュラトヨタ・レーシングスクール)にも参加していました。02年は最終的にトヨタの支援を受けて全日本F3を走れることが決まったので再びレース活動の拠点を国内に移しました。ただエンジニアがいないチームだったりハード面で強豪チームに届かなかったりして、1回優勝することはできたけど、2年間戦った全日本F3で目立った成績は残せませんでした。また「翌年はシートがないな」という雰囲気が漂ってきたので、ヨーロッパでシートを得るためにスイスレーシングというチームにコンタクトを取ってみたんです。F1に行くためには、ここで足踏みをしていてもダメだって。交渉の結果、ホッケンハイムでのテストに参加できることになり、すぐに向かいました。
 そのテストではニコ・ロズベルグとか現F1ドライバーの姿もあり、自分が飛び込んだ世界の大きさをまず知りました。テスト当日の天候は大雨で僕は大クラッシュをしてしまうんですが、当時ユーロF3を走っていたドライバーたちよりもタイムは速かった。それでチームに認められ、クラッシュでこっぱ微塵になったマシンの修理代もいらないというぐらい、最終的に僕を見込んでくれたんです。それが、ヨーロッパへの扉が開けた日でした。(以下次号)

99年日本に戻って間もなく、FJ1600を始めた頃。どうやったら上級カテゴリーに上がれるのかも分からずガレージを訪ね、半年で卒業してフォーミュラトヨタに挑戦する。

F3で認められた後、05~06年はGP2に参戦。メーカー支援を受けずにヨーロッパでレース活動を続けるのが厳しい時代にそれを貫くように実践。堪能な英語を武器にチーム交渉もほぼ自力で進めF1まであと一歩だった。

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