「未完成から生まれる“努力”そこに楽しみを感じられるか。」 その1

VOL.24_3

松田 次生 

1979年生まれ 三重県出身
14歳からレーシングカートを始め、97年にSRS-F卒業。98~99年全日本F3参戦、99年のF3マカオGPでは総合4位を獲得した。00年からフォーミュラ・ニッポン(07~08年チャンピオン獲得)、スーパーGTの国内最高峰レースに参戦し、両カテゴリーでトップドライバーとして活躍中。現在の愛車はフェアレディZ 。
http://www.tsugio.com/

07~08年に国内最高峰であるフォーミュラ・ニッポンで連覇
世界最速のハコレース「スーパーGT」でも毎年優勝を重ね
現在、国内トップドライバーの地位に君臨する松田次生選手。
天才肌ではなく努力家だったと自身が語るように、
負けず嫌いの性格が上昇気流を生み、彼を頂点まで導いた。
しかし、わずかな気の緩みから「転落」を経験――
そんな過去の苦闘時代と再起までの道程を振り返ってもらう。

佐藤琢磨に勝つために。

物心つく前からミニカーが好きで、小学校ぐらいからほとんどの車の車種を言い当てることができたぐらい覚えていました。スポーツカーが目の前を通るたびに、あれ何、あれは何、マフラーが換わってるとか、とにかくマニアックな少年で(笑)。
 レーシングドライバーというのを意識し始めたのは、F1日本GPを初めて見た時からです。それからレーシングカートを始めて、鈴鹿レーシングスクール・フォーミュラ(SRS‐F)に入校したのが97年。僕が自動車の免許を取れる18歳になる年です。同期には佐藤琢磨選手、金石年弘選手の他に、全日本カート選手権に出ている人がたくさん応募していて、選ばれるだけでも大変なことでした。しかも同期の琢磨選手や年弘選手は運転免許を持っていましたが、僕は免許も持たずマニュアル車の経験すらありませんでした。入校当初はかなりハンデがあり、それがタイムとしても表れていましたね。だから、その年の6月に免許を取ってからは必死でした。新車のシビックを買って鈴鹿サーキット南コースでヒール&トゥの練習をしたり、一般道を走ってて信号で止まる時もシフトダウンの練習をしたり。とにかく皆よりも遅れているから、そういう部分で努力するしかなかったんです。
 その甲斐があって、スクール卒業は琢磨選手、金石選手に次ぐ3位で卒業。翌98年から全日本F3に参戦する道が開けました。ただ3番目なのでテスト時間も少なく、レースはほとんどぶっつけ本番なんですよ。だから各サーキットを覚えるために、自分のシビックでまず走り込みに行ってました。3ドアのシビックだったので宿泊もリヤのシートを倒せば寝られるので、積んでいった布団を敷いて車中泊なんてこともありましたね。当時は頑張るしかないと思っていたので苦痛ではありませんでしたが、そういった姿勢っていうのが大事だなというのは今でも思います。F3デビュー戦、SRS‐Fではずっと負け続けていた琢磨選手や年弘選手より好結果だったし、ふたりよりも先に初優勝を挙げられました。努力が結果として実ったわけです。でも、人間ってすごく弱い生き物ですよね。上昇気流に乗っている時は、自分がすごいんだと思い込んでしまって、周りの支えや自分自身の努力のことを忘れてしまう……。

上昇気流で一気に国内最高峰フォーミュラまで登りつめ後に待っていた「試練」。写真はゼロから再出発するために決意を固めた03年当時。

97年から地元の三重県鈴鹿サーキットで開催されるレーシングスクール(SRS-F)に入校。松田同様にスカラシップを勝ち取った卒業生の中には佐藤琢磨もいた。

F3参戦2年目の99年、全日本シリーズでの成績こそランキング5位だったが、1年に1回開催されるマカオGPでの世界一決定戦で総合4位に輝き注目を集める。

知識がゼロだった。

98年、欠場者がいたため代打でフォーミュラ・ニッポン(FN)にスポット参戦して4位。いきなり入賞して周囲から注目され、翌99年にはF3のマカオGPで4位、00年からレギュラードライバーとしてFNにステップアップして3戦目にいきなり初優勝。トントン拍子に結果が出て、そこでちょっと天狗になってしまったんです。こんなに楽に国内最高峰のフォーミュラレースで優勝できて、自分ってすごいのかなと思ってしまったんです。SRS‐F時代に比べると、努力も怠っていました。
 F3より上のフォーミュラレースにおいては、ドライビングテクニックだけでなくドライバーがマシンを正しくセットアップできる能力が問われます。そのためには車の構造や理論など、専門的な知識が必要になります。それを僕はまったく勉強していなかったんです。要は、車はドライビングテクニックだけで速く走らせられると勘違いしていたんです。自分が3戦目で初優勝できたのはチームが用意してくれた速いマシンがあったから、上位陣に混乱があり運が良かったから、そういうことを考えられなかった。マシンをセットアップできないので、成績はどんどん落ちていきました。02年に所属したトップチームをクビになって初めて、気がつきましたね。戦闘力のないマシンで03年以降参戦する中、自分はこれまですごく恵まれた環境にいた、ずっと自分自身の努力を止めていたな、と。
 03~05年は本当にどん底の中でのFN参戦でした。結果は出ない、翌年のシートも危ういという。ただ自分に足りなかったもの――マシンを速くするためのセットアップの勉強は貪欲なぐらい勉強しました。本当にゼロから、努力を積み上げていったんです。(以下次号)

00年から国内最高峰のフォーミュラ・ニッポンに参戦。F1帰りの高木虎之介、後にF1へステップアップしたラルフ・ファーマン(写真)ら、松田のチームメイトは常に強力ドライバーだった 。

03年以降は戦闘力のないマシンを駆りフォーミュラ・ニッポンに参戦。気持ちは先走るが、結果が伴わない日々が続いた。

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