「速く走ること」と「エコドライブ」。それは一つにつながる。 その1

VOL.20_2

石井 昌道 

1967年生 東京都出身
富士フレッシュマン・レースにも参戦経験をもつ、元Tipo誌の副編集長にして現在フリーランス・ジャーナリスト。丁寧なクルマ分析には定評がある。クルマ雑誌のみならず一般誌にもそのフィールドを広げ活躍中。かつてはレア車を乗り継いでいたが、今はハイブリッドにゾッコン。現在、省エネルギーセンターのエコドライブ・インストラクターを務める。

自身のレース経験を活かした丁寧なクルマ分析に定評がある
モータージャーナリスト、石井昌道氏。
古くからのTipo読者には編集スタッフ“生倉ボン”の名前に
親しみを感じるかもしれない。
Tipo編集部を経て、
現在は省エネルギーセンターのエコドライブ・インストラクターを務めるなど、
モータージャーナリストとしてクルマ本来の楽しさと
「エコ」の関係に真っ正面から取り組んでいる。
今回はそんな石井昌道氏にお話を伺がった。

編集の面白さを実感。

編集の世界に入ったのは、大学でフラフラしていたボクに雑誌の編集者だった知人が「就職はどうするんだ」と世話を焼いてくれたのがキッカケで「クルマ好きならクルマ雑誌のバイトでもやれ」と紹介してくれたのが『Tipo』。大学3年生の時でした。編集者を目指したのではなく、バイトからそのまま居着いてしまったのが正直なところで、就職活動もしてないんです(笑)。
 最初は本の発送などの雑用、その後読者のページや新製品のページを担当するようになりました。当時の編集部はマンションの一室で、まだ創刊10号ぐらいのTipoはまったく売れてなかった(笑)。イベントなどの取材先でも「Tipoって何?」みたいな反応だったし、日本一周企画で予告した訪問地に着いても出迎えは2~3人程度。
 それが2年位経つと、Tipoのステッカーはすぐになくなるし、ハガキは処理しきれない位届くようになり、日本一周企画も人員整理が必要なほどになりました。ボクと同世代の読者が多かったようで、励ましのお便りをいただいたり、こちらのミスで受けたお叱りやクレームを『申し訳ございませんでした』とそのまま誌上でさらけ出したら、逆にそれが評判になったり。だんだん右肩上がりに売れて行く過程での読者とのやり取りは、本当に面白かったですね。そんな成長期に立ち会えたことで編集者としての仕事の面白さに目覚めたように思います。読者に成長させてもらったと感じています。

駆け出し編集者時代、ドライビングテクニック修得するために始めた“修行”は本格的なレース参戦へと発展し「一時は本気でレーシングドライバーを目指そうかと思ったこともありました(笑)」。その後もジャーナリストとして様々なイベントレースに参加。「メディア対抗ロードスター4時間耐久レース」では'06年、'07年と連続優勝を果たしている。

ドライビングテクニック追求の原点、「生倉ボンのまじめな武者修行 Vol.1」(Tipo No.24 1991 6月号掲載)。“編集者は「速く走る」必要はない。大切なのは、安全に、そしていかにクルマに負担をかけないように「スムーズに走る」ことができるかだ。この2つは全く別物というわけではないし、ボクは片方ができれば両方ができるのではないかと考えている”と書いている。以後、石井氏のドラテク修行が連載され、人気のコーナーとなっていった。

走りに目覚めて。

ボクはスーパーカーブーム世代で、住んでいたのが当時スーパーカーの有名ショップが並ぶ環八(東京環状八号線)沿いでしたから、初めて夢中になったのはやはりスーパーカーですね。それから族車系。昔はそんなのが環八をバリバリ流していましたから、その影響で(笑)。次に国産車のハイパワー競争時代になり、ハイパワー車に興味が移っていきました。高校生になるとクルマ雑誌で知識だけは増えて次第にエンスー系志向になっていきましたが、大学4年で初めて自分のクルマを買う時にはハイパワーではない走り系のクルマに好みが変わって、プジョー205GTIと迷った挙げ句、ユーノスロードスターを購入しました。
 Tipoに入った頃はまだ自分のクルマはなくて、家族や友人のクルマを借りて乗る程度で、知識はあっても実践が伴わない耳年増状態。そんな中でロードスターを買ったんですが、自分で思うほど運転が上手くないことに気付いたんです。取材でレーシングドライバーやモータージャーナリストの話を聞いても実際に運転していないと理解できないことがあって「これはマズイ」とドライビングテクニック向上の必要性を強く感じたんです。だから、本来Tipo的には『エンスー道まっしぐら』のハズが、ボクの場合ドライビングスクールに行き、サーキットを走り、レースへの本格エントリーと『走りまっしぐら』に突っ走ってしまいました(笑)。その経緯をTipoに連載しましたが、最初は雑誌の内容とマッチしないので編集部内でもいい顔をされなかったんです(笑)。でも、徐々に本流である伊車や仏車のレースが行われるようになり、ボクの出番がまわってきたんですよ。

ドラテク追求の開眼から2年目の'93年には富士フレッシュマンレースにデビュー、ユーノスロードスターN1クラスにフルエントリーした。翌'94年には最終戦で5位を獲得。この参戦レポートもTipoに連載された。

レースカーはグルメ料理。

レースは'92年に初めて参加し、'02年まで全日本選手権クラスで走りました。その中で培った知識や経験は大きくて、ボクのクルマに対する考え方のベースにもなっています。また、そこでしか出会えないような人達との人間関係が生まれたことも大きな財産ですね。
 レースの面白さは走ることだけではありません。例えばN1クラスのクルマでも、市販車をベースにレーシングパーツを各部に使い、軽量化や補強をしてもう一回組み直す。タイヤも高いグリップ性能を発揮する反面、15周程度でなくなってしまうスリック。市販車では使えないような高価な部品や材料を使うわけで、料理でいえば最高の素材をふんだんに使用したグルメ料理のようなもの。そんな贅沢なクルマを味わえることもレースの魅力だと思いましたね。
 そうした経験を積む中で、企画、取材、原稿依頼と様々な仕事をこなす編集者から、どこか一つに徹したいと思うようになりました。レースでいえばメカニックとドライバーとマネージャーを一人でこなすような感じだったので、分業して一つの役割に徹すれば、仕事の内容を深めていけると思ったんです。それで14年間お世話になったTipo編集部から独立してジャーナリストになる決心をしたんです。(以下次号)

'95年からミラージュワンメイクレースの地方戦“ミラージュ・カープラザカップ・シリーズ”に参戦、'96年には全国区の“ミラージュ・インターナショナル・ラリーアートカップ・シリーズ”にステップアップし本格的にレースのキャリアを積んでいく。(写真は'97年のティーポRTスノコミラージュ)

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