言い訳がきかない条件まで追い詰めて結果を残すのがドライバー。

VOL.2_1

影山 正彦 

1963年生 神奈川県出身
 '84年富士フレッシュマンレースでレースデビュー 。'86年富士フレッシュマンレース TS1300クラスチャンピオン 。'87年より全日本F3選手権 参戦。'89年全日本F3選手権 シリーズチャンピオン(9戦中5勝)。'90年より全日本F3000選手権 参戦。'91年全日本ツーリングカー選手権 参戦。'93年 全日本GT選手権 シリーズチャンピオン。'94年全日本GT選手権 シリーズチャンピオン。'95年全日本GT選手権 シリーズチャンピオン、ル・マン24時間レース 参戦。'98年ル・マン24時間レース 参戦(3位)。'04年スーパー耐久Nプラスクラスチャンピオン。

現役のドライバーとしてレース参戦する一方、トヨタレーシングドライバーズミーティングや一般向けの講習、フォーミュラトヨタレーシングスクールの講師を勤めるなど、後進の指導や一般のドライバーへの指導などにもたずさわる。「今まで自分がモータースポーツ界で培ってきた経験、成功したことも失敗したことも含めて、いろいろ若手に伝えていい形で残せていけたらなと思いますね」。

'04年のスーパー耐久Nプラスクラスでシリーズチャンピオンを獲得した影山正彦選手。
'84年のレースデビュー以来、フレッシュマンチャンピオン、F3チャンピオンなど様々なカテゴリーで多くのチャンピオンを勝ち取ってきた。また、'98年にはルマン24時間で星野一義選手、鈴木亜久里選手とともに日本人チーム初の表彰台に輝いている。
今シーズンはスーパー耐久ST5クラス(昨年までのNプラスクラス)で#37/ARTA F.O.S アルテッツァをドライブ。第4戦十勝24時間を終えた時点で、'05シーズンクラストップをキープ。
今年度のクラス優勝が期待される影山正彦選手を訪ねた。

ここで勝負をしたい!

16からバイク、18才からスカイラインのRSで峠を走るようになり、仲間うちでも速い方だったんですよ。そんな時、先輩が出入りしていたタイヤショップがTSサニーをスポンサードしていた関係で「レースを見に行こう」と誘われたんです。レースなんて自分とは別世界だったし、スターレットやサニーのレースと聞いて「草レース」だと思ってました(笑)。その時行ったのが富士フレッシュマンで、行ってみてたらフルチューンのスターレットやサニーに驚きましたね。その日、タイヤショップのTSサニーは小雪混じりの中ぶっちぎりで優勝。第1コーナーの金網越しに見ていて凄いショックを受けました。こんな世界があるのかって。「ここで勝負をしたい!」と正直思いました。これがGCみたいなトップカテゴリーなら別世界と思ったでしょうけど、TSは頑張れば手が届きそうだったんです。
 それでレースに出るために1年半、3時間の睡眠でバイトを続け、500万円を貯めて'84年にTSでデビューし4戦出場。翌年はフルに出たんですがトップはマイナーツーリングで使っているマシンでストレートのスピードも全然違い、どう考えても自分のマシンでは6位に入るのが精一杯。なんとか一年間やりましたが、借金も1000万円近くなってもう限界だと。普通の家庭で裕福でもないし、TSのレースをやること自体ものすごい大きなエネルギーが必要でした。大変さを知るほど道楽でやるようなことではなく、将来的に車に乗ることでお金が貰えるようになりたいと本気で思い始めてきたところでしたから、レースを諦めざるを得ないと思った時の挫折感っていうのはすごかったですね。

'98年フォーミュラニッポン。第1戦と第5戦で優勝。シリーズランキング2位。マシンはMaziora Team Impul LolaT96-52。

蜘蛛の糸。

先輩の知り合いだったことから当時若手No1だった萩原光(あきら)さんには色々とレースの相談にのっていただいて本当にお世話になっていたので、レースを諦めたとき「レースを辞めます。お世話になりました」と挨拶に行ったんです。そしたら「レイトンハウスに相談に行ってこい」と紹介をいただいて、言われるがままに行ったところ「来年うちで車用意してやるからやってみろ。どこの車にのったらお前は勝てるんだ」と自分の望むクルマで'86年のフレッシュマンを走れることになったんです。このチャンスを作ってくれた萩原さんが'86年に他界されてしまったのが本当に残念でなりません。このチャンスがなかったら今の僕はなかったかもしれず、本当に地獄に垂らされた一筋の蜘蛛の糸という感じでした。
その後、いつもチャンスを頂いた時は蜘蛛の糸という感じで「これは最後の一本だ。この一本を切らしたら、この路線には戻れない」という危機感をいつも持っていましたね。その一本を切らさないためにも、無我夢中で結果を出すことに集中しました。

'84年のレースデビューから5年目の'89年にF3チャンピオンを決め、 '90年にはF3000にステップアップ。マシンはKYGNUS TONEN LOLA。手前は弟の影山正美氏。

ルマン24時間には'95年から参戦。星野一義選手がルマン最後の年と表明して参加した'98年には日本人ドライバーチームとして初の表彰台に立つ。「恩師である星野さんと一緒に僕の名前を刻めたっていうのが最高の喜びでした」。初めての世界レベルの表彰台は「メインスタンドからコース上、パドックまで埋め尽くした何万人もの人達が足下に広がり、そこでトロフィーを貰うっていう感動は大きかったですね。あの風景は未だに目に焼き付いて一生忘れない宝物です」。(写真は'00年テレビ局の企画で鈴木利男選手、弟の影山正美選手と参戦時。)

今、何をすべきかということを的確に判断。

勝つためには、クルマに対してもはっきり要求を言わせてもらいました。例えば、F3の2年目はシーズン15位。「あいつダメなんじゃないか」っていう声が出ます。でも自分としてはエンジンもシャーシも悪かった。そこで「来年だめだったらレースを辞めます。だからチャンスを与えてくれませんか」っていう話をし、思い通りの車両条件を理解していただき、翌年勝負して前年度一度も表彰台に上がらなかった僕がシリーズチャンピオンをとったんです。
 はっきりするためにはいい物を揃えること。中途半端な体制でやっていても駄目だと思うんです。ドライバーは自分に言い訳がきかない条件まで追い詰めて結果を残さないと駄目ですね。勝てる自信がないドライバーはそこまで言えないと思うんですよ。その自信は何の根拠もない自信ではなく、この車でこれぐらいは走れたんだからという、少しずつ積み重ねてきた自分の中の尺度があるんです。
 そして、シリーズチャンピオン獲るというのは、勝てるべきレースはしっかり勝つ。でも、シーズン全体を見て、明日勝つために今日は負けておくというレースもあると思うんです。これは僕の考えなので、賛否両論あると思いますけど。ただ、1位を獲るリスクをおかして、結果シリーズが非常に苦しくなってくることもある。やっぱり今できる最高の仕事をするというのもレーシングドライバーとしての仕事の一つだという考え方が僕にはあるんです。全部勝つことが一番ベストだけれど、その現状で「今、何をすべきかということを的確に判断できる人間」がいいレーシングドライバーだと思うんですよ。

'04年 スーパー耐久N+クラスシリーズシャンピオン獲得の表彰台で番場琢選手と喜びを分かちあった。

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