自分が置かれた環境をいかにポジティブに考えられるか。

VOL.2_2

影山 正美 

1967年生 神奈川県出身
'87年富士フレッシュマンでレースデビュー。'90年 フォーミュラトヨタ初代チャンピオン。'92年N1耐久 クラス2 シリーズチャンピオン。'91-'94年 全日本F3選手権参戦。'94-'99,'01年 全日本F3000/フォーミュラニッポン参戦。'95年全日本GT選手権参戦。'96年-'97年JTCC参戦。'97年 JTCC/TCCAカップ シリーズチャンピオン。'98年フォーミュラ・ニッポン(2勝・シリーズ2位)、 GT500クラスシリーズチャンピオン。'97-'00年ルマン24時間レース参戦。'03年 GT500(#22モチュールピットワークGT)総合シリーズランキング3位。スーパー耐久シリーズ第5戦、第10回十勝24時間レースにスポット参戦(FALKEN PORSCHE)、総合優勝を飾る。'04年 GT500(#22モチュールピットワークZ)で第4戦に優勝、500クラス単独最多7勝目。フォーミュラ・ニッポンに第6戦MINEサーキットから参戦(#12COSMO OIL RACING TEAM CERUMO)。'05年GT300(#13 エンドレス アドバンZ)とスーパー耐久ST1クラス(#3 エンドレス アドバンZ)に参戦中。同じくレーシングドライバーの影山正彦選手は実兄。
公式サイトhttp://www.mk-wave.com/

「最初の頃は“速さ”だけを求めて随分マシンを壊しました」。F3の一年目は所属チームがパーツ屋さんの売り上げNo.1だったとか。土屋エンジニアリングで走るようになり、代表の土屋春雄氏(本紙314号参照)から「精神コントロールの仕方を教えていただき、レースと言うものが分かって来たころから車を壊さなくなりました」。97~8年には完走率100%で「昔を知る人は驚いてましたね(笑)。」

2005シーズン、スーパー耐久とスーパーGTの両カテゴリーに
木下みつひろ選手とペアを組みエンドレス アドバン Zで参戦する影山正美選手。
特にスーパー耐久ではポルシェのワンメイク状態だったST1クラスに
唯一フェアレディZでの参戦に注目と期待が集まる。
影山正彦選手の実弟でもあり、兄弟揃ってのトップレーサーとして話題も多い。
今回は新しくなった富士スピードウェイのパドックをたずね、
スーパー耐久第5戦の練習走行の合間を縫ってお話しをうかがった。

兄貴が言うんなら、絶対面白い。

小さい頃から4才上の兄(影山正彦選手)についていくと楽しい事があるというのがあって、兄がレースをやるキッカケになった富士のレース観戦に行った時も一緒に行ってたんですよ。中学2年でした。「レースをやろうぜ!」って言われて「兄貴が言うんなら絶対面白いだろう」と苦労も知らずに、「やろう、やろう」ということで兄をサポートすることから始まったんです。
 レースに出るにはお金が必要なんで「中学卒業したら働くよ」って、働き始めて最初の給料からレース資金を出してました。二人で買ったTSサニーで、兄がステップアップしたら乗ればいいっていう話だったんですけど、3年間やって借金が増えて「辞めます」という話になった時「おいおい、俺乗ってないのに」って(笑)。でも、今まで兄の友達や先輩に車の横に乗せてもらっても兄貴が一番うまいって感じていましたから、それでもレースの世界で通用しないんだったらしょうがないと思いましたけどね。それが、兄を可愛がってくれていた萩原光さんの紹介で一緒にレイトンハウスに入れることになり、今につながる大きなチャンスになりました。

スーパー耐久、スーパーGT共に木下みつひろ選手とのペアでエンドレスアドバンZをドライビングする。「フレッシュマンで走りはじめたころ、エントリーリストで平仮名の『みつひろ』という名前とアドバンカラーのマシンが凄く印象に残りました。今、そのみつひろさんと一緒に走れるのは嬉しいですね」。スーパーGTは第1戦で優勝を果たし、第4戦終了時点でクラス3位をキープしている。

乗れない間にどう自分が速くなるか。

レースは'87年、19才の時にレイトンハウスからフレッシュマンでデビューしました。最初から自己資金ではなくレイトンカラーで走れたというのは凄く恵まれた環境でしたね。キッカケはレイトンハウスに入って、空いているクルマに「乗ってみろ」と練習走行をさせてもらったことです。実はそれまで、自分ではサーキットを走行したことはなかったんですが、人の走りを見てきた時間は凄く長いんですよ。兄のレースのデータを取るためにFISCOでは行けるところは草むらをかき分けてでも金網よじ登ってでも行って区間タイムを計り、うまい人のラインとか技術を常に見て比較してましたから、富士のコースのラインも全部判っていたんです。“いずれ自分が乗るんだ”という気持ちで常に観ていたので、初めてTSに乗せられたときにも比較的苦労しないですんだ感じですね。その後も、僕より先にステップアップしていく兄の計測をしながら、うまい人の音とラインとリズムを頭に入れていったんですよ。乗れない間にどう自分が速くなるか、今置かれている環境でどう動いたらプラスになるかというのは常に考えていました。今を嘆くんじゃなくて、その環境をいかに自分でポジティブに考えられるかっていう自分の性格もよかったんじゃないかなって思うんですよ。
 でも、僕が「フォーミュラにステップアップしてプロになりたい」といった時に反対したのは兄で、一年くらいロクに口を聞いてくれなかったんです。怒ってるんだと思っていたんですが、後で聞いたらウチは母と僕らの3人なんで、二人ともドライバーという危険な仕事につく事を心配していたらしいんです。母も僕には「やりたいようにやんなさい」といってくれていたんですが、本心では諦めて欲しいと思っていたようなんです。でも、兄と同じ血が流れてるんですから無理ですよね(笑)。

'97年、JTCC/TCCAカップ シリーズチャンピオンを獲得した#25土屋エンジニアリングのアドバンエクシブ

'98年、フォーミュラニッポン開幕戦で兄・影山正彦選手と1-2フィニッシュ。優勝した兄(右)とシャンパンで祝福しあう影山正美選手。このシーズンは兄弟それぞれ2回づつの優勝を果たし、正美選手はシリーズ2位となった。

せっかく持っている知識をわけてあげたい。

当初、兄と比較されることも多かったんですが、どんな仕事でも比較の中で評価されるわけですから、たまたま相手が肉親だっただけで特にイヤだとか思ったことはありません。ただ、レースを始めた頃に「お兄ちゃんは速いけど弟はね」という話が聞こえてきたりすると、そう言っている人を見返してやろうっていう気持ちはすごく強かった。数年後に当時そう言っていた方の中から「乗らないか?」という話が来た時は、認めてくれたことがすごく嬉しかったですね。兄は僕が追い掛けるいい目標だし、正彦の弟ということでトップドライバーの方が僕の走りを見ていてくれたし、自分としては凄く恵まれた環境だったと思います。
 今「Masami Meeting」というスクールを年3回開催しています。参加者は初心者や女性はもちろん、S耐やGTに参戦している人もいて「あのスクールに参加して速くなった」と言う声がすごく嬉しいんです。プロとしてギャラがもらえるドライバーはなにが上手いかというとブレーキングなんです、止まるブレーキと曲がるブレーキ。ここをどう教えるか。それを今までは教えたくなかった。これまで必死に苦労し経験し貯えてきた企業秘密ですから。でも、せっかく持っている知識をわけてあげたいという歳になったんですよね。先生と呼ばれる立場になるとは思いませんでしたが、その立場になった事で違った楽しさを発見し、「もっとこうしよう」とか今までの人生の中で考えなかったような事を考えるようになって、それはそれですごく楽しいですね。
 今シーズンも折り返し地点にきましたが、スーパー耐久もスーパーGTも頑張っていきますので是非サーキットに足を運んで、レースを楽しんでいただければと思います。

'98年、エリック・コマス選手とのペアでGT500シリーズチャンピオン。車両は#23ペンズオイルニスモGT-R

ポルシェのワンメイク状態だったスーパー耐久ST1クラスに、今シーズン一石を投ずるべく参戦し注目を集める#3エンドレス アドバン Z。前半は苦戦を強いられたが、マシンの仕上がりとともにシリーズ後半に期待がかかる。
(写真は'05スーパー耐久第5戦富士での練習走行)

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