レーシングドライバーだけでなく、様々な視点からクルマを見る。 その1

VOL.18_2

桧井 保孝 

1969年生 広島県出身
中学時代にはじめたカートレースからFJ優勝を経てF3でレーシングドライバーへ、マッハ号では三船剛の名で登録して活躍、スーパーGTのレギュラーほか2006年にチームJLOCでルマン24時間レースに参戦、取材ドライバー、レースオフィシャルに活躍の場を広げている。(株)ファースト レスポンダー代表取締役。
http://www.hobidas.com/blog/car-mag/lemans/

'02年、全日本GT選手権GT300のエントリーリストにかつての人気アニメ“マッハGoGoGo!!”の「マッハ号」
そして主人公「三船 剛」のドライバー名を見つけてニッコリした人も多いのではないだろうか。
エントリー名「三船 剛」で'05年までマッハ号をドライブしたのが桧井保孝選手だ。
桧井選手は'88年にフォーミュラの登竜門FJ1600でデビュー以来、
'91年には単身渡英しフォーミュラヴォグソールクラスにフル参戦、
帰国後もF3、F3000、GT、スーパー耐久、そしてルマン24時間にも参戦するベテランドライバーだ。
一方、フェラーリ国内代理店のオフィシャルドライバーとしても活躍し、
今や「日本一のフェラーリ使い」とも言われる桧井氏にお話を伺った。

アニメのヒーローに!

“マッハ号”でGTに参戦するプロジェクトは、アニメ“マッハGoGoGo!!”の制作プロダクション“タツノコ・プロ”が創立40周年を記念して立ち上げた企画で、そのドライバーとして僕に声がかかったんです。夢のある企画なので喜んで乗せてもらいました。最初は本名でエントリーしてたんですが、タツノコ・プロのスタッフに「主人公の三船剛に似てる」と薦められ、第3戦から「三船剛」で走るようになったんです。本来、エントリー名には本名の一部が入らないとダメなんですが、JAFのイキな計らいで特別に許可をいただけたんです。ですから、当時のリザルトも「三船剛」で載っていますよ。
 マッハ号の応援にはアニメを見た世代のお父さんが家族連れで沢山サーキットに来て下さいましてね、ファミリーでレースに来てくれるきっかけになったのは本当にうれしかったですね。やっぱり子どもたちにレースやクルマを好きになって貰いたいですから。当時のサインはもちろん「三船剛」(笑)。走っている僕自身も一緒に楽しんでました。

'02年、GT300に登場した白いボンネットに赤い“M”マークのマッハ号。車番はもちろんアニメと同じ#5。(BANPREST CAR倶楽部マッハ号MTと三船剛のサイン)

『フェラーリ使い』としてデモ走行やインストラクターなどフェラーリ関係のイベントでも活躍。5/10,11に富士で開催の“フェラーリフェスティバルジャパン2008”ではF1デモ走行を担当。「会場でお会いできるといいですね」

きっかけは拾った10万円。

もともと僕は機械や乗り物好きで、中学の物理クラブに入ってみんなでエアガンの改造や解体屋で買ったバイクを直したりしてたんです。中3の時「今度はクルマだ」っていう話しになり、一人が「通学路にレーシングカートのお店がある」っていうんで、みんなで押し掛けてボロのカートを手に入れたんです。それをなんとか直して校庭を走り廻ってたら先生に叱られて。でも面白いから何度も走るんですよ、「これも実験だ」とかいって(笑)。
 実はそのショップ、当時全日本カート選手権でトップを争う野田優さんのお店だったんです。「そんなに走りたいなら」と野田さんがみんなをカート場に連れて行ってくれて、時々コースを走るようになりました。
 そんな頃、偶然拾ったのが10万円。警察に届けましたが落とし主不明で戻ってきた。それを軍資金に中古のカートを買ってレースを始めちゃったんですね。走ったらそこそこ速かったんで、丁度上のクラスに参戦することになった野田さんが「もったいないから、一緒にやろう」とそれまで使っていたカートを譲ってくれた上にカンパまでしてくれて、本格的に始めたんです。それが高校に入った頃。だから、ドライバーになろうとは思ってもいなかった僕がドライバーになった一番の原因がこの10万円かなぁ(笑)。
 カートの次はFJ1600で走りたかったので高校を卒業すると鈴鹿に近い名古屋のガレージに就職して、メカニックをやりながら自分も参戦するようになりました。忙しくて自分の車をメンテする時間がない。でも、メカニックの経験は後々ドライバーとして走る時にも、インプレッションを担当するときも大いに役立ってます。

'06年GT300開幕戦をM.アピチェラ選手とJLOCムルシエラゴRG-1をドライブし優勝。これはランボルギーニ車として国内公式戦初優勝でもあった。

'91年、渡英した頃。メンテのスタッフは全て外人。「細かなニュアンスが伝わらなくて言葉には苦労しました」。

自分の走りを完璧に。

プロとして走れるようになったのは'90年のF3からで、丁度その頃「本場を体験したほうがいい」という話があって、イギリスに渡るチャンスをいただいたんです。それで'91年に、フォーミュラヴォクソールに一年間参戦しました。ここには世界中からF1を目指す若いドライバーが集まってくるんですよ。この体験は大きかったですね。特にカルチャーショックを受けたのがドライバーたちのストイックな生活態度。朝は規則正しく起きるし、フィジカルトレーニングもキッチリ行う。他のものには目もくれず生活の全てがレース一筋。プロフェッショナル意識が強く、正にアスリートと同じですよ。F1を走るようなトップドライバーならなおさらで、レースを極めて行く姿勢とその生活態度は社会的にも尊敬され、地位も高いんです。“プロのドライバー”とはこうあるべきというのを強く感じましたね。それは今にいたっても僕の中に大きな影響を残しています。
 僕は競うより運転が好きでドライバーになったタイプなので、レースでもクルマとの一体感を味わうことが楽しいし、理想とするラインをキレイに走ることに満足を感じるんです。ドライバーの中には人と競うことが好きな負けず嫌いの人が多いんですが、僕は“あいつに勝つ”とか“抜かせない”とか相対的に競うのではなくて、レースの中で“性能を引き出して自分のベストの走りをする”ことに100%努力するんです。それがタイムに出るし、結果として勝てるんですね。ただ、思い返すとカート時代、親の支援で走るドライバーに“負けたくない”というのでレースに熱くなり渡英までして今があるわけだから、根本は僕も負けず嫌いなんですね(笑)。
(以下次号)

'88年にFJ1600でレースデビュー。当時は半分以上予選落するほどエントリー台数も多かった。「上位入賞者に賞金がでるエンケイさんのスカラシップがあって、随分助かりました(笑)」。

'06年にはル・マン24時間に参戦。「プレステのグランツーリスモで練習しましたが、数面クリアしないと本コースに辿り着けないので、そこに2週間くらいかかりました(笑)」。
(#53JLOCランボルギーニ・ムルシエラゴ:
M. アピチェラ/山西康司/桧井保孝組 
GT1クラス)

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