操ること、コントロールをすること。そこに飽くことのない楽しさがある。 その1

VOL.13_2

砂子 塾長 

1964年生 東京都出身
ライセンス登録名 砂子塾長
85年に富士フレッシュマンでレースデビューし、JSSのDR30、F3にステップアップする。その後、様々なカテゴリーに参戦し、1992年にはN1耐久にスカイラインGT-Rで参戦し、1996年に念願のシリーズチャンピオンを獲得する。また、全日本GT選手権にも参戦するが、1998年の富士スピードウェイでの事故により重症を負ってしまい、サーキットから遠ざかってしまう。しかし、毎日のリハビリに励み脅威の回復力により、その年のスーパー耐久の富士戦で復活する。現在も様々なカテゴリーでレースに参戦し続けている。テストドライバーや開発ドライバーを託される事も多く、各種インストラクターも勤める。また、トークや文章の才能にも恵まれ、雑誌の執筆や取材記事、TVのレポーターでも活躍中。
http://www.sunakojyuku.com/

レーシングドライバー砂子智彦氏、というよりは現在のライセンス名「砂子塾長」という方が通りがいいかもしれない。
2005年にレーシングドライバー生活20周年を迎え、07シーズンはスーパー耐久に参戦している。
的確な分析に定評が有り、テストドライバーや開発ドライバーとしても活躍する他、
軽妙なキャラクターや話術から、雑誌記事の執筆やテレビ番組のレポーターなどでも活躍。
今回は砂子塾長にお話しをうかがった。

やりたいなら勝手にやれ。

考えてみると、僕は乗り物を“操ること”が好きなんですね。それは小学校低学年で自転車を乗りはじめた時からで、急に世界が広がって遠くに行きたい、早く走りたい、上手く乗りたいっていう気持ちだったように思います。それは大人になってクルマを乗りはじめた時も、基本的に同じ(笑)。レーシングドライバーになっても「操る」「コントロールする」ということが純粋に楽しくて、ドライバー歴20年以上になりますが、全然飽きないですね。
 父親がレーシングドライバーだったわけですが、小さい頃にはサーキットに連れていってもらったようですが、もの心が付いてからはサーキットに連れていってもらった記憶もありませんし、家では特にレースの話はしませんでした。モータースポーツ関係の雑誌が良く置いてあって小さな頃から見ていたんで、それが特別な世界とは感じていませんでしたが、身近でもなかったですね。大学生になって“レースをやりたいと”言った時、別に反対もしませんし、かといって勧めもしませんし“やりたいなら勝手にやれ”っていうだけでしたね(笑)。

父上は'66年の第3回日本グランプリで「プリンス・R380」を駆って優勝を果たした名ドライバー砂子義一氏。だが、塾長がレースの世界に入ることに対してはノータッチだったという。最初のチームに入った時は「バブルで景気のいい時代でしたが、それでも手紙一つで『来ないか』っていうことはありえません。多分『砂子』の名字だったからかなと思いますね。」。イベントでR380の前に立つ塾長と義一氏。

俺もやりたいっ!。

大学に入ってからはガソリンスタンドでひたすらバイトして、仲間数人と“FRでマニュアルで3万円以下(笑)”というクルマを買って朝までひたすら峠を走ってました。そんなクルマを8台くらい乗り潰したかなぁ。その合間にサーキットのスポーツ走行にも行くようになりました。
 当時のスポーツ走行はGCマシンもマイナーツーリングも混走で、そこで驚いたのは富士フレッシュマン仕様のサニー。当時は直管マフラーで富士のストレートで10,000回転以上回ってたんじゃないかな。レース仕様のクルマはとんでもなく速いんだなーと驚いた記憶がありますね。自分たちは家のラングレーやカローラのノーマルでしたから(笑)。それで“スゲェー!俺もやりたいっ!!”。でも、学生でお金はないし方法がわからなかったんで、あちこちのチームにラブレターを出したら、その中の1チームが呼んでくれて、一年くらいパシリをしているうちに、“乗ってみるか?”と'85年に富士フレッシュマンでレースデビューさせてもらいました。
 2~3年走って鳴かず飛ばずで、そこで消えていてもおかしくなかった(笑)。当時、不動産会社の社長の息子さんのカートの面倒を見るバイトもしていて、その社長がJSS仕様のスカイラインを買ってチームを作りレースに参戦することになったんで“乗るか?”ということで、給料を貰って走るようになったんです。シーズン途中にはF3に参戦することになり、日産エンジンのラルト31に乗せてもらえるようになったんですよ。当時も今もF3乗ってお金もらえるなんて、ありえないですよね(笑)。

砂子氏の趣味はウィンドサーフィン、ウェイクボード、スカイダイビングと幅広い。「やはり、自分の外の力をコントロールして移動することが楽しいんで、クルマや乗り物だけでなく操る楽しさがあるモノはみんな好きですね」。

最初のチームに入ってパシリでがんばっていた頃。この翌年富士フレッシュマンでデビューする。「初めて富士に来た時には、特に違和感や憧れの場所という感じはしなくて、すぐにとけ込めました。記憶にはほとんどないんですけど、小さい頃に連れてきてもらった体験をどこかで覚えてたんでしょうか」。

父に借金をお願い。

事情があって、そのチームを離れることになり、次にコックスで社員ドライバーとして拾ってもらったんです。この時フォーミュラミラージュに出ようとして、自己資金200万円が必要になり、一度だけ父に借金をお願いしたことがあるんです。そしたら「なんでレースにお前が金を払わなきゃいけないんだ。レースは金を貰ってやるもんだ!」と一喝。それで終わりました。良く覚えてますよ。まさしく的を射た答えだったと思うんです。資金があるなら潤沢に使えばいいでしょうけど、資金は無いんだから、そこをどう切り開いていくかプロのドライバーとして真剣に考えるようになりました。とてもいいアドバイスだったと思いますね。回りの皆も早いうちから僕のそういう事情を知ってくれて、二世としてではなく“砂子智彦”として認めてくれてたような気がします。
 ドライバーとして大切なことの一つは“キャラ”だと思っています。どこの世界でも同じですが、明るいキャラでないと。自分が走るために回りが動いてくれるわけで“あいつを走らせてやろう、勝たせてやろう”と思ってもらえる事が、もしかするとプロドライバーには走りの実力と同じくらい大切かもしれません。(以下次号)

'96年にスーパー耐久クラス1で福山 英朗選手と共にシリーズチャンピオンに輝く。#23プリンス東京FUJITSUBO・GT-R。

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