あのクルマに乗ってみたい。その憧れがステップアップの原動力。 その1

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木下 隆之 

1960年生 東京都出身
学生時代からダートトライアル、ジムカーナ等のモータースポーツに参加し数々の優勝を飾る。特にジムカーナでは東日本学生チャンピオンに輝いた。1984年富士フレッシュマン(P1300・KP61スターレット)のデビューレースを6位入賞で飾り、2度めのレースでポール・トゥ・フィニッシュ。同時にコースレコードを叩きだした。レース活動の他に、多数の自動車雑誌および一般男性誌に執筆。連載レギュラーページを多数持つ。日本カーオブザイヤー選考委員および日本モータージャーナリスト協会に所属。また、wowow等でテレビ解説など多数に出演。株式会社木下隆之事務所代表取締役。

レースデビュー2戦目でポール・トゥ・フィニッシュを飾り、その後、日産のワークスドライバーとして活躍、今シーズンも第一線を走り続けるトップドライバー木下隆之氏。
'06年のスーパー耐久レースでは7戦中5勝を上げシリーズチャンピオン獲得とともに、
史上最多勝も記録した。
スパフランコルシャン24時間耐久レースや今年で16年目となるニュルブルクリンク24時間耐久レースへの参戦など海外レースの経験も豊富。
その一方で自動車雑誌を中心に多数の連載を持つライターとしても活躍中の木下氏にお話をうかがった。

4年間ドップリ自動車部。

小さい頃からクルマが大好きだったので、高校3年の5月に誕生日がくるとすぐに免許を取りにいきました。自由な高校で、自分の趣味ややりたいことを申請すると一年間学校の中でやっていいという少し変わった学校だったんですよ。それで「僕はクルマに興味があってその勉強をしたいから」と申請してクルマでの通学を許可して貰っていました。でも、クルマの競技を始めたのは大学で自動車部に入ってからです。もっとも自動車部に入ろうと思っていたわけでもなく、競技のことも知らなかったんですが「専用のガレージもあるしクルマで通えるから」って勧誘されて「それなら」と入ったんですけど。(笑)。
 各大学の自動車部が加盟する全日本学生自動車連盟ではレースはやってなくて、それ以外のジムカーナ、ダートラ、ラリーとかの競技がありました。それに参加するうちにクルマの競技が面白くなってきたんですね。4年間ドップリ自動車部で、4回生のときには主将を務めました。部員は30人くらい。体育会系だったのでガクランを着て厳しくやってました(笑)。学生時代にはジムカーナの東日本チャンピオンをとりましたし、ダートラとか含めて全関東チャンピオンとかもとってます。

'84年にレースデビューし。翌'85年にはワークスドライバーとして富士フレッシュマンにエントリー。「僕が始めたころはちょうどバブルで、波に乗ってたんですよ。そんなチャンスをもらえたのはそう言う時代だったからだと思いますね」。とはいえ、これまでの戦績が木下選手の実力を物語る。
〈http://www.cardome.com/keys/op03.shtml〉

'84富士フレッシュマンにKP61でレースデビューしてから2年目にはFJ1600、3年目の'87年からF3に参戦。驚異的な速さでF3のシートをゲットした。
(写真:'89年F3CRT32TOMEIラルトRT-32)

レース2戦目でポール・トゥ・フィニッシュ。

僕がレースに初めて参戦したのは、大学を卒業して出版社のクルマ雑誌編集部に就職してからなんです。自動車部の部員も卒業すると、みんな「クルマはおしまい」とリセットするんですよね。サッカー部とか野球部だとプロをめざさなくても、友達どうしでやったり、草野球やったりして続けてますよね。なのに、なぜクルマもそういったことがないのかなとずっと思っていて、ぼくはジムカーナなりダートラなり趣味としてしばらく続けていきたいなと思っていました。そうした一つとしてレースがあったんです。ジムカーナやダートラでは全関東のチャンピオンを取らせてもらったりしてそれなりの自信はありましたが、レースだけはやったことがなかったので、一回レースに触れてみようと思ったんです。
 それで初任給から8月くらいまで給料をためてKP61スターレットをレンタルしてもらい、夏の富士フレッシュマンに一戦だけスポットで参加したんです。この時に6位に入賞して面白くなったんでもう一回出よう、ということでまた12月まで給料をためて最終戦に参加しました。この時にポール・トゥ・フィニッシュで、同時にコースレコードも出して優勝したんです。本当はそこで終わるはずだったんですよ。お金もないし。プロのレーサーになろうとかお金をかせごうとか思ってもいませんでしたし。ただ、その時同じサーキットをパワーのあるスカイラインのクラスが走っていて「それに乗ってみたい」という気持ちは強かったですね。その時、たまたま日産プリンスのチームから声をかけていただいて、翌年からスカイラインに乗れることになったんです。本当に運がよかった。その後も「あのクルマ面白そうだから乗ってみたい」という強い憧れが次のステップへ導いてきてくれたように思います。

プロドライバーへの切っ掛けとなったのが'85年の日産プリンスチームへの参加。富士フレッシュマンNPオープンにDR30スカイラインでフルエントリーし、シリーズチャンピオンに輝く。以降、スカイラインのレース仕様開発を担当するなど、日産ワークスドライバーとして多くのスカイラインファンを魅了する。

'89年グループA
スカイラインHR-31

'92年木下隆之/A.オロフソン組
スカイラインBNR32

本物のレーシングドライバー。

若い頃はレースは格闘技だと思っていて、ぶつけてくればぶつけ返してでも残って行かないといけなかったんで今思えば結構ひどいレースをしていたのかもしれません(笑)。それがワークスになってスパッと変わりましたね。自分個人じゃなくて、クルマの開発から、興行の中の一人としてお客様を考えたり。前は手段を選ばず勝てば良かったっていう感じでしたが、内容がよければ2位でもいいっていうふうに変わっていきましたね。ワークス契約になるとドライバーもチームのパーツの一つとして、要求が高度になってくるので、それに応えなきゃいけないですし。同じタイムで走っても燃費のいいドライバーになるとかタイヤの消耗にやさしいドライバーであるべきとか、チームにフィードバックを残せるドライバーになるとか、そっちの方にシフトしていきましたね。まあ勝たなければダメというのは同じなんですが。
 僕は器用でドライビングの幅があって引き出しをいっぱい持っているドライバーでありたいと思います。無謀で速いっていう瞬間もあれば、開発もできるし、魅せる走りもできるし、いろんな要求にすぐ応えられる。それが実はプロなんじゃないでしょうか。役者でもヤクザの親分から医者まで演じきれるような役者っていうのは魅力的で本当にプロに見えますよね。僕は常にそういった本物のレーシングドライバーになりたいと思って走っています。(以下次号)

'89年、グループA#24スカイラインHR-31を都平 健二選手と共にドライブし、9/22の鈴鹿グレート20ドライバーズレースでグループA参戦開始後、初の表彰台となった。1位は長谷見 昌弘/A オロフソン組(リーボックスカイラインHR-31)、2位は清水和夫 松田秀士組(ピューミニ・トランピオシエラSIERRA RS500)
(写真:'89年鈴鹿グレート20ドライバーズレース表賞台)

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