クルマは楽しいモノ、だからもっともっと楽しくしたい。 その1

VOL.10_2

竹岡 圭 

東京都出身
自動車専門誌、女性誌、一般誌、インターネット(Web媒体)、TV、ラジオなど、さまざまなジャンルで、執筆者として、コメンテーターとして、活動する。クルマのインプレッションやコラムなどの他、チャイルドシートやカーグッズ、クルマ旅行など、カーライフ全般を女性の視点からレポート。また、イベントでのトークショーや講演、各種セーフティドライビングスクールのインストラクターなども積極的に行っており、さまざまな角度から快適なカーライフをサポートするべく、実際にユーザーにアドバイスすることも大切にしている。
日本自動車ジャーナリスト協会(A.J.A.J.)理事
日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員
国土交通省「社会資本整備審議会 道路分科会 有料道路部会」委員
国土交通省「駐車場システム検討会」委員
自動車技術展「JASE EXPOSITION AWARD」審査委員
神奈川県 かながわのみちづくり計画検討委員会 委員チャイルドシート指導員

女性モータージャーナリストとして雑誌やwebに月間30本近く原稿をこなしながら、
ラジオ、テレビ、そして国土交通省の委員など多方面で活躍されている竹岡 圭氏。
普通のOLからモータージャーナリストへと転身されたという。
今回はそんな竹岡氏にクルマの世界に飛び込んだ経緯などをうかがった。

バイトでの出会いが転機に。

私は短大を卒業して不動産会社に就職し、普通にOLをやってました。ところが、その会社が崩壊して最後の方は4ケ月も給料が出なくてそれで辞めたんですが、収入はなくなるし仕事を探しながらバイトする状態。時間だけはできたので、免許を取りに行き始めたのもその時でした。
 ある日、友人からきたバイトがドライビングビデオのパッケージ用写真の生徒役モデル。撮影現場に行って紹介された講師が日下部保雄さんだったんです。クルマの世界は何も知らないし、日下部さんのことも全然知りませんでした(笑)。それがクルマの世界に入るキッカケになるとは、その時は夢にも思いませんでしたね。
 3ケ月くらい後、日下部さんからバイト依頼の電話をいただいたんです。モータースポーツ関係の会社プロスペックを立ち上げられた年だったんですね。エビスサーキットでイベントの手伝いをして、その足でN1耐久開催中のSUGOまで連れて行かれました。クルマのイベントもレースを見るのも全く初めて。凄い世界だけど面白そうだとは感じました。後で聞くと、翌年にタレントの酒井法子さんのレーシングチーム運営が決まり女性スタッフを探していて、そのテストだったんですね。それまで何人かサーキットに連れて行ったようですけど、ピットは熱いし寒いし油臭いしでダメだったみたい。私は小さな頃、工事車輌メーカーの社宅で育ち、いつも身近に油の臭いがあったので懐かしく感じたくらいで、全然抵抗が無かったんです。それで、大丈夫と思われたんでしょう(笑)、「社員に」というお話しがあったんです。実は、音響メーカーの仕事が決まっていたんですが、クルマの世界が面白そうだと思ったのと、免許が取れたら会社でクルマを提供してくれるっていうのも魅力で(笑)社員になったんです。

普段の足にはレースで乗っているのと同車種、VWゴルフGTIを使っている。「考えてみると、子供のころ遊園地にいくとゴーカートが一番お気に入りだったから、クルマを好きになる要素はあったんですね」。
竹岡氏のブログ
〈http://blog.autobytel-japan.com/?itemid=555〉

クルマを楽しむ一貫として2006年はVWゴルフGTIカップにフル参戦。

自分で動くしかない。

日下部さんの会社は当時はレーシングチームのマネージメントと走行会の運営などをやっていて、私もそのサポートと会計をやるんですが、会社に入っていきなり1月に鈴鹿のスーパー耐久。その時がもう“のりピーハウスレーシングチーム”で、人はいっぱい来るし大変だったんですよ。現場でも何をしていいかわからなくて、最初の時にあまりにも寒かったので降りてきたドライバーに暖かい飲み物を出したら「暑いんだから冷たいものが飲みたいに決まってるじゃねーか!」ってすごく怒られて。乗ったことないからどれぐらい暑いかわからないわけ。先を読んで動かないといけないのに、何していいかまったくわかりませんでした。
 うちはのりピーチームだったけど、あくまでもプライベーターだったから、少数精鋭で人数も少なくてみんな自分のパートで忙しいし、私は私で自分で動くしかないんで、他のチームのマネージャーと仲良くなって、「この次はどうしたらいいんですか」「これどうしたらいいの」っていろいろ聞いて随分教えてもらいましたね。丸々1年やって、大体の流れがわかるようになりました。

プロスペック入社当時の竹岡氏。「本当に全然私車の事わかんなかったんで、ショックアブソーバーとか見てもわかんなくて『これ何?』とかみんなに聞くと『大根おろしだよ』なんてからかわれてたくらい(笑)」。

人に恵まれて。

もともとレーサーとかに憧れてこの世界に入ったわけではなくて、当時はドライバーを誰も知らないし名前も知らないから、私にとってはみんな普通の人だったんです(笑)。却ってそれが仕事の面ではよかったのかもしれません。
「キャーかっこイイ」とか思っちゃうと、たぶん仕事にならなかったでしょうね(笑)。最初にやっていたのが耐久レースだったから、何か学園祭とか体育祭みたいなノリで、みんなで1つの目標に向かっていくのが面白くて結構ハマったんですよね。
 レースは年間で7戦か8戦ぐらいで、あとは会社で運営する走行会とかも仕切っていたし、会計もやらないといけないし、マネージャーだけでなくいろいろと会社の仕事もしていましたね。
 原稿を書く仕事は入社して一年経った頃からかな。雑誌社から「書いてみませんか」って言われて、それじゃやってみようかなと書いたのがオートキャンプの取材レポート。その後少しづついろいろなとこから仕事がくるようになり、それが今のモータージャーナリストに繋がってきました。
 日下部さんとそのバイトに出会ったのがターニングポイントで、周りの人に恵まれて、マネージャーとしてやってこれたのも、今、レースにも出られるのもその人たちのおかげ。いろんな人の出会いにすごく恵まれたと思います。(以下次号)

右も左も分からない中でマネージャーの仕事が始まったのが入社早々'92年1月の鈴鹿300km&FJレースフェスティバルからだった。 写真は“のりピーハウスレーシングチーム”#57のりピーハウスシビック(E-EG6)。
ドライバーは日下部 保雄、山崎泰文両氏。

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