頑張れ、雑誌メディア

VOL.245

本郷 仁 HONGOU Hitoshi

富山県生まれ。
オートバイ誌を経て、1991年に「音羽の不夜城」と呼ばれるベストカー編集部に入城、20年以上“籠城”の身となる。一時、アウトドア誌「FENEK」にも携わるが、その後はベストカーに戻って編集長も務め、現在は取締役 編集局長に。ベストカーは1978年に「ベストカーガイド」として創刊され、1985年より今の「ベストカー」となり、毎月10日と26日に発売される隔週誌。

「自動車情報誌ベストカー」
少し車に詳しい人なら一度は聞いたことがあるだろう
全国どこのコンビニへ行っても置かれているその情報誌に
長く携わってきた本郷仁さんの半生とともに、
雑誌メディアの将来を語ってもらった

 振り返った時、覚えている最初の車の思い出は、あまりいいものではありません(笑)。当時、父はダットサンのバンに乗っていて、住んでいた富山県の大門町(現射水市)から大阪万博(1970年開催)へその車で行くと言い出したんです。母は反対していましたよ。でも、父は家族を乗せて出発しました。その頃にはまだ北陸道がなかったので、国道8号線を使いました。すごく遠くて、途中に砂利道もあったんじゃないかなというぐらい、ひどいものでした。バンなので跳ねるんですよ。本当に長い旅路で、忘れたいと思うほどつらいものでした。その記憶があってか、小学校1年生の自分は車に対してあまり良いイメージを持っていませんでした。  ただ、忘れられないのは、小学校の頃に将来の夢を作文にしましたよね。僕は「タクシーの運転手になりたい」と書いていました。田舎だとハイヤーと言っていたんですが、当時の僕の目には黒くてあのピカピカの車が高級車に見えたんです。先のような思い出があったことや父がバンのような車に乗っていた反動もあったのでしょう。ハイヤーに乗っている人は偉い人たちで、とてもお金持ち。そんな憧れを抱いて眺めていましたね。

バイクライフを満喫

 高校の頃は、ずっとバイクに乗りたい気持ちがありました。20kmぐらい遠方から通学する人はバイク通学が認められていて、実際にスズキのマメタンという50ccバイクで通っている生徒もいました。僕の家も高校から10数km離れていたのですが、それが許されずにずっと自転車通学。なんで数kmの差なのにバイクに乗れないんだどう? その気持ちが根底にあって、バイクへの憧れが強くなっていきましたね。
 車についての知識はそこそこありましたが、大学生になって免許を取って乗ったのはやはりバイクでした。初めて乗ったのはクラッチ付き、スズキの空冷ハスラー。大学1年生の時は、先輩のそのバイクをずっと使わせてもらっていたんです。山道をツーリングしたり、旅をするのが好きだったのでGPZ400で北海道にも行きましたね。
 バイクつながりで言うと、大学の頃はバイク便のバイトをしていました。当時は結構、早さを競いあうところがあって(笑)。羽田や成田の空港に荷物を届ける航空便というのがあって、僕らは市ヶ谷からよく出動していました。航空便は急ぎの荷物が多く、設計図のような重要な書類を明日までに大阪、福岡、北海道に届けなければいけなくて、デッドラインが決まっているんです。渋滞があるので車だと間に合わないという判断が下されると、その時点でバイク便に出動要請がありました。「羽田空港まで、20分しかないけど行ってくれるか?」という場合はバイク便の中でもエースが出てきて、そのエースがギリギリで届けるわけです。「荷物を無事に届けました」という無線が入った時には1分前とか。それが格好良くて、やり甲斐を感じましたね。

1998年、2000年のフェネック誌面。アウトドアを満喫しながら誌面を作ってきた。写真下はさらに古いベストバイク誌時代の写真。大好きなバイクを朝から晩まで追いかけていた。

車からアウトドアへ

 就職は出版関係で、バイク誌でした。よくバイクの本は読んでいたので、その道へ進んでみるか、と。入社は1990年で、雑誌がまだバリバリ元気な頃でした。ところが、そのバイク誌が半年ぐらいで廃刊になり、1991年からベストカーに移ることになったんです。
 まだバイクの方が好きな時代ですから、なかなか気持ちを車に向けられず……。たとえば編集部で「ホンダに広報車を借りて来い」と指示があってホンダへ行くと、バイクも並んでいるわけじゃないですか。そっちの方に興味があるから、ずっとバイクを眺めていて、「帰りが遅い!」と怒られたりもしていました。
 入社したての頃はバブル期で、スカイラインGT-RやNSXが出た頃で、自分より上の世代がすごく興味を持っていたのを覚えています。で、その車がいかにすごいかを編集部内で語り合っているわけですが、自分はついていけませんでした。もう、敵わないなって思いましたね。4輪って複雑で、難しいじゃないですか。いろんな知識が求められ、当時は車の進化のスピードも速くて、楽しめるどころではありませんでした。
 転機になったのは、社内でアウトドア誌「FENEK(フェネック)」を創刊することになって移動したことです。今でいうSUVとキャンプの本です。僕は田舎育ちだったので、キャンプの知識はないんですが、ワラビ採りやサワガニを捕ったりと野あそびの知識はありました。ベストカーの隣で、まったく別ジャンルの雑誌を手がけ、自分としてはリラックスして仕事ができている時期でしたね。
 ただ、1996年にフェネックの編集長になったんですよ。そこからは本を売ることにも意識を向ける必要がありました。要は数字を追いかけなければいけなくなったんです。。当時は4輪駆動が人気で、パリダカブームもあってパジェロやランクルがどんどん売れていた時代です。フェネックの部数も伸びたんですが、アウトドアブームが下火になってきた時に数字を回復させるのが大変でしたね。ライバルとなるRV関連の雑誌も、次々になくなっていきました。
 結局、フェネックは10年ぐらい携わりました。伸び伸び仕事ができて個人的には大好きな雑誌でしたが、そこを離れる日がついにやってきます。

 アウトドア誌「FENEK(フェネック)」を離れて異動したのが、書籍やムックなど、定期誌以外のものを制作する出版部でした。今のように広告が少なくても価格を上げてムックを出すという空気が当時の出版業界にはまだなかったので、何か新しい媒体を出すにはクライアントからの広告出稿が不可欠。広告収入で何百万円以上を見込めなければ「GOサイン」が出ず、そのハードルを越えるのが大変でした。だから異動してしばらくは、フェネックやベストカーの手伝いをしていた時期もありましたよ。

時代の移り変わり

 出版部にいる間に出した本はいろいろありましたが、どれが売れた本かと言われると、なかなかすぐには出てきません(笑)。なぜかと言うと、これは編集部や制作側の悪い体質でもあるのですが、本を出すこと、校了することが大きなゴールだったりするわけなんです。今はそうは言っていられないですし、誰もが売れた、売れなかったを意識しなければいけない時代ですが、当時は本を出すこと、校了することが編集部としての最大のミッション。後になって数字が出てきて、「こんなに売れなかったのか」と嘆息することはあったと思いますが、作り手は出すことに全精力を注いでいました。
 雑誌に携わる中では感じませんでしたが、単行本などを手がけていると時代の移り変わりというものを痛感させられます。本を作っても当たらなくなる、あれ? 世の中が少しずつ変わってきているな、と。ドライビングテクニックもの、車選びの本も下火になりつつあって、出版事業が厳しくなってきたところにリーマンショック、東日本大震災が発生……。世の中で何かが変わって、いろんなものが売れなくなり、雑誌がとくに厳しい時代となりました。不景気ってこういうことなんだなって思いましたね。ベストカーは定期刊行物ですが、単行本などの出版物については業界が向かい風になると部数を極端にしぼられるんですよ。そこが出版部の難しさでしたね。
 「コンビニで買える雑誌」という意識づけもあり、ベストカーはざっくりと部数の6~7割をコンビニに置いてもらっています。それが根づいて多くの人に読んでいただけているのですが、近年はコンビニの数が増えたことで1店舗あたりの配本数が少なくなり、さらに各店舗の雑誌置き場が縮小されてしまい、早く返本して回転を上げる店舗も出てきました。結果、販売期間が短くなって、本自体の存在感も薄まってしまうんですよ。減り続ける書店についても回転を上げていく傾向は同じで、どの雑誌もそこに課題を抱えています。本が売れなくなってきた時代だから仕方ないよ──。そう言われますが、それを受け入れて僕らが諦めてしまったら紙は本当に終わってしまいます。
 ベストカーの発売日は毎月10日と26日。その日、コンビニへ行けば最新号が買える。だから10日と26日はコンビニへ行くんだ、と思ってもらえることがベストですが、発売から3~4日してもコンビニに行けば入手できるという安心感も大切です。部数が下がればダイレクトに目につく可能性が減るので部数を堅持しながら、いつでもどこでもコンビニへ行けばベストカーが目に入るという環境を堅持することも同時に大切なミッションです。雑誌の中身はもちろんですが、それ以前に雑誌があるよ、出たよというのを見せていくことが今は難しくなってきているのです。

2018年の新型ジムニー試乗会、モータージャーナリストの三本和彦さんと、フィンランド出身元ラリードライバーのトミ・マネキンとのショット。どれも本郷氏のある日の取材のひとコマだ。

紙だからこその魅力

 もうひとつ大切なのが、スマートフォンから雑誌へ導くこと。若い人の情報収集はスマートフォンがメインですが、僕ら世代やそれ以上になると液晶画面で文字を読むのがつらくなってきます。雑誌のように見開きでどんどんページをめくる方が楽だから、スマートフォンやウェブサイトから雑誌へどう導くかを考えつつ、そうして雑誌に入ってきた人たちを想定して誌面作りをしていけるかも重要になってきます。
 雑誌って自由だから、編集者の個性が各ページに強く出てしまいます。それが雑誌の面白さのひとつなのですが、一方のウェブサイトでは見出しの配置、本文級数、写真配置はほぼ決まっています。情報さえ得られればそれ以上の主張は必要ないと思っている人が雑誌を見ると、あまりにも主張が強すぎたりすることもあるでしょう。だから、紙が生き残るためにも、そういうことまで意識をして制作していくべきなのでしょう。もしかしたら本文級数を大きくして、タイトルを分かりやすくして、デザインをシンプルにしたらもっと紙で読もうという人が増えるかもしれない。雑誌が売れない時代と言われ、編集者たちが何とかするんだと頑張りすぎて雑誌が見にくく、読みにくいものになっている可能性もあるということです。
 ただ、悲観することはありません。僕らはまだまだ可能性があると信じて作っていくべきです。ベストカーの中に面白い記事が1本あった、ではダメだと思いますが、1冊の中に3本ぐらい「面白い!」と思わせるものがあれば生き残っていけると思います。もちろん、残りの記事が、そこそこのレベルを保ちながら面白いことが大前提ですが、そういう考えに切り替えていかないと、編集者が追い詰められてしまいます。
 まだまだ、紙でしかできないことはありますし、紙って手に取った時に何とも言えない満足感が得られるじゃないですか。取材先に「記事になりましたよ」と雑誌を送ると、それが小さな記事でもすごく喜ばれます。それは今も昔も変わらない感覚だと僕は思っているので、大切に残していきたいですね。

こちらが本郷氏の現在の仕事場。昔ながらの出版業界っぽさがいい。

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