39歳から始まった冒険

VOL.243

角谷 裕司 KAKUTANI Yuji

1973年11月5日生まれ
高校時代からハンドボールを始め、日新製鋼へ。その後、トヨタ車体ブレイヴキングスに移り、日本リーグを戦い、日本代表として世界選手権にも出場した経歴を持つ。2014年から畑違いのダカールラリーチーム監督に抜擢され務めるも、チームランドクルーザー(TLC)の連覇記録を途絶えさせることはなかった。TLCは現在、市販車部門で6連覇中だ。

今年のダカールラリーで6連覇を果たした
チームランドクルーザー(TLC)を
牽引する監督の角谷裕司さんは
ラリーとは縁のない世界の住人だった
ところが6年前に──。人生の転機を
迎えた角谷さんが歩む第2の人生とは?

銅メダル直後に休部

もともとは体育の先生になりたかったんです。体を動かすのが好きだったし、小学校と中学校で体育の先生を見てきて、格好よく感じたんでしょうね。体育の先生は勉強しなくていいわけではありませんが、どちらかと言うと勉強が苦手だったのもあります(笑)。ダメだったらインストラクターになるという道も考えていました。
 高校からハンドボールを始めて、天理大学にはその推薦で入ったので、大学でもハンドボール部を続けていました。入部当時そんなに強いチームではなく、2部リーグでしたが、体育の先生になることが最終目標でしたので、1部リーグへのこだわりは、ほとんどありませんでした。
 ところが、なぜかハンドボールがうまくなり(笑)、気づいたら実業団チームに興味を持ってもらえる選手になっていたんです。声をかけてくれたのが広島の日新製鋼でした。そこに入ってから世界選手権とバンコク、釜山のアジア大会に出させてもらい、初めて臨んだバンコクのアジア大会では銅メダルを獲ることができました。25歳の頃ですね。でも、帰国して皆に銅メダル獲得を報告したら、あまり喜んでくれなかったんです。理由が分からなくて聞いたら「じつは休部になる」と言われて呆然としました。僕の人生は、ここがピークだと思いましたね。
 ただ、ナショナルで一緒に競技していたトヨタ車体所属の清水選手が、「うちでやろう」と声をかけてくれたんです。僕は左利き。トヨタ車体のチームに左利きが少なかったので、スカウトされたんです。これは巡り合わせだなと思ったので、トヨタ車体へ行くことを決めました。それが27歳ですね。選手として4年ほどトヨタ車体でやらせてもらい、現役引退は31歳の時でした。
 僕は新規事業開発部という部署に配属されていたので、現役を退いた後は所属するその部でトマトを栽培したり、天然繊維を作ったり、あと植物材料の開発を続けていました。昇格して主任にもなり、一応開発部門なのでエンジニアという肩書きで人生を歩んでいくんだろうなって考えていました。昼休みに同じ部署の人と筋トレをしたり、走ったり、体を動かすことは続けていましたが、普通に会社員としての日々がこのまま続くんだろうなって。

指名された理由

いきなり朝一に上司から呼び出されたのは6年前、39歳の時でした。別室に連れて行かれて、自分はどんな悪いことをしてしまったのだろうとマイナスのことを想像していたら、「ダカールラリーの監督をやってみないか」という話を切り出されたんです。驚きを通り越して、最初はポカンとしました。
 実は自分がやる前の監督、森達人さんはハンドボール部の先輩で、現役時代は一緒にプレーしていた人なんです。その森さんが名指しで、次は自分にやらせたいと言ってくれたそうです。でも、同じハンドボール部だったとはいえ、なぜ自分が選ばれたのか、当時は分かりませんでした。車は好きでしたし、ダカールラリーも名前くらいは知っていましたが、その森さんが監督として携わっている程度しか知識はありませんでしたからね。なんで自分なんだ?
 それがようやく分かったのは、実際に監督として現場に行くようになってからです。ハンドボールとモータースポーツってぜんぜん違うように思えますが、集団で目標を達成するという視点では似ているんです。サッカーにミッドフィルダー、ディフェンス、フォワードがあるように、ハンドボールでもキーパー、サイドプレーヤー、センタープレーヤーというポジションがあります。ダカールラリーにもメカニック、ナビゲーター、ドライバー、監督というポジションがあり、各々が自分の与えられた役割をしっかり果たして、一致団結して目標を達成することを目指す──まったく違うように思えますが、共通する部分が多いんです。現場で監督業をやり始めてみて、自分が指名された理由が何となく分かった気がしました。
 監督の話をもらった時は、ちょうど39歳で主任にもなり、植物材料の開発が面白かったので、別に冒険をする必要なんてなかったんです。でも、話をもらってすぐに思いました。ここで冒険をしない決断をして、2~3年後にやっておけば良かったと後悔するなら、今チャレンジした方がいいんじゃないかって。ハンドボールでは日本代表だったけど、ダカールラリーの監督としては全然ダメだったねと言われる方が、後悔がないんじゃないかなって。ダカールラリーの監督なんて、やりたいですと言って、やらせてもらえるポジションではありません。これを逃すと一生後悔するんだろうなという思い引き受けたんです。
 ただ、はっきり言って僕は旅行も嫌いだし、飛行機も嫌い。プライベートでは海外へ行ったことも無いくらいです(笑)。監督の話をもらって妻にすぐ電話すると「あなたが全部苦手なやつばかりだね」と大笑いされましたよ。それに、想像はしていたことですが、監督として踏み出してからはとても大変な日々が待っていました。

1995年からダカールラリーに参戦するチームランドクルーザー・トヨタオートボデー。2014年から市販車部門で連勝している。大会中はチームとの共同生活で、各々の役割を精一杯にこなす。チームプレーとして結果を求めるところに、ハンドボールとの共通点が多いと角谷監督は語る。

ハンドボールの実業団選手だった角谷裕司さんが
39歳を迎えて突然、ダカールラリーに挑戦する
TLC経験、知識がない手探り状態から始まった中で
彼はどのようにして居場所を見つけたのか?

ダカールラリーの監督を引き受けると決めてからは、前監督の森達人さんのもとへ何度も足を運びましたが、いつもハンドボールの話になっていました(笑)。それはそれで面白かったのですが、後になって森さんが明確なやり方を教えてくれなかったのは、それがダカールラリーの本質だからだと納得しました。毎年、国や距離、コースも違い、主催者もやり方を変えたりするので、その都度対応していかなければいけない世界。以前のやり方を踏襲する、いわゆる定常業務、標準業務というのがほとんどないんです。
 1年目はTLCの事務局として国内でPR関係を担当してダカールラリーの流れを勉強し、監督としての現地派遣は2年目からでした。当たり前ですが、ドライバーやナビゲーター、スタッフも経験豊富なメンバーばかり。そんなチームに、誰より経験も知識もなく、英語やフランス語もほとんど話せない自分が入ったわけなので、最初は不安だらけの中で始まりました。疎外感はもちろん、ダカールが終わった時も、自分は何がやれたのだろうか? それが本当に分からないぐらいの無力さを感じました。ただ、チームの核であるフランス人メンバーとのコミュニケーションはうまくいき、終わった時に「きみのためなら次も頑張るよ」と言ってもらえたのが唯一の収穫でした。

監督業の実情

当初はラリーの知識や経験を増やして早く皆に追いつこうと考えていましたが、じつは誰もそんなことを期待していないとすぐに気づきました。ほぼプロ集団のチームで、最初から歴然とした差があり、いくら努力しても彼らを追い越してアドバイスをするなんて無理な話。やる意味がないわけではないですが、そんなことよりもっと違う部分で貢献した方がチームの力になれると気づいてからは、そんなエキスパートなメンバーが100%の力を発揮できる環境を作ることを第一に考え始めました。会社とチームの間に入っての架け橋となり、メンバーから些細なことで不満が出たらそれに対応したり、こういう工具が必要だと要望が出れば購入できるように調整したり、SNSにチームの最新情報を投稿したり……ほとんどが雑務のような内容です。ハンドボールやサッカー、野球でいう監督のイメージとはぜんぜん違うものですが、そうしたことを続けてきて、メンバーから必要な人間と思われるようになり、チームの中で僕も監督として受け入れられたように思えます。時間はかかりましたが。
 ラリーでの戦術や戦略についても、事前に“2台でサポートしながら優勝を目指して欲しい”というざっくりしたもの。実際に走るのはドライバーとナビゲーターで、彼らがプレイングマネージャーとして、その時、その場で最善の判断をして無事に帰って来てくれることを祈るしかできません。私利私欲で動くのではなく、プレイングマネージャーである彼ら自身がチームとして、トヨタ車体として目指すべきことをきちんと理解して行動する必要がありますし、そういうメンバーとの信頼関係を築くことが、僕の監督としての最大のミッションだと言えます。

難しい表情をしながら、腕組みしてチームに指示をする……というイメージの監督業だが、角谷氏が目指す監督は少々違い、まさに縁の下の力持ちの存在だ。

7連覇へのチャレンジ

今年、市販車部門で6連覇という記録を残せましたし、達成感は毎年増していますね。ただ、知識や経験を積んでくると、だんだん恐さも分かってきますし、自分がやらなければいけないことも増えてきます。違うプレッシャー、違う悩みもどんどん出てきます。そういう意味では楽なことなんてないですし、何度経験してもダカールラリーは大変です。
 過去、チームとしては6連覇という記録が3回あります。自分としては7連覇という新記録にチャレンジしたい気持ちが強いです。過去2度、6連覇までいきながら7連覇できなかったそこには何かがあると思っています。このチームなら、その何かを乗り越えられると信じています。
 また我々は昨年からオートマのラリー車開発に着手していますが、今年の大会はペルーの大砂丘がメインになるということもあり、砂路面でのデータが少なかったことから、安全をみて、投入を見送りました。ですが、これからもいろんなことにチャレンジして国内でのダカールラリーの認知度を高めながら、その魅力を伝えていき、もっと大きな視野で言えば、クルマ好きを増やしていくことが、我々がチャレンジし続ける目的です。
 39歳から僕自身も冒険を続けてきた気分です。監督1年目を経験させてもらった時、もし結果が出なくて「監督に向いていなかったね」と言われて監督を辞めることになったとしても、後悔は絶対になかったと思います。「良い経験をさせてもらっている」という感謝の気持ちしかないです。ダカールラリーに出会わなかったら絶対にできない経験をさせてもらってます。結果が出たからそう言えるのだろうと思われるかもしれませんが、結果以外にもいろんなことが学べるのがダカールラリーの世界であり、奥が深く刺激的なのです。冒険ですから。

2019年はペルー1ヶ国での開催。直前まで大会やルート情報が発表されず、事前対策には悩まされたという。そんな中でも、しっかりと6連覇を果たして、チームが持つタイ記録に並んだ。

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