身体ひとつでは体感できない領域、スポーツカーはそこを見せてくれる。 その1

VOL.23_2

藤島 知子 

神奈川県出身
幼い頃からのクルマ好きが高じて、スーパー耐久のレースクイーンを経験。その一年後、サーキット走行はズブの素人だったにもかかわらず、ひょんなことから軽自動車の公認レースに参戦することになる。以来、レースの素晴らしさにどっぷりハマり、現在は自動車雑誌やWeb媒体で執筆活動する傍ら、箱車にフォーミュラカーにと、ジャンルを問わずさまざまなレースに参戦している。
日本自動車ジャーナリスト協会会員、2008-2009カーオブザイヤー選考委員
藤トモ通信web
http://www.hobidas.com/blog/tipo/fujitomo

雑誌の企画を切っ掛けにレーシングドライバー・モータージャーナリスとしてのキャリアを積み、現在、雑誌・テレビ・Webなど多方面で活躍する“藤トモ”こと藤島知子さん。
テレビ神奈川制作の自動車情報番組「岡崎五朗のクルマでいこう!」にも
五朗さんのパートナーとしてレギュラー出演。
番組が見られる地域の方にはお馴染みかもしれない。
クルマに目覚めたのは遅かったというが、
そこからチャンスを活かして夢を一つひとつ掴んできた藤島さんにお話しを伺った 。

クルマ好きだったんだ!

まわりの女友だちが免許を取る頃、私はクルマは眺めるもの、助手席に座るものと思っていて、運転する機会もないし二十歳を過ぎても免許を取らなかったんです。ところが、付き合っていた彼がクルマ好きで、一緒に雑誌を見ていたらクルマの名前がポンポン頭に入ってくるんです。そのとき“アレ、私クルマ好きなのかな”って初めて気付いたんですよ。後で母に聞いたら「小さい頃クルマが好きでスーパーカーのミニカーで良く遊んでたじゃない」っていわれました。全然覚えてなかったんですが、潜在意識に“クルマ好き”があったんですね。
 それでクルマに目覚め、一ヶ月教習所に通いつめて免許を取ったのは24才の時。友だちはオートマ免許が多かったんですけど、私はスポーツカーに憧れたので、迷わずマニュアル免許。最初はひどくて、坂道発進はズリ落ちるし、脱輪はするわで教官に「おまえはダメだ!」なんて言われたくらいだったんですよ(笑)。
 乗りたかったのはRX-7でしたが、免許を取ってすぐ乗れる車じゃないと思い、まずオペルワゴンに半年乗って運転に慣れた後、ディーラーに乗り込んでRX-7の新車を契約したんです。でもオペルはAT。MTには乗ってなくて“坂道発進が心配”といったらディーラーの方が“MT車で駅まで送っていくので練習されては?”。運転したら案の定、坂道発進でズリ下がって、セールスマンはドアにしがみついてました(笑)。

軽自動車のワンメイクを経て、2005年にはスズキのワンメイクレースの最高峰「フォーミュラスズキ隼」のカテゴリーまでステップアップ。2006年はシリーズ4位の結果を残す。「子どもの頃から一つの事を余り長くやったことが無かったんですけど、レースに出会って本当に熱中できるものを見つけました」。
(写真は2006年 栄光D&CユニバーサルFS隼のコクピットで)

レースに出てみない?

当時モデルのバイトをやっていて、知り合いの中にレースに関係している方がいたんです。レースチームのマネージャーをやってみたかったので聞いてみたら「いきなりできるものじゃない」って言われて、ただ「キャンギャルが決まってないから、そっちをやってみたら」ということで、スーパー耐久のチームで一年間キャンギャルをやらせてもらったんです。サーキットは初めてだったんですが、レースの緊張感や雰囲気に囲まれるのが凄く楽しくて、もう一年やりたくなりました。でも、次が見つからないんです。
 そこに飛び込んできたのが初心者向けレース参戦の話。「RX-7に乗ってるんだからスポーツカー乗れるんでしょ?」みたいな感じで声をかけられて軽い気持ちで「はい、やります!」。それは雑誌K-CARスペシャルの企画で、前年から始まった“スズキKeiスポーツカップ”というワンメークレースに全くの素人が参戦してレポートを連載する、というものでした。ところがこのレース、A級ライセンスが無いと走れないJAF戦だったんです。サーキットを走ったことは無いし、ヒール・アンド・トゥーもできない私が、RX-7に乗ってるということがキッカケでレースに出ることになってしまったんです。しかも、記事としてレポートを書かなければいけない。これが私のドライバー、ライターの同時デビューになりました。

スズキKeiスポーツカップ参戦2年目、車両はSWT静岡@ジアラKスペKei。

レース&ライターデビューの切っ掛けとなった雑誌K-CARスペシャル。2002年のK-CARスペシャルがお手許にあれば、ご覧いただきたい。

面白さにハマる。

デビュー戦は2002年5月12日、菅生で行われた北日本シリーズの第2戦でした。生まれて初めて走るサーキットがデビュー戦で、しかも高低差が60mもある難しいコース。これに備えて箱根で夜な夜な一晩で二回満タンにするくらいヒール・アンド・トゥーの練習をしましたが、いざサーキットを走ると、最初わけのわからないうちにスピンしたり、普段FRのRX-7なのでFFの動きが恐くて恐くて、「なんでこんなに恐いのに走らなくちゃいけないんだろう」って思うくらい恐かったんです。でも結果は、後ろから4番で絶対ビリだと思っていたので少しうれしかったですね。
 クルマはメーカーから雑誌社に貸してくれるんですが、サポート体制は特になくて、ナンバー付のレースなので、タイヤ4本と工具を積んでひとりで自走で菅生(仙台)、オートポリス(大分)、セントラル(兵庫)まで行き、空気圧とかちょっとしたセッティングも自分でしました。
 レースで大事なのは精神的なコントロールだったり、負けん気だったり、そこに体がなんとかついてくるというところだと思うんですよ。そういった面で他のスポーツと違って、クルマという道具を使うことによって、男女関係なく対等に戦えるっていうのもモータースポーツの魅力ですね。
 クラッシュもやったし、横転もしましたが、それでも雑誌の企画なので走らなきゃいけないし、軽いムチウチ状態でもレースをやっていると興奮状態なんで痛みを感じないんですね。この一年でレースの面白さにはまってしまい、もう一年やりたくなりました。

2001年、スーパー耐久のクラスNプラスにエントリーするJIC with KRAFTチームのキャンギャルを勤める。ドライバーは山路慎一選手と松田晃司選手で車両はJIC クリスタルアルテッツァ。「キャンギャルは一年やると、来年もやりたいってなるくらい楽しいんです」 。

スズキKeiスポーツカップ参戦のきっかけを作ったRX-7。その後、ホイール4本を盗まれたうえ、参戦中のフォーミュラスズキ隼のエンジン換装と重なったため、泣く泣くRX-7を手放して隼のエンジン費用を捻出したという。

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