時間を区切らず、諦めないで続ければ、いつかきっと夢は叶う。 その2

VOL.23_1

井原 慶子 

1973年生まれ 東京都出身
レースクィーンの時にモータースポーツに魅了され、レーシングドライバーをめざす。'99年レースデビュー。'00年英国フォーミュラ・ルノーチャンピオンシップ。'01年フランスF3参戦。'02年AF2000ゲスト参戦。'03年Formula BMW Asianシリーズ。'04年フォーミュラドリーム全戦参戦。'05/'06年イギリスF3に日本人女性初フル参戦。
http://ameblo.jp/iharakeiko/
http://www.keikoihara.com/
http://www.hobidas.com/blog/auto/ihara/
http://www.hobidas.com/blog/auto/ihara/m/

レースデビューから'05、'06シーズン英国F3フル参戦まで、フォーミュラのカテゴリーを7年で駆け上がり、'07からはヨーロッパでF3000のテストにも参加した井原慶子さん。
昨年、ご結婚をされたという事もあり、今までのレース参戦形態とは少し形を変えていく事となるだろう。
しかし、この間に得たものは大きく、現在、モータースポーツ関係はもちろん、
ドライバー、ジャーナリスト、タレントとしてマスコミを中心にその活躍の場をさらに広げている。
今回は海外の事情やこれからの夢などを伺った。

諦めない。

渡欧2年目はフランスF3に参戦し、4回入賞することができましたが、翌2002年は多くのスポンサーがモータースポーツから撤退した年で、資金難になってレース活動を続けるのが困難な状況に陥ってしまいました。モータースポーツは男性社会なので、スポンサー探しにしても“女性ではレースに勝てないから、そこに投資はできない”と断られることもあって、男性のほうが有利なんですね。それでも「チャンスはゼロじゃない!」と諦めないのが私で(笑)、体力アップのトレーニングとスポンサーへの営業をねばり強く続けました。ドライバーになりたいとかメカニックになりたいとか、レースの世界を目指したとき、女性に対しての環境が整っていないだけに、女性の方が絶対ハングリーになれると思いますよ(笑)。
 おかげさまで'02年はシーズン途中からアジアン・フォーミュラ2000(AF2000)にスポット参戦できるようになって優勝も経験したし、マカオGPでも大会史上初めて女性として表彰台に上ることが出来て、様々な意味で印象深いシーズンでしたね。翌年もアジア各地を転戦するフォーミュラBMWアジアシリーズに参戦し、シーズンランキング3位を獲得しました。この中でアジアの人たちに触れ、知り合ったことも大きな収穫でしたね。

2005年、化粧品会社IVYのスポンサードを受け、F1の登竜門と言われる英国F3にアジア人女性として初のフル参戦を果たす。
「レースクィーンとして車の横に立つんじゃなくて、この車の中に乗り込みたい!」。
その強い思いが、念願の英国F3参戦を実現した。
'05シーズン所属チームはF1ドライバー佐藤琢磨もF3時代に所属していたカーリンモータースポーツ。
入賞7回、シーズン16位。
(#5 Ivy with Carlin Motorsport /ダラーラ・ 無限ホンダ)

'02年は資金難になるも、アジアンフォーミュラ2000にスポット参戦。第9戦のビラ・インターナショナルサーキット(タイ)ではポールト・トゥ・フィニッシュ。女性ドライバーとしてFIA公認フォーミュラカーレース史上初の優勝という快挙となった。
('02アジアンフォーミュラ2000 Team Yellow Hat)

アグレッシブが当たり前。

最初に見たモータースポーツがフォーミュラだったので「それをやりたい」「あのクルマを自由自在に操ってみたい」「F3ってどうやって行くのか知らないけど、とにかくあそこに行きたい!」って思って26歳でレーシングドライバーとなって7年、目標としていたイギリスF3へ'05シーズンにフル参戦を果たしました。入賞7回、世界選手権にも出場しました。翌シーズンも入賞4回と、イギリスF3という夢の舞台で入賞することで大きな達成感を得ました。
 アジアやヨーロッパを転戦して一番感じたことは、レースに賭ける想いの違い。民族性の違いもあるかもしれませんが、ハングリー精神が強いんです。レースはマシンのノーズコーンが接触するくらいアグレッシブな走りが当たり前で、ノーズが無傷だと監督から「帰ってくるな!」と叱責されるほど(笑)。日本では縁石の内側を走るドライバーは居ないと思いますが、ヨーロッパでは、レギュレーションを調べて、問題がなければ何でもやってきます。教科書通りのことではなく、タイムを出すためにはどこをどうするか。それはクルマづくりにも言えることです。 
 トレーニングの仕方にしてもマニュアル通りなんてことはなくて“スケボーの上でテニスラケットを振って体幹を鍛える”といったように型にはまらないで創造的に工夫するんです。それぐらい、勝つことにハングリーになって取り組んでいます。日本は安全なレースという点では優れていますが、スポーツとしての戦いという点では、まだ大人しい感じがしますね。

同じく'02年11月には世界選手権「マカオグランプリ」のサポートレースAF2000でも大会史上初の女性入賞(3位)を獲得。モータースポーツの人気が高いアジア各国では、レーシングドライバーとして有名な存在だ。

'06年、エスグラント・コーポレーションをスポンサーに得て、再びカーリンモータースポーツから2年目のF3フル参戦を実現。入賞4回、シーズン17位。
(#11 S-GRANTRacing Team/ダラーラ・無限ホンダ)

いつかエコカーでル・マンに。

「F1に乗りたい」という気持ちもあって、2007年には国際F3000のテストに参加しましたが、今はマシンの進化スピードがすごく速くて、スポーツ科学に基づいて鍛えても、体力的に追いつけないという現実があるんです。15年くらい前のマシンならついて行けたかもしれませんけどね(笑)。F1に乗ることはできませんでしたが、イギリスF3入賞という夢を達成できたので、レーシングドライバー人生に区切りをつけることにし、昨年結婚もしました。
 ヨーロッパを中心に一年の四分の三を海外で過ごす生活から、活動基盤を日本に移して日本やアジアのモータースポーツ界を見ると、女性がドライバーとして活動を続けられる環境が整っていないことを改めて思い知らされましたね。欧米に比べて女性の社会進出が遅れているアジア地域では 女性がレーシングドライバーとして活躍するには、まだまだ多くの困難があります。しかし、皆が知恵を出し合い、工夫すれば、アジアにおいてもモータースポーツが発展し、女性のスタッフやドライバーが活躍できる土壌が整えられるはずです。
 今の夢はエコなクルマでアジアのスタッフと一緒にル・マン24時間レースに出場すること。アジアが発展すれば嬉しいし、モータースポーツとエコロジーとの融合ができたらと考えています。
 どんな夢にしても、大切なのは、時間を区切らず、諦めることなく続けること。そうすれば、いつかきっと叶うものです。免許も持っていなかったレースクィーンが数年後にレーシングドライバーとなって世界を転戦したように、です。

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