遅咲き男が目指す頂。

VOL.233

安藤 佳樹 ANDO Yoshiki

1973年1月6日、香川県三豊市生まれ。
24歳までストリートのゼロヨンに明け暮れ、26歳よりサーキットで開催されるドラッグレースに参戦開始。日本チャンピオンに輝いた経歴を持つ。40歳の頃からチューニングカーのタイムアタックイベントに参戦し、近年は急成長をして各地のコースレコードを塗り替えるなど話題を集めている。

チューニングカーのタイムアタックイベントで
今では日本一を競い合う顔として知られる安藤佳樹
特殊重量物輸送や建設会社などの代表という本業を
疎かにすることなく、40歳という年齢で
サーキット走行に目覚めたこの遅咲きの男は
どんな人生を歩み、これからどこに向かうのか?

香川県三豊市に生まれた自分は、小さい頃からエンジンの付いた乗り物が大好きでした。親父が小さな建設会社を営んでいたのもあり、軽トラや建設機械が身近にあったものだから、小学生のときから敷地内で勝手に軽トラやユンボを乗り回して遊んでいたのを覚えています。
 中学生の頃は、周囲の影響で乗り始めたバイクに明け暮れていましたね。そんな日々が一転したのが16歳のとき。近所にバイクレースをしている4つ上の先輩がいて、ローカルな阿讃サーキットへ連れて行ってもらったんです。そこで?スピード?というものに感銘を受けて、目覚めました。今まで乗っていたバイクには大きなロケットカウル、三段シートなどを付けていましたが、それらを付けることで空力が悪くなりスピードが出ないと気づき、余計なカウルを外してハンドルもセパレートタイプに換え、旧車でスピードを求めるスタイル──峠を走る、いわゆるストリートでのスピード追求ですね。それを始めて間もなく、仲間でサーキットへ走りに行こうという話になり、初めてサーキットを走ったのも16歳のときでした。ただ、当初は旧車でのサーキット走行だったので、レプリカとは圧倒的なスピード差がありました。すぐにレプリカに買い換えましたね。
 一方で、仕事はまじめにしていて、学校の合間にバイトをしてバイクや部品の調達は自分で稼いだ中から出していました。

ゼロヨンに明け暮れる

阿讃サーキットのライセンスを取得し、レースに参加し始めるようになったのも自然な流れでした。最初は、レースのカテゴリーで言うとSP400ノービスに挑戦。そのクラスでは上位に入ることもありました。そして、先輩のトランスポーターにバイクを積んで他県のサーキットへ遠征をし始める頃には、国内A級のF3Aにステップアップしていました。そこでは苦戦しましたね。当時は競技人口も多く、そのクラスは激戦区。歯が立たないレベルの高さでした。出たレースのなか、予選で残るのが半分、残ったとしてもビリから何番目みたいな。バイク人生では大した成績は残せませんでしたよ。
 18歳になると、バイクを終えて自然と免許を取って車に目覚めていました。初めて買ったのが7Mというエンジンを搭載したスープラ。ちょこちょこマフラーやコンピュータを交換しつつ、近くで開催されていたストリートゼロヨンへと足を運ぶようになりました。ストリートゼロヨンとは土曜日の夜、工業団地の一角にある1キロほどの直線に400メートルのコースを設けてタイムを競うストリート競技です。当時は200~300百台が集まり盛り上がっていて、自分も車をチューニングしながら夢中になって参加していました。
 そんなことをしながら成人を迎えて、23歳の頃までゼロヨンをやったのかな。そこで人生の転換期が来ました。自分で商売をしようという考えが芽生えて、それまで勤めてきた建設関係の仕事を辞めて同じ建設関係の会社を作り、身近にいた友人4~5人でスタートしたんです。今なお続けている株式会社安藤工業ですね。所有していた車とバイクを全部売り払って、それを元手に建機を買い揃えました。今の安藤工業の1号機たちです。そんなとき、阪神淡路大震災が起こり、復興に力を貸してくれないかと香川出身の人から声がかかったんです。それまで遊びで香川県から出ることはありましたが、寝ぐらを変えるのは人生初。一大決心をして、会社として復興活動に参加させてもらいました。

ドライビングレッスンの一環で、よく通っているのが東京都港区にあるTOKYO VIRTUAL CIRCUIT
(http://tokyovirtualcircuit.jp)。
シミュレーターで集めたロガーデータをもとに、砂子塾長(左)から厳しいレクチャーを受ける。

香川に戻る決断

神戸には、実質1年半ぐらいいて、23~24歳の年齢では考えられないほど商売としては成功しました。これから神戸で1番を目指そうという気持ちが高まっていくなか、ある日、そんなとき親父から連絡があったんです。帰って来て、会社を引き継いでくれないか、と。それまで親父とそりが合わなくて、一緒に仕事をすることはなく、そのときも三回ほど神戸に来て頼まれましたが、すべて断りました。ただ、自分から出した条件であった、会社の全権を委ねる、譲るというのなら預かってもいいというのを最後に親父が呑んだんです。だったら、引き取ろうという思いから、ある日の夜、一緒に頑張ってきた会社の仲間たちを集めて打ち明けました。「香川でトップを取れない会社では、この100万都市の神戸では1番なんて取れない。一緒に戻らないか」。もしかしたら離れていく人もいるかなと思いましたが、「よし、香川で1番を取ってから日本での1番を目指そう」とみんなが賛同してくれたんです。驚きと同時に感謝の気持ちがあふれるなか、香川で第2の人生が始まりました。

仕事がひと段落した26歳からドラッグレースや
タイムアタックイベントに打ち込み始め
40歳という年齢でついにサーキットデビュー
この1年の成長でチューニングカーの
タイムアタックイベントで日本一を競う存在に──
その飛躍の秘密と目指す頂を安藤佳樹が語る

24歳で地元の香川県に戻ってから2年間、寝ても冷めても仕事に明け暮れました。そして、事業が軌道に乗った26歳のとき、ようやく資金に余裕ができたので、大好きな車を再び買いました。以前所有していたGTS-tタイプMを仕事の資金作りのため友達に売ったのですが、それを買い戻したんです。そこからまたドラッグレース、4分の1マイル?ゼロヨン?などヨーイ・ドンする競争に出始めたんです。主に本州のサーキットで競技が開催されていたので、車を持ち込んで遠征していました。資金や時間に余裕があったので、自分なりに一生懸命に取り組んだ結果、ドラッグレースでは日本チャンピオンになれました。今でもプロストックカーにおいては、コースレコードを保持しています。
 マシンはある出会いからエスコートという、埼玉のメンテナンスショップにお願いするようになりました。もう15年のお付き合いですね。今乗っているランサーもエスコートがメンテナンスをしてくれています。仙台ハイランド、富士スピードウェイ、セントラルサーキット、オートポリスの一部を使ってドラッグレースやゼロヨンに参加する日々を10数年続け、日本中を走り回りました。ところが、東日本大震災が起こりました。専用コースがあり、よく訪れていた仙台ハイランドが被災してコースは閉鎖。その後、売却されてしまったんです。

40歳でデビュー

エスコートでドラッグレースをする頃からグループ会社を持つようになっていました。そこの社長たちもモータースポーツ好きで、みんな一緒にドラッグレースをしに仙台ハイランドへ通うこともありました。震災で専用コースが壊れてからは「じゃあ、好きな車を買って周回路の走行会や草レースに出てみよう」となって、近場の岡山国際サーキットを走り始めたんです。周回路を走るのは生まれて初めて。
 サーキットを走ろうと誘ってくれたのは、今でもポルシェGT3のレースに参戦している、ひとつ上の先輩。当時、自分はGT-Rを買い、「カーブって難しいんだな」と思いながら走っていました(笑)。GT-Rなんだからシビックに負けないだろうって思っていたけれど、勝てなかったのを覚えています。先輩から周回路を走るのは奥が深いんだという話を聞いて、アプローチの仕方、カーブの曲がり方、立ち上がり方を教えてもらいましたね。それが5年前、40歳の頃です。
 そこから今のランサーエボリューションに乗り換えて、マシンの戦闘力を上げつつ、自分のドライビング面もチューニングを進めていって、あれよあれよという間に速くなった。素質あるじゃんって自分でも勘違いするほど(笑)。
 40歳から始めて、これだけ楽しみながら成長できているのは、エンケイさんをはじめとした良い出会いが多かったことに尽きます。ドライビング面ではつちやエンジニアリングの土屋武士さんと、その教え子でもある松井孝允さんの存在が大きいです。それまでも「そこそこ」は走れていたんですが、ドライビングレッスンを受けたことがなかったから「詰めた走り方」が完成していなかったんです。富士スピードウェイで走るのをふたりに見てもらって、データロガーからもアドバイスをもらうトレーニングを重ねました。レースに向けた姿勢も、厳しく指導いただきました。一方、サーキット走行以外でも、東京港区にある「TOKYO VIRTUAL CIRCUIT(http://tokyovirtualcircuit.jp)」に行って、積極的にシミュレーター走行をしました。そこで砂子塾長にレクチャーしてもらったことが、サーキット実走でのプラスになっています。

この1年でドライビングスキルが飛躍的に向上したのは、土屋武士さんのアドバイスのおかげ。谷口信輝選手のコースレコードを破るなど、安藤氏は話題の45歳となった。

1周の魅力

そうした積み重ねで、この1年、自分でも成長したと感じていますし、実際にセントラルサーキット、岡山国際サーキットで谷口信輝選手のコースレコードを破れました。タイムアタックの競技では谷口か安藤か、と言われるほどです。とはいえ、歳も歳なのでプロレーサーを目指しているわけではありません。ただ、サーキットで狙うタイムはプロ以上のもの。常に真剣勝負です。
 S耐やスーパーGTなど、上を見れば魅力的でチャレンジしたいカテゴリーは多いですが、タイムアタックの世界も自分は大好きです。すごく短い、たったの1周だけ、2周目がない。ジャンケンポンの世界で勝ち負けが決まる早さ。エンジンをかけてコースに出たら「ごめんなさい、ちょっと待って」がないんです。耐久のような長いレースだと数々のドラマが生まれますが、タイムアタックはドラマが生まれる前に終わってしまう。周回レースのように、さっきあそこでミスしたから次はこうしようというのはないんです。ミスが許されない、非常に心地いい緊張感に包まれています。その世界に身を置いて、各地のサーキットのコースレコードを打ち立てていくことも、ひとつの目標ですね。どこまでやれるか分かりませんが、自分ができることを今後も精一杯やっていきたいですね。

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