一瞬の勝負

VOL.221

松井 有紀夫 MATSUI Yukio

1979年1月26日生まれ 東京都出身
2002年、当時最年少でD1ライセンスを獲得してデビュー。2012年のD1 GP Tokyo Drift in Odaibaでは単走クラスで優勝。2013年よりEXEDY R Magic D1 Racingに移籍して、2014年第4戦エビスサーキットにおいて総合優勝。2015年よりRE雨宮に移り、RX-7を駆りD1を戦っている。2009年からはJAF公認レースにも参戦して活躍。愛称は「ガルル松井」。
http://ameblo.jp/yukiomatsui/

モータースポーツの世界でも「職人」と呼ばれる人たちがいる。
若さや勢いは衰えても、
卓越したドライビングスキルで観客を魅せる者たちだ。
松井有紀夫もD1グランプリではその職人のひとり。
2015年より老舗のRE雨宮に所属し
チームとしてまだ果たせていない王座獲得を目指す彼は
どんなキャリアを積み上げ、ここまではい上がってきたのか。

もともと小さな頃から車が好きで、工業高校の自動車科に進学したこともあってバイク好き、車好きが周りにすごく集まっていたんです。その影響を受けたというか、自然な流れで「バイクの膝擦り」に夢中になっていたんです。その会場近くには車も集まってきてドリフトをしていて、車が横を向いて走る姿を見てかっこいいなと思うようになっていました。そして、たまたま先輩がシルビアを買い、助手席に乗せてもらい初めてドリフト会場に連れていってもらったのきっかけに、この世界にハマってしまいました。  当時17歳で、頭の中はバイク一色から車一色になり、早く車を手に入れたくて仕方なかったですね。免許を取得する18歳までにバイトをたくさんして車を買う資金を貯め、免許を取る前にたまたま良い車が見つかり、先に車を買っていました(笑)。そこから毎日のように教習所に通って、免許を取ってからはドリフトの世界に明け暮れましたね。

D1の衝撃

僕がドリフトを始めた頃に、まだD1グランプリ(全日本プロドリフト選手権)はありませんでした。当時は「いか天」など、雑誌主催のドリフト大会がほとんどでしたが、その中でもエキスパートの走りを間近に見られて、すごくシビれていました。「自分も同じことをしたい! 絶対にできるはずだ!」。そう思い込んで下手くそな時期からうまいドライバーの真似をしようとしてコースアウトで土手を登ったり、クラッシュしたり……その奥深さと格闘しながら練習していました。
 D1が始まったときは、僕はまだそのビデオを見て憧れる側でしたが、映像の中で登場するトップドライバーたちと他の大会でお会いすることもありました。徐々に自分のスキルが上がり、そこに近づいている手応えがあったので、やっぱり最高峰のD1にチャレンジしたい気持ちが強くなっていきました。まだ当時はドリフトのプロがいなかった時代ですが、土屋圭市さんが「ここでプロの世界を作る、ドリフトでメシを食っていけるようにする!」と公言したのを聞き、僕自身は絶対にやるしかないなと決心を固めました。
 当時のD1には選考会があり、それに応募しました。まず書類選考があって通過した人たちがD1の大会当日の早朝に集められ、何周か走ってドライビングを披露し、審査員の方々からOKをもらえれば本戦に出られる権利を得られたんです。舞台はドリフトをやり始めた頃から自走して通っていたエビスサーキット。2002年、23歳の挑戦でした。当時は勢いもあったし、自分でも勝ち残れると信じてその日を迎えました。

ドリフトの奥深さ

ドリフトのスキルは本当に奥深い世界で、とくにD1に関しては「一瞬の勝負」と言えます。スタートしてひとつめのコーナーの手間で入力をしてバンッと車を振り出す、その瞬間にほとんどすべてが決まるんです。そこで決まっていないと負け。僕は少しサーキットレースもやっていましたが、グリップ走行のレースでは小さなミスならその周か次の周で取り返すことができます。もちろんミスなく完璧が理想ですが、ミスしたときのリカバリーがドリフトの方がしづらい。走っている距離も短く、時間も短いですから。
 グリップ走行をしている人によくドリフトが難しいと言われますが、どちらも経験した身からすれば、どっちも難しい。ただ、少し難しさが違いますね。ドリフトはグリップと比べると「待ち」が必要なんですよ。何もしない待つ時間がすごく大事で、グリップ走行に慣れているとその間が作り出しにくいようですね。車を振ってドリフトし始めた後に、何かをしたがってしまうんです。でも、実際はその一瞬の間を作ってあげることによって、車がいい角度になり、タイヤに荷重がしっかりかかる態勢になる。それを理解していないと、うまくドリフトを決めることはできません。
 言葉にするとそんな感じですが、現実は合わせるのがすごく難しく、完璧にできた人だけがD1で上位に残ることができます。エビスサーキットの選考会の結末ですが、じつは当時最年少でD1の本戦に出る資格を得られました。たしか選考会で残れるのは2台で、その1台になれたんです。下からはい上がってきて勢いがあるので注目もされ、会場のアナウンスでも期待の言葉が流れていたのですが……その日はミスをしてしまい、予選落ちです(苦笑)。ものすごい緊張感で、完全に舞い上がっていましたね。最初の入力がうまくいかず、きれいにラインに乗れず、リズムが崩れたままで終わり。D1の厳しさを思い知った、恥ずかしい記憶です。

サーキットでは真剣勝負をするドライバーだが、普段は「M2evolution」というトータルカーサポート店を自ら営む。その店を起点に今後もさまざまな活動を検討しているという。

若い頃に誰もが経験する勢いという追い風
それを味方に松井有紀夫はD1の扉を開け放ったが
最高峰で洗礼を受けて敗退してしまう……
ただ、そこで諦めなかったのが松井の強さだった
ストリートリーガルでリスタートを切って
D1GPに戻ってきた彼だからこそ見えた世界とは?
この15年のドリフトの進化とともに語ってくれた

ドリフトという競技はこの10年ですごく進化しています。10年前と今では、車の走らせ方がまったく違い、ドライビングのスタイルもどんどん変わってきています。その要因は主にタイヤと車両の進化、そしてエンジンのパワーも影響していて、現在のD1車両は800馬力、1000馬力もあります。また、そのステアリングの切れ角が大きくなったことでの進化も大きかったですね。ナックルを改造することが以前はなかったので、その改造が広まると一気に走らせ方が変わってきたんです。
 通常の純正ナックルでは40度も切れればいい方ですが、今のD1車両は60度も切れます。まるでフォークリフトのようなんです。だから、スピンをほとんどしなくなりました。バンッてステアリングを切って真後ろを向いたとしても、カウンターステアを当てれば挙動が戻るんです。そこはマシンをコントロールするうえでは大きく変わったところです。だから今は、完全に角度をつけて踏んでいくスタイルで、それに合わせた車作りをできないと勝てない世界だと言えます。
 採点方式も2013年から変わりました。D1独自の機械採点システムである、D1オリジナルスコアリングシステム(通称DOSS=ドス)が採用されているんです。ドスは今まで審査員の主観のみに頼っていた採点を数値化してくれる機械です。速度、加速度、角度、角度の安定度、振り出しの素早さなど、走りの優劣を分かりやすく点数としてアウトプットしてくれるので、審査員によって目視されているのは基本はコースアウト減点のみ。ただ、この「ドス」ではラインの審査まではしていません。昔は走行ラインに対する、ライン指定というのがあり、ここでアウトクリップを通って、あそこでインクリップをとって抜けてくださいというものですが、ドス採点になってからはインベタでもいいし、アウトインアウトでも、ラインはどこでもよくなり点数への影響がなくなったんです。もちろん点数が出るラインを考えなければいけないのですが、一発目の入力の仕方に対して車が速く深い角度で安定して曲がれるラインは、それほどたくさんはありません。そこを通りながら限りなくミスがないようにコントロールできるかが、今のD1の勝負どころ。音や煙など、豪快なイメージがあるD1ですが、ドライバーは針の穴に糸を通すような繊細な操作を求められるのです。

2013~2014年に所属したEXEDY R Magic D1 Racingでは初の総合優勝を挙げた(2014年)。場所はホームコースのエビスサーキットだった。

ホームで初優勝

エビスサーキットでD1GPにデビューして予選落ちで終わった日は、本当に悔しい思いでした。甘い世界じゃないな、と。当時のD1は1シーズンのなかで予選通過が一度もできなければライセンスを失効してしまうのですが、僕はその後に一度、ライセンスを失効しているんです。その頃は自分でメンテナンスをして、自走でサーキットまで行き準備をして、という参戦状況だったので、さすがに厳しかったですね。
 もっと腕を磨かないといけないし、参戦体制をしっかり整えないといけない。そう感じたので、もう一度ライセンスを獲ると同時に普通の車でも出られるストリートリーガルにも出始め、メカニックとスポッターについてもらいチームとして参戦体制も整いました。そこからやり直す形でスタートしたら、成績も上向きになってきましたね。
 ストリートリーガルは2シーズンを戦って、2年目は最終戦の最後の最後までシリーズ争いをしました。トーナメントラダーで、現ドルーピーの松川和也選手とどっちが獲ってもおかしくない状況でしたが、ベスト8で車が壊れてしまいました。悔しい気持ちはありましたが、手応えはありました。
 翌年からまたD1GPに上がることができて、チームもストリートリーガルを戦った体制で再挑戦の機会を得られました。初優勝は2014年のエビスサーキット。自分が免許を取って以来、月2回ほど下道で通っていたホームコースでもあるので、そこで勝てたことは一生忘れられない思い出です。2015年からはRE雨宮からプロとして参戦させてもらっています。車両もすべて用意してもらい、この老舗のチームで走らせてもらえることに感謝するとともに、ものすごいプレッシャーの毎日で、今でもステアリングを握るときは緊張します(笑)。そんななかで、やっぱり日本発祥のモータースポーツですし、D1はナンバーワンの競技のひとつだと思っているので、そこで勝ち続けたいと思っています。今の目標はチーム自体がまだ果たしていない、シリーズチャンピオン。まずはそのためにRE雨宮で1勝を挙げたいです。ドライバーが松井で良かったと言われれば幸せですね。

車両、タイヤの進化とともに走らせ方も大きく変化。ドライバーに求められるものが高まる一方で、ドスの導入による新しい審査方法にも対応しなければいけなくなった。

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