光と車を 追い続けた40年
VOL.325 / 326
鈴木 貢 すずき みつぐ SUZUKI Mitsugu
有限会社スタジオ・ルーキー 代表取締役
1957年青森県生まれ、横浜市で育つ。高校時代に写真と出会い、東京のスタジオ修行を経て20代で浜松へ移住。1989年に有限会社スタジオ・ルーキーを設立し、自動車・オートバイを中心とした広告撮影に携わる。とりわけエンケイ製品の撮影は40年以上にわたり担当。現在も第一線の現場に立ち続けている。
HUMAN TALK Vol.325(エンケイニュース2026年1月号に掲載)
浜松を拠点に40年以上、自動車撮影の第一線に立ち続けてきたスタジオ・ルーキー代表・鈴木貢氏。高校時代に手にした一台のカメラを出発点に、東京での修行、浜松への移住、そして独立と、決して平坦ではない道のりを歩んできました。節目ごとに現れた“貴人”と呼ぶ恩人たちに導かれながら、写真家としての基盤を築いていった鈴木氏。今回はその前編として、カメラとの出会いからエンケイとの縁をつかむまでの物語を紹介します。
光と車を 追い続けた40年---[その1] 最初のカメラは 新聞配達40日分の給料で
カメラに初めて触れたのは、高校1年のときでした。写真部に入ったはいいものの、自分のカメラがない。家の中を探し回って、ようやく父が持っていた古いハーフ版のカメラを見つけました。でも周りの先輩はみんな立派な一眼レフを持っている。私だけ安い大衆カメラで、「これじゃ話にならない」と一念発起しました。どうしても一眼レフが欲しくて、必死で考えた末に新聞配達を始めました。朝刊、夕刊、集金まで全部やれば、40日で何とかカメラ一式が買える計算だったんです。
そのお金で買ったのが、ペンタックスの一眼レフ。決して高級機じゃありません。でも、フィルムを巻き上げてシャッターを切るだけで胸が高鳴った。カメラ1台とレンズ3本、それを黒いボディが擦り切れてちょっと金色っぽく変わるまで使い込みました。あの頃、写真を撮ることが〝自分に向いているかもしれない”と初めて感じたんです。
鈴木氏の最初の車『カリーナ2ドアHT』にもエンケイの『コンペエイト』が
東京のスタジオで知った プロの世界と挫折
高校を出てからは「プロになりたい」という気持ちが強くなり、東京のスタジオに出入りするようになりました。赤坂のスタジオを紹介され、名のある写真家の下でアシスタントを始めました。
当時のスタジオは本当に厳しかった。アシスタントにも序列があって、私は「サード」。弁当の買い出しから運転、雑務ばかりで、肝心の撮影にはほとんど触れません。でも、みんなその道を通るんです。一番上のアシスタントになれば、先生が出版社や雑誌の仕事を紹介してくれて、やがて独立していく。
当時、最初に買った車がカリーナの2ドアHTだったんですけど、それに履いてたホイールが偶然にもエンケイの『コンペエイト』というホイールでした。で、車を持ってるというだけで「車持つなんて君生意気だよ」みたいに言われたりして。そういう世界に私はどうしても耐えきれなかった。「この序列の中で何年もやり続ける自分」が想像できなかったんです。
若くて、生意気だったんでしょうね。東京での修行は短く終わり、私は自分の進む道を探すため、東京を離れることにしました。
浜松への移住、そして独立── しかし仕事がない
浜松に来たのは、本当に偶然でした。知り合いがいて、「しばらくいたら?」と声をかけてもらっただけです。まったく縁もゆかりもなかったけれど、なぜか浜松の空気は自分に合っていました。この土地でスタジオに勤めたり、車の撮影に関わったりするうちに、自然と〝ここで生きていこう”と思うようになりました。
そして1989年、32歳のときに独立しました。しかし――半年間、仕事が一件も来ない。驚くほど、本当にゼロでした。
当時、独立の足場になったのは、10歳年上の男性が貸してくれたビルの一室でした。〝お前、ここ使えよ”とほぼ無償で貸してくれた場所です。文句なんて言える立場ではありませんでしたし、撮影できる場所があるだけでありがたかった。それでも仕事は入ってこない。生活はギリギリで、毎日が不安でした。仕事を求めて、以前お世話になったスタジオや知人を片っ端から訪ねました。中には現在エンケイニュースの表紙イラストを描かれている鈴木充弘さんもいらっしゃいました。そんな折、私の人生を変える〝貴人”が次々と現れたんです。
「貴人」との出会いが人生を変えた
〝貴人”という言葉は、自分の中でずっと大切にしている言葉です。人生の節目で必ず現れて、私を良い方向に導いてくれた人。その存在がなければ、今の私はありません。独立したばかりの頃に助けてくれた10歳上の男性もそうでしたし、半年後に出会った浜松の広告プロダクション代表・高橋さんもまさに〝貴人”でした。
高橋さんは非常に厳しい方で、気に入らなければカメラマンをどんどん切っていく。
そんな人が、独立したばかりの私に突然声をかけてくれたんです。
「君独立したばかりで仕事ないだろ。一度会わないか。」そう言って、エンケイの撮影を担当するデザイナーや関係者を紹介してくれました。高橋さんの〝使う”という一言は重かった。周囲はその言葉に従い、私はエンケイの仕事に関わるようになりました。
そして、その先に――私の人生を決定的に変える人物がいました。エンケイの鈴木会長です。会長とは年に1、2回会うかどうかという間柄です。でも、会長が私を信頼し続けてくれたおかげで、40年近く車の撮影を続けてくることができました。その存在は、これまで出会った誰よりも大きい〝貴人”でした。「会長との出会いがなければ、今の自分はない」そう断言できるほど、私にとって特別な出会いでした。
鈴木氏とともに時代を映してきたカメラの数々
HUMAN TALK Vol.326(エンケイニュース2026年2月号に掲載)
40年以上にわたり、車の広告撮影を担ってきたスタジオ・ルーキー代表・鈴木貢氏。フィルムからデジタルへ、そして誰もが写真を撮る時代へと環境が大きく変化するなかでも、“車を美しく見せる”という探究心を失わず歩んできた。その背景には、厳しい現場で培われた技術と、支えてくれた人々への深い感謝がある。後編では、車を撮るという仕事の奥行き、フィルム時代のエピソード、そしてエンケイとの長い信頼関係について語ってもらった。
光と車を 追い続けた40年---[その2] 車を撮ることがいつしか「天職」に
独立したばかりの頃は何でも撮っていました。小さいものだと宝石、それから楽器やマンション、そしてもちろん車も。若い頃から人並みに車が好きでしたが、車業界に進むほど大好きだったわけではありませんでした。ただ、浜松には自動車メーカーや二輪メーカーが多く、自然と車やバイクの撮影が中心になっていきました。
車の撮影はとにかく奥が深い。ボディの形状や色によって光の入り方がまったく違う。スタジオの中でも、晴れた屋外にポツンと置かれたときのような自然な光を再現したい──そんな理想を追い続けるうちに、気づけば“天職”になっていました。
若い頃、東京から有名カメラマンが浜松のスタジオに来ると、私はアシスタントとして後ろで見守りながら、その光づくりを目に焼き付けました。誰も細かくは教えてくれません。でも、その現場で得た感覚は、いまの自分の撮影の礎になっています。
フィルム時代の極限撮影── 修羅場で身についた技術
フィルム時代の撮影は、一枚の失敗が許されませんでした。シャドーが潰れていても、ハイライトが飛んでいても、撮り直しができない。現像してみるまで結果がわからない。そんな時代でした。また、アシスタントがフィルムを正しく装填できておらず、すべて撮り直しになったこともありました。怖い時代でしたが、その緊張感の中で鍛えられた集中力や光を見る力は、今の自分を支えている大切な財産です。
特に印象に残っているのが、船外機のイメージ撮影です。浜名湖のマリーナで、トレーラーに乗せた船外機に水を浴びせ、ストロボを焚きながら、まるで荒れた海で難破寸前のような写真を作りました。撮影場所は駐車場、それでも仕上がった写真は“海の上そのもの”でした。その写真が日本の写真家年鑑のような分厚い本に掲載されたんです。自分のような無名な者でもこれに載っていれば、いつか自分の子供たちが見た時に誇らしく思える、それで記憶に残っています。
ポジフィルムの時代は一発撮りで決める緊張感があった
時代が変わっても、 私がカメラを手放さない理由
時代は大きく変わりました。フィルムからデジタルへ、そしてスマートフォンで誰でも綺麗な写真が撮れる時代へ。料理も製品も、担当者がスマホで撮って済むケースが増え、プロカメラマンの仕事は確実に減っています。若いカメラマンも昔に比べれば随分と少なくなったように思えます。それでも私がいまだに現場に立っているのは、「自分にもまだ役に立てる場所がある」と感じられるからです。車の撮影は、形の読み方、光のコントロール、仕上がりを想像する力──経験がものを言う世界です。技術を次の世代に残すことも、自分に課せられた役割だと思っています。
そして何より、エンケイから信頼してお仕事を依頼いただけているということです。ウチ以外にもカメラマンやスタジオは沢山あるのに、こうして長きに渡りお付き合いさせていただいている。その信頼にお応えしたいと思うし「鈴木さん、もういいよ」と言われるまではずっと続けたいと思いますね。
車の撮影に最適化された「ドームスタジオ」は東京からの引き合いも数多ある
40年続くエンケイとの信頼── 「貴人」がつないだご縁
エンケイとの仕事は、私の写真家人生を大きく支えてくれました。独立したばかりの私に目をかけてくれた高橋さん、長年撮影現場を共に支えてくれたエンケイの加藤さん。そして、何よりエンケイの鈴木会長。
会長と頻繁に会うわけではありませんでしたが、会長が観葉植物が好きだといえば私も買って並べてみたり、小さな車が好きだといえば私も小さい車に興味を持ってみたり。会長は財力も地位もあるのに派手さとは無縁の方。そんな姿勢に不思議な魅力を感じました。
私は会長のことを、人生で最大の“貴人”だと思っています。会長が私を信じてくれたから、40年もの間、車の撮影を続けることができました。その感謝は、生涯忘れません。
人生を振り返ると、節目で必ず“貴人”が現れ、私を導いてくれました。もし誰か一人でも欠けていたら、今の自分はいなかったでしょう。すべてのご縁が一本の線でつながっています。
私は自分のことは至って普通の人間だと思っています。飛び抜けて何かがすごいわけでは無いからこそ、一つのことを長くやるべきだという考えでここまできました。そういう意味でずっと写真を撮っている、そうすることで少しは格好が付いてくる、そんな気がします。
何十年も前からエンケイニュースを飾ってきた鈴木氏の写真
