情熱が人生を走らせる──自動車業界と共に歩んだ道
VOL.321 / 322
須賀川 敏一 すかがわ としかず SUKAGAWA Toshikazu
株式会社ジャパン三陽 代表取締役社長
1972年生まれ、茨城県出身。大学卒業後、茨城県信用組合を経て、株式会社ジャパン三陽に入社。埼玉営業所長を経て2020年に代表取締役社長に就任。自動車アフターパーツ業界の発展に尽力している。
HUMAN TALK  Vol.321(エンケイニュース2025年9月号に掲載)
創業50年を迎えた自動車アフターパーツ専門商社「ジャパン三陽」。今回取材したのは、2020年に代表取締役社長に就任した須賀川敏一氏。自らもかつて“改造車”にのめり込んだ経験を持ち、現場を知り尽くした経営者です。第1回では、その原点となる学生時代からジャパン三陽入社、社長就任までの足取りをたどります。
情熱が人生を走らせる──自動車業界と共に歩んだ道---[その1]
1991年に発売されたオリジナルホイール「MONZAスピード」
バレーボールに打ち込んだ青春、 社会で学んだ基礎力
 1972年に茨城県水戸市で生まれました。高校は茨城県でも有数のバレーボール強豪校に進学しました。中学時代からずっと続けていたバレーボールは、自分にとって初めての「チームで何かを成し遂げる喜び」を教えてくれた存在で、部活に全力を注いでいました。高校ではキャプテンも任され、仲間をまとめながら勝利を目指した日々は、今思えばリーダーシップの原点だったかもしれません。
 大学もバレーボール推薦で体育会系の大学に進みましたが、大学ではバレーボールの競技そのものというより、チームのマネジメントや運営側の視点に興味が向き始めました。この頃から「現場を見る目」や「調整力」といった、後の仕事にも通じる力が自然と培われていたように思います。
 卒業後は、地元に戻って茨城県信用組合に就職しました。車とはまったく関係のない世界でしたが、窓口業務や営業を通じて、人と接すること、数字に責任を持つこと、そして地域と向き合う姿勢を学びました。4年弱勤務し、その後、転職という形でジャパン三陽に入社することになったんです。まったくの異業種からの挑戦でした。
S14シルビアとの 出会いが変えた人生
 車に本格的に興味を持つようになったのは、22歳のときでした。初めて買った車がS14シルビア。当時は、特に強いこだわりがあったわけではなく、「カッコいいし、乗ってみよう」くらいの気持ちでした。最初にホイールを交換したとき、車の表情ががらっと変わって──その瞬間に「これ、面白いな」と思ったんです。そこからマフラーを替え、車高調を入れ、エアロをつけて……あっという間にアフターパーツの魅力に取り憑かれました。
 25歳でジャパン三陽に入社したときは、正直、「ブレーキパッドって何?」というくらい車の知識は皆無でした。まずは水戸の倉庫で電話応対や出荷作業からスタート。製品知識も現場の動きもゼロから叩き込まれました。1年半ほど経って埼玉営業所に異動になり、そこで営業として現場に出るようになったんですが、そのときの経験が自分を大きく成長させてくれたと思います。
 都内を担当していた12年間、車好きの社員やお客様と毎日接する中で、自分の「改造熱」もどんどん高まりました。当時のシルビアには、総額400万円以上をつぎ込んでいました。エンジンをターボチャージャー付に換装して、サーキットにも走りに行きました。足回り、吸排気系、内装まで、手を入れられるところはとことんまでこだわっていましたね。「車をいじる楽しさ」と「それを仕事にできる面白さ」が、完全に一致していた時期でした。
スーパーN1耐久シリーズに参戦していた「カストロールMONZAセリカ」
家庭を持ち、現場を重ね、 社長へと歩みを進める
 ただ、さすがにずっと〝爆音カーライフ〟を続けられるわけではありませんでした。28歳のころ、住んでいた白岡のアパートで車の音がうるさいとクレームを受け、泣く泣くミニバンに乗り換えることに。エスティマに始まり、エルグランドにも乗りましたが、そこでもホイールを替え、エアロを装着して、自分らしさは忘れませんでした。この頃、結婚もして、生活の中に「家族」という軸が加わったのは大きな変化でした。
 仕事の面では、所長、営業部長、常務、専務と少しずつ役職が上がっていきました。でも、ずっと変わらなかったのは「現場目線」。お客様の声を聞いて、それに応える。車の話が通じる相手と、同じ目線で会話できる。そういう仕事に、やりがいを感じていました。2020年という節目の年に代表取締役に就任しましたが、当時はコロナ禍の真っ只中で本来なら得意先への挨拶回りで2〜3ヶ月は全国を行脚しなければならないところが、どこにも挨拶回りできなかったんです。今となっては笑い話ですが。
 現在はクラウンクロスオーバーに乗っています。ノーマルでも十分かっこいいですよ。でもやっぱりエアロとかホイールとか、自分らしく〝味付け〟したくなるんですよね。クルマと関わる仕事をしている以上、いつまでもワクワクを忘れたくない──そんな気持ちで、今もハンドルを握っています。
シビックインターカップに参戦していた「MONZA RS DOWNシビック」
情熱が人生を走らせる ──「自動車業界と共に歩んだ道---[その2]
HUMAN TALK  Vol.322(エンケイニュース2025年10月号に掲載)
ジャパン三陽のトップとして日々業界の最前線に立ち続ける須賀川敏一社長。第2回では、同社が歩んできた50年の道のりと、EV化や高齢化など業界の転機をどう捉え、未来へ向けて何を仕掛けていくのか──社長としての視点、そして“現場上がり”ならではのリアルな言葉で語っていただきました。
創業から50年、 ジャパン三陽の歩み
 弊社、ジャパン三陽ができたのは1973年。当初はタイヤの販売からスタートしたと聞いています。社名の「三陽」は、韓国のサミヤンタイヤ──今でいうクムホタイヤの輸入代理店だったことに由来します。自分が物心ついたときには、すでに会社は存在していて、父が経営している自動車部品の会社、という認識はなんとなく持っていました。
 その後、1980年代に入ってからは、オリジナルホイールの開発にも力を入れるようになり、1983年に初めてのオリジナルホイールを発売。そして、1991年には今でも人気の「モンツァスピード」ブランドが生まれました。当時、自分はまだ車に興味もなくて、何をしていたかもあまり覚えていないんですが、振り返ると、あの時期から〝メーカーとしてのジャパン三陽〟の色が強くなってきたんだと思います。
 50年の歴史を通じて一貫しているのは、「人をワクワクさせる車づくりに貢献したい」という思いです。商社ではありますが、自分たちでホイールを企画し、デザインし、製造し、届ける。その一つひとつが、車をより〝楽しく〟〝かっこよく〟するための仕掛けなんです。
2025年の東京オートサロン
2002年発売のWarwic mesh
モンツァジャパン本社
高齢化とEV化 ──変わる業界にどう向き合うか
 ここ数年、アフターパーツ業界にも大きな変化が押し寄せています。一つはユーザー層の高齢化。自分が若い頃、車いじりに熱中していた世代が、そのまま年を重ねてきて、新しい若い世代がなかなか入ってこない。理由は色々ありますが、やっぱり車が高価になってしまったこと、維持費も高いこと、そもそも車を必要としない生活スタイルが広がっていること──そういった背景があります。
 個人的には、もう少し若者が手を出しやすい価格帯で、かつてのシルビアやシビックのように〝いじって楽しめる〟車が増えてほしいなと思っています。メーカーさんと話す中でも、そういったニーズの再発掘は必要だと感じています。自分も22歳のときにS14シルビアを買って、ホイールを替えたことがきっかけでこの業界にのめり込みました。やっぱり最初の1台ってすごく大事なんですよね。サーキットに足を運んでレースを観戦したり、自分でスポーツ走行を楽しむ若者が根強くいるのもまた事実です。そんな若者世代に対して、我々としてもいかにアフターパーツの面白さを伝えられるかというのはずっと課題であると考えています。
 もう一つの大きな流れが「EV化」です。これは避けられない未来ですが、アフターパーツ業界にとってはかなりの挑戦です。そもそもEVって、車の構造的にいじりづらい。改造できる範囲が限られているし、カスタムの自由度も下がるかもしれない。でも、だからといって何もしないわけにはいきません。むしろ、メーカーやカーディーラーと協力体制を組んで、EV時代に合った〝新しい遊び方や個性の楽しみ方〟を提案していくことが、これからの我々に求められている役割だと思っています。
変化をチャンスに、世界を見据えて挑む
 ジャパン三陽のこれからを考えるうえで、自分が常に意識しているのは「変化を恐れない」という姿勢です。業界が変わる。ユーザーが変わる。車のあり方が変わる──それなら、うちも変わればいい。ホイールがメインではありますが、ホイールだけにとらわれず色々な商品にもチャレンジしていきたいなって思っていますし、オリジナルホイールに関してもやっぱり自分たちが考えるメイドインジャパンの世界に誇れるホイールを作って世に出したいなと思っています。
 将来的には海外市場への進出も視野に入れています。日本のホイールは、性能もデザインも世界で十分に通用するレベルにある。だからこそ、ブランドと技術に自信を持って弊社の製品をもっと外に発信していきたい。まだまだアフターパーツ業界を盛り上げていきたいですね。
 今の愛車はクラウンクロスオーバー。まだノーマルですが、そろそろ22インチのホイールを履かせようかと思っています。そういう遊び心を忘れずに、「自分もユーザーである」という感覚を大事にしていたい。トップである前に、一人の車好きでありたい──それが自分の原点ですし、会社を動かすエンジンでもあるんです。
オリジナルホイールの前で(近景)
