技術で勝負したい

VOL.271 / 272

生田目 將弘 NAMATAME Masahiro

株式会社エヌ・ティー・エス代表取締役社長。中学卒業後からオートバイロードレースに打ち込む。21歳の時に選手を引退し、父が経営していた生田目製作所に就職。現在は株式会社エヌ・ティー・エス代表取締役社長を務める。同社は1970年創業、福島県を拠点にした精密属機械加工サプライヤー。2018年よりオリジナルシャシーを製作し、ロードレース世界選手権Moto2に参戦している。

HUMAN TALK Vol.271(エンケイニュース2021年7月号に掲載)

『2018年から日本製シャシーNTSとしてロードレース世界選手権Moto2に参戦』
今や世界から注目を集めるNTSだがそこまでの道のりは長く険しかった──
代表取締役社長の生田目將弘さんに聞く

技術で勝負したい---[その1]

 兄が大のオートバイ好きで、部屋にケニー・ロバーツのポスターなどを貼っていたのを見て僕は育ちました。そんな兄が、高校を卒業してすぐにオートバイの事故で亡くなりました。僕が小学校3年生の時です。
 人によっては、オートバイを嫌いになってもおかしくない悲しいエピソードですが、僕の場合は逆に、なんで兄貴はこんなにバイクが好きだったんだろうと、急に興味が湧き始めたんです。親には申し訳ないのですが、中学卒業後は高校へ行かず、そこからオートバイ三昧の日々。毎日のように峠を走り回っていました。
 走る場所を峠からサーキットへ移したのは、先輩の死がきっかけでした。通勤中に仲のいい先輩が事故で亡くなり、峠を走る気分が冷めてしまったんです。そんな時、たまたま家の近所でオートバイのレースをやっている人がいて、「一緒に積んで行ってあげるよ。サーキットの走り方を教えてあげるよ」と誘ってくれ、サーキットへ通うようになりました。17歳の時です。右も左も分からないのに、俺が一番速いんだと勘違いしている頃です(笑)。
 サーキットでは、誰もが速くて本当に驚きました。ひとつのコーナーだけを比べるとそれほど差はないんですが、1周して戻ってくると大差。なぜこんなに違うんだって思いましたね。だから、プロレーサーになると決意して臨んだサーキット初走行の感想は、「俺ってこんなだったの?」です(苦笑)。
 プロレーサーを目指そうと思ったきっかけは、『汚れた英雄』という映画を観たのもあります。映画の中に出てくる主人公はとても華やかな世界で生きていて、プロレーサーはプール付きの豪邸に住めるんだ、夢があるなと憧れました。
 最終的に、レースではスーパーカップというカテゴリーまで上がりましたが、21歳の時に完全に辞めました。結果が出ず、大好きなオートバイでメシを食べることがいかに厳しいかを思い知ったのです。でも、決定打となったのは後輩の事故死でした。

レースを辞めた日

 中学校を卒業してから、いろんなバイトをやってきました。父の生田目製作所でも15〜18歳の間は籍を置いていました。ただ当時は、製造業だけはしたくないという思いがありました。ずっと忙しい父を見てきて、油臭いし、儲かっているように見えないし、製造業だけは嫌でした。
 仕事を転々とする中、横浜にある野口モータースの野口種晴さんに出会いました。野口さんは初代ヤマハファクトリーライダーで、レースにおいても、整備の技術においても一流。自分を磨くために、成人式が終わった直後から野口モータースで働かせていただきました。
 先に述べたように、いろいろ試行錯誤しても誇れるような戦績を残すことはできませんでしたが、野口さんの元でオートバイの整備を覚えていくうちに、そっちの方もどんどん面白くなってきていました。「生さん、生さん」と、どこへ行くにもついてくる、かわいい後輩もできて、バイクを整備しながら一緒にレース活動をしていました。
 僕が21歳になったある日、その後輩がサーキットで亡くなりました。二日前に一緒に整備して、「頑張ってこいよ」「行ってきます」と言葉を交わした後輩が、次に見た時は棺の中にいたんです。将来性やカリスマ性がある子で、一緒に同じ夢を追いかけていました。その後輩が急にいなくなって、プツンと自分の中で何かが切れたようでした。120%のボルテージで突き進んできたのに……この日を境にゼロになってしまいました。
 やれることはやってきたので、意外とさっぱり辞められましたよ。ただ、自分と同期の子や一緒に走っていた仲間が雑誌に出たり、どんどん有名になっていくのを見たり聞いたりした時は複雑な心境でした。時折、専門誌を手にした時は、すぐに捨てていましたね。悔しくて(苦笑)。
 借金を含めいろんなものを精算した後は、生まれ故郷の福島に戻るつもりでした。一応、社長の息子なので、それなりに食べられるだろうなと安易に考えていて、1ヶ月くらい北海道にツーリングへ行って、その後から働くつもりでした。でも、いざ福島に戻ってみると、父の会社は想像以上に厳しく、いつたたんでもおかしくない状況。北海道ツーリングはもちろんお預けとなり、父が細々と続けてきたプレートの穴あけ、暖房機部品の加工などをまずは手伝いました。それが初めて、製造業って面白いなと思えた瞬間でした。ボール盤なんて見たくもなかったのに、どんどん製造業の世界に踏み込んでいき、これだと思ったのが〝試作〟の仕事だったのです。  

1992年に初めて買ったTZ250。これが縁で、オートバイショップ「野口モータース」に入社。

1993年、FISCOにて仲間たちと。

HUMAN TALK Vol.272(エンケイニュース2021年8月号に掲載)

今や世界レベルの試作を手がけるNTSだがここまでの道のりは険しいものだった
おにぎりを握れるくらい、塩からいことばかりだった──試作にシフトした直後の駆け出し時代から軌道に乗せるまでの日々を生田目將弘さんに振り返ってもらった

技術で勝負したい---[その2]

2018年からは、ロードレース世界選手権Moto2クラスにオリジナルシャシーを製作して参戦。
メインフレームをはじめとした金属製車体部品を自社で開発&製造し、グランプリチームに供給している。

 NTSが試作を始めたのは1997〜1998年からです。最初はNCフライス盤を買い、そこから機械を増やしていきました。これまでやってきたのは量販製品を1万個、10万個受注するといった仕事でしたが、試作は例えばある製品のカバーを作りたいなど、どれも一点ものばかり。最初は格安の仕事が多く、その話だけでおにぎりを握って食べられるくらい塩からかったです(笑)。でも、新しいことを始めていく上で、うちに仕事を選ぶ権利はありませんでした。そこからしか、試作の世界には入れませんでしたからね。まずは一度うちを使ってもらい、その仕上がりを見てもらった上で次のステップがあるなら、その時に自分たちの適正の値段を見つけていけばいいかな、と。これから先、開発が必要な仕事は絶対に残るはずだと信じていました。
 転機が訪れたのは2002年で、それまでは主に北米向けの半導体部品を手がけることが多かったのですが、アメリカの同時多発テロをきっかけに北米の仕事がすべて止まってしまいました。売り上げが98%ダウン、そんな状況でした。その苦しい時期とオーバーラップして、試作の仕事が本格化していきました。その年の4月に父が入院して、5月初めに母が脳梗塞で亡くなり、自分が自動的に社長に就任することになったのです。当時の従業員数は自分を入れて5〜6人。そこから、これからは試作をメインの業態にするんだと、これまでお付き合いしてきたところとの取り引きをすべて断って回ったんです。
 心臓が止まるような思いを何度もしましたよ。従業員の多くが「辞める」と言い出したり、「社長、何を考えているんですか!」と言われたり。でも、ずっと本気で仕事をやっていたので、僕はその舵取りが失敗だとは思っていません。日本の生産業は、息が詰まっている状態で、以前と同じ業態を続けたら自分たちもいずれ消えてしまいます。であるなら未知の世界になるけれど、そこに踏み込んで新しい歴史を作っていく方が、まだ生き残れるチャンスが高まると考えていました。
 半導体の仕事は品質が大事なのですが、取引先からうちの品質は1番、2番だと言われてました。そこからの1年は大変でしたが、そうした周りの評価を信じて試作を全力でやりたい気持ちが一番でした。ただ、東北に試作を必要とする企業はないので、多い時は週に3回くらい浜松に通って営業をしていましたね。

世界挑戦する理由

 NTSがオートバイのレースに携わり始めたのは2012年からです。当時のチームノリックとジョインして全日本選手権J-GP2クラスに参戦を始め、オリジナルマシンYZW-N6で2013年にはシリーズチャンピオンを獲得できました。その後も日本グランプリMoto2クラスへスポット参戦を果たし、アジア選手権、スペイン選手権への挑戦もスタートさせ、2018年からはロードレース世界選手権Moto2クラスにオリジナルシャシーを製作して参戦しています。僕がその活動の中でこだわっているのがパワー・オブ・ジャパンです。オールジャパンは難しいけれど、日本でものづくりを生業にしている企業が力を合わせて世界に挑戦するという姿勢ですね。現在、Moto2クラスに供給していく目的で、エンケイさんとはホイールを共同開発させていただいています。
 昨年から新型コロナウイルスの感染拡大の影響でそのテストが遅れ、他の仕事への影響も大きく、正直なところ試作を始めた頃よりも塩からいおにぎりを作れる話ばかりですが(笑)、厳しいのはどこも同じです。この逆境を打破できれば、試作にシフトした当時のことを笑い話のように語れるようになったように、今の状況を笑える日が来るはずです。
 3D金属プリンター(DMLS:直接金属レーザー焼結法)は次世代の先端技術です。一般的な樹脂の3Dプリンターと違い、粉末状にした金属にレーザービームを照射し、溶かしながら積層していく原理で、ほとんどすべての金属合金が素材として使用でき、強度、精度ともに要求レベルをクリアしたものが製造可能です。切削では不可能な形状の設計が可能となるので、設計の自由度や可能性が飛躍的に高まるこの機械をNTSは10台保有しています。レースに対しては個人的な思いから大きな比重を置いていて、それに携われるのはとても幸せなことだと思っていますが、それを長く続けるためにもこうした最先端の機械を最大限活用して、試作の本業をさらに広げていきたいですね。

3D金属プリンターで製作したインコネル製部品。厚みはわずか0.3㎜だが、高い精度で試作品を作ることができる。10台ある3D金属プリンターは、専用の部屋に置かれている。

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