走ることの喜び、モータースポーツの夢

VOL.265 / 266

中嶋 悟 NAKAJIMA Satoru

有限会社 中嶋企画 代表取締役社長
1953年生まれ。愛知県岡崎市出身。1973年に国内レースデビュー後、圧倒的な速さで国内トップカテゴリーへ上り詰め、1987年より日本人初のF1フル参戦ドライバーとしてデビュー。引退後は鈴鹿サーキットレーシングスクールの校長や日本レースプロモーションの会長を歴任し、若手レーサーの育成や国内レースの活性化のために尽力している。NAKAJIMA RACING総監督。

日本人初のF1フル参戦ドライバーとして日本人レーサーが世界で活躍する道を開拓し続けてきた中嶋悟氏。
パイオニアとしての苦労、そしてその道を後輩達へどのように受け継ぐのか、その思いを語ってもらった。

走ることの喜び、モータースポーツの夢---[その1]

(エンケイニュース2021年1月号に掲載)

F1初参戦時のロータスホンダ時代、氏は右から2番目、その左はアイルトン・セナ

 幼いころから車やバイクを動かすのが好きで、上手いか下手か試すには競走するしかないじゃない。だから高校2年生になった時、アルバイトでお金を貯めてカートを買ったんだよ。現代のJAF公認全日本カートみたいなちゃんとしたもんじゃなくて草カートレースだけど、そこにチャレンジしたんです。それでも初めて出場したレースで優勝してさ、今まで表彰されたことも賞状をもらったことも無かった僕が優勝トロフィーを持って家に帰ったら「お前こりゃなんだ?すごいじゃないか」って親がびっくりしてね、とても喜んでくれたんだよ。それがなんか自分でも嬉しくて(笑)。

カートレースに出場した高校時代

プロレーサーの世界へ

 18歳になって免許をとって買ってもらったフェアレディZで1年に6万kmくらい走ったかな。でもだんだん一般道で走るスピードに限界を感じてね、それ以上を求めるならレースしかないなと。そこで、中古のファミリア・ロータリークーペを買って‘73年に鈴鹿シルバーカップ・シリーズでデビューしたんだ。ただ、僕は速く走るということよりも根本にあるのは自動車を操る面白さ、自分のコントロール下に置いて操作する喜び、そこだったんだよね。とにかく車を動かすことが好きだった。でもレースに出たらなんだか速くて勝っちゃって、また勘違いするよね、俺速いんじゃねえかって(笑)。シルバーカップのシリーズチャンピオンになってさ、それからFL500(500ccのフォーミュラカー)のレースにも出たりして。でも全部費用は持ち出しだったからお金が続かなくてもう辞めようかと思ってたんだよ。
 その時‘77年かな、エンジンのチューナーとして有名だった松浦賢さん、ヒーローズレーシングの田中さんに声をかけていただいて、初めてプロのレーシングチームで走ることになった。その時からですよ、少ないながらも走ることでお金をもらえるようになったのは。声を掛けられてなかったらレーシングドライバーから足を洗っていたかな。

サバンナRX-3に乗り換えシルバーカップを席巻

ヨーロッパで 受けた衝撃

 FJ1300で全部勝ったご褒美に‘78年にイギリスのF3にスポット参戦させてもらった。ところがスタート直後に大クラッシュして死ぬ思いをしてね。そのレースがF1イギリスグランプリの前座だったんで、怪我が大したことがなかった僕は観戦に行ったんだ。その時の衝撃といったら、それを見て自分も絶対F1ドライバーになってやるって思ったね。日本のレースシーンとは全く違う世界。ピットサイドに「大人」がたくさんいるんだよね。キチンと着飾った紳士がいる、女性も子供も観戦に来ている、レースを楽しむ文化がある。もうひっくり返るほどカルチャーショックだったね。「ああ、この景色の中でレースがしたい、いや絶対行ってやる」と思った。
 ここに戻って来るぞと心に決めて日本に帰ってきたら生沢徹さんが自分でチームをやるっていうんで誘われて。「目指せヨーロッパ、目指せ世界!」という掛け声で一緒にやろうぜと。それで始めてヨーロッパのF2で一回2位になったけど、日本とヨーロッパの行ったり来たりになるから資金的にも体力的にも大変で続けるのが難しくなってきた。だから‘82年で辞めて、その後中嶋企画を立ち上げたのは’83年からかな。
 そして、‘84年からヒーローズの田中さんと再び組んでF2とか国内レースでとにかく勝ちまくってやろうと。ホンダさんがF1へのカムバックを考えているという話もあって、国内でイヤっていうほど速いところを見せつければチャンスはあるかなと思って走った。それ以外はもうノーチャンスだろうなという意識だったね。で、’81年から’86年の間で‘83年以外の5シーズンでF2のチャンピオンになったんだ。そうしたらホンダさんがF1エンジンのテストドライバーに呼んでくれて、関わるようになって、がむしゃらに頑張ってたらF1に呼ばれたわけ。’78年にヨーロッパのF3に参戦してから‘87年にF1デビューするまで、10年くらいかかっちゃったけどね(笑)。とりあえず計画通り。自分の思いは成し遂げられたから。でも、チャレンジせずに終わってたらすごく後悔してただろうね。

ヨーロッパF3に出場

 

走ることの喜び、モータースポーツの夢---[その2]

(エンケイニュース2021年2月号に掲載)

 ‘87年にF1ドライバーになって初めてのチームはキャメルカラーのロータス・ホンダだったんだけど、その時のチームメイトが今は亡きアイルトン・セナでね、よく「どんな人でした?」って聞かれるけど、実際レーシングドライバー同士ってあまり関わらないから人柄はよくわからないんだよね。レースウィークの間だけサーキットに集まって、レースが終わればまた解散ってなるから。ただ僕が初めての年だったから色々と教えてくれた。ここのサーキットはあそこのコーナーだけは気を付けろとか、ブラジルの水はまともに売っているもの以外飲むなとか(笑)。そういう意味で言えば優しい人だったのは間違い無いね。きっとアラン・プロストにはそんな話はしなかっただろうけど(笑)。
 そして’91年に引退するまで5年間、全80戦のレースに出場したけど、全てのレースが印象に残っているし、克明に覚えています。やっぱり1戦1戦心を込めて走っていたからね。レース活動は一旦全部辞めようかと思ったんだけど、やっぱり周りがそうはさせてくれなくて、今みたいな形でチームを始めることにしたんだ。

F1鈴鹿ラストランでスタンドからの大声援を受ける中嶋氏

レース業界を職業にしたい

 F1で海外のレースシーンを見たり、ケン・ティレルのような人々に触れて感じたことは、レース業界が職業としてちゃんと成立しているということ。だから自分も「スポンサーがついたからレースをやる、つかなかったからやらない」みたいな昔ながらの場当たり的なやり方じゃなくて、とにかく「レース業=会社」だと心に決めてチームを運営しようと思ったんだ。一般的なレーシングチームは正社員が1〜2割であとはフリーランスというところが多いけど、うちのチームはほとんどが正社員。メカニックもドライバーもみんな一緒に育っていけばいいなという思いでやってきたし、そこに従事する人の生活が成り立つ会社であるべきだとも思ってる。我々はサーキットで走ることが商品であり、売り物。それをスポンサーさんがどう評価してくれるかが勝負なんだ。

F1ティレル時代、チームメイトはジャン・アレジ

若者に時間と可能性を

 やっぱり自分はF1に行くまでに時間がかかって歳を重ねてしまったから、もっと早く行けるようにしなきゃねってホンダの人なんかとも話をしていて、それで引退してからスクール(鈴鹿サーキットレーシングスクール)を始めたんだ。若い子によく言うのは「ダメだと思ったら早めに辞めなさい、きっと自分に合った他の道があるから」ということ。厳しいけど、どう足掻いてもセンスの有る、無しって出ちゃうから。ここは上に行くための場所でもあるけど、辞めるための場所でもあるんだよと。自分の時代のタラレバを言ってもしょうがないけど、自分にとって何が足りなかったんだろうって考えるとやっぱり時間だったから。でも今はできればそういう足踏みしている時間を端折ってあげて、可能性のある人はもっと上まで行けるようにしてあげたいよね。

レーシングスクールでの1コマ

沢山の応援団を持つ

 エプソンの昔の社長には「ちゃんと自分の働きに見合ったお金をもらわなければいけない」とよく言われたし、本田宗一郎さんにも「嘘をつかずに自分の信念を通せよ」って教えてもらった。そのお二方の言葉はやっぱり今でも残っているかな。大事なことは沢山の応援団を持つってことだよね。人的にも企業的にも、やっぱり応援してくれる人が不可欠。だって一緒に喜んだり怒ったりしてくれる人がいないとつまらないじゃない。自分だけじゃもったいないし。そのように賛同してくれるスポンサーさんや応援してくれる人々が集まってくれてなんとかやってこれたし、これからもやっていけるんだと思う。
 だから今はレースができないような世の中にならないでいて欲しいと祈ってる。日本レースプロモーションの会長としても、コロナ禍の中でレースを止めないように、とにかく絶やさず、決めたレースの数だけは頑張ってやろうと。絶やさないということがエンケイさんも含めたレースに関わっている全ての方々の未来へとつながっていくんじゃないかと思うからね。

NAKAJIMA RACINGはスーパーフォーミュラでも活躍

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