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横溝 直輝 氏 不死鳥のレース人生

HUMAN TALK VOL.177 横溝 直輝 氏 不死鳥のレース人生

PROFILE

横溝 直輝
YOKOMIZO Naoki

1980年6月27日生まれ 神奈川県出身
カートレースデビューした13歳に、いきなり大井松田SLシリーズでチャンピオン獲得。99年にフォーミュラトヨタで4輪デビューを果たし、02~05年は全日本F3選手権を戦い、06年に国内最高峰のフォーミュラ・ニッポンにステップアップを果たす。05~06年、08年はスーパーGTのGT500クラスにも参戦。10年から参戦するGT300クラスでも活躍し、12年にエンドレスTAISAN 911でシリーズチャンピオンを獲得。今年も同チームでGT300を戦っている。

「僕のレースキャリアは波瀾万丈ですよ」と笑顔で話す
2012年GT300クラスチャンピオンの横溝直輝選手。
3歳からレースに憧れ、カートレースを卒業した後
4輪レースでは資金的な苦しさが常につきまとったが、
奇跡のような出会いが「今」に続く道となり
エンケイホイールとの出会いもそのひとつだった。
必死で最高峰を目指した日々を振り返る。

横溝 直輝
04年に所属したインギング・モータースポーツではロニー・クインタレッリと組む。クインタレッリがドライバーズチャンピオンを獲得し、横溝もシリーズ3位に入る。チームランキングでもトップも奪った。

F1レーサーになる!

 両親がレース好きで、3歳の時から富士スピードウェイにレースを見に行っていて、初めて見た“生”のスポーツがレースだったんです。子供にとってあのスピードと音はすごい迫力だし、怖いというよりもそれに魅了されて、今でも信じられませんが、その時からレーサーになりたいと思ったんです。小学校3年生の時にカートを始めて、13歳の時に実家近くの大井松田カートランドでチャンピオンを獲った後は地方選手権に1年、全日本選手権に3年参戦しました。
 カートをやっている頃からフォーミュラに乗りたい、乗るんだっていう思いを僕は持っていました。趣味ではなく、ただレースがやりたくてというのでもなく、F1レーサーになるために少しでも良い成績を残さないとって思っていました。4輪へのステップアップは、本当に巡り合わせでした。フォーミュラトヨタ(FT)というクラスが僕にとって初めてのフォーミュラだったんですが、正直資金的には苦しいものでした。たまたま応援してくれていた人がFTのマシンを所有していて、それに乗せてもらったりしている中で、一度だけお金をバックアップしてくれてレースに出られる機会をもらえたんです。マシン所有者は趣味でやられていて、レースではテールエンダーを走るマシンだったのですが、18歳の若造がいきなりいつもテールエンダーだったマシンに乗って、雨の鈴鹿の練習走行で3番手だったんです。それをきっかけに周囲の方々が気にかけてくれるようになって、自分もガソリンスタンドとか色んなバイトを掛け持ちして、1セットのタイヤを買うのにヒーヒー言いながら、何とか1シーズン参戦してシリーズ3位になりました。
 結果を残せたので、翌01年は大きなスポンサーがつきました。父が立川祐路選手のカート時代のメカニック兼監督のようなことをやっていて、そこでのつながりで支援してもらえることになったんです。本当にそれがなければ僕のレース人生は終わっていました。資金的には超ぎりぎりの状態が続いている中、FTで年間6勝(史上最多)を挙げてチャンピオンを獲ることができて、上につながる扉を何とか開けられた感じでしたね。

横溝 直輝
06年に所属したハセミモータースポーツを一度離れ、08年に同チームに復帰。恩師の長谷見監督にGT500優勝をプレゼントした。

人生を左右する1日

 その頃、トヨタがF1参戦を開始して、トヨタの若手ドライバー育成プロジェクトであるTDP(当時はFTRS)もスタートし、第一期生には平中(克幸)選手、片岡(龍也)選手が選出されていました。そこに僕も編入するような形で入れてもらえ、トヨタのスカラシップのもと名門トムスでF3を戦うことになりました。そこでも必死さは変わらず、この世界に残るためにはここが勝負どころだって思いながらやる中で表彰台に立つこともできました。03~04年はインギング・モータースポーツというチームにお世話になり、04年には日本人最上位となるシリーズ3位にもなることができました。
 スカラシップの終了とともにスリーボンドというチームに移籍することになった05年は、いきなりGT500クラス参戦の話をいただき、トヨタのバンダイスープラに乗ることが決まりました。ほぼ初めてに近いツーリングカーでのレースという中で荒(聖治)選手のチームメイトにさせていただいたのですが、正直それまでのF3は勢いだけで乗っていて、自分の中に何の引き出しもなくて……本当に荒選手に迷惑をかけながらあっという間にシーズンが終わってしまいました。F3の方ではチーム初の年間3勝を挙げて、チームとしても僕としても幸せな1年を送ることができたんですけど、GT500の方は成績が出なくてシートも喪失してしまいました。
 もう、GT500には乗れないのかな? そう思っていた06年の年明け、突然ニスモから「明日マレーシアに来られるか?」と連絡がありました。何が何だか分からないまますぐに荷物を準備してマレーシアに飛んで行くと、いきなりGT500に乗ってもらうっていう話になってオーディションが始まりました。これは自分の人生を左右する1日になるぞ。そう思って、鬼のような集中をしてガムシャラに走った結果のタイムが良くて、その年はニスモ契約で長谷見(昌弘)さんのイエローハットYMSトミカZに乗れることになったんです。本当に夢のようでした。そんな夢のような話はまだ続いて、その年、フォーミュラの方はF3継続参戦を考えていたのですが、突然インギングから国内最高峰のフォーミュラ・ニッポンに乗らないかという話をもらい、開幕2週間前にF3からフォーミュラ・ニッポンにステップアップすることになりました。自分でも驚くような話を次から次にもらえて、駆け上がった日本のトップカテゴリー。この年は開幕からドタバタでした(笑)。

最高峰まで駆け上がって気合も充分、だけど……
気持ちと現実が噛み合ない日々の中で悔しさを味わい
その中でも前に進もうと努力を続けた横溝直輝選手。
いきなりシートを喪失してしまう時期もあったが、
小さなチャンスからはい上がってきた12年に
GT300クラスのシリーズチャンピオンを獲得した上昇気流から一転、
最も苦しかった日々と
12年の快挙までの道のりを振り返っていただいた。

横溝 直輝
苦労した先で手にした08年GT500初優勝。チームの長谷見監督にも「走り」を認められ、精神的にも充実した1年だった。

噛み合ない現実と気持ち

 06年は開幕2週間前にF3からフォーミュラ・ニッポン(FN)にステップアップすることが決まり、GT500では長谷見(昌弘)監督の元で鬼のような修行をさせられて、すごく苦しかったんですけど、ガムシャラに長谷見監督の期待に応えられる努力をしました。でも、1年やって最終的には長谷見監督には認めてもらえなかったですね。そんな悔しさをバネに、ニスモ契約でGT300のモーラに乗った07年は自分のパフォーマンスを発揮することができ、FNも終盤戦ではトップ争いにからむことができました。
 08年のFNに関してはKONDOレーシングに移籍して、GTでは長谷見監督の元で再びイエローハットGT-Rに乗ることになり、第7戦もてぎではロニー(クインタレッリ)と初めて優勝することができました。この年は長谷見監督にも満足してもらえるような走りができて信頼を得られ、FNに関してもかなり良いところを走ることができて、大きく成長できた1年になりました。シーズン後、このまましっかりやっていけばと自信を持っていたのですが……。08年12月暮れ、ニッサンのGT500が突然5台から4台に縮小されることになって、僕が乗る予定だったマシンがなくなってしまいました。この年、FNは休んでGT500一本でと思っていた矢先です。すでに他のチームに入り込む余地もなく、急きょスーパー耐久シリーズのクラス1に参戦できましたが、長谷見監督のもとでGT500チャンピオンを獲るんだって気持ちが強かったので悔しかったですね。もしかしたら自分のGTのキャリアはこれで終わってしまうのかなっていう怖さもありました。そんな状況でもS耐は一生懸命に走ってシーズン2勝を挙げられ、翌10年のGT300モーラでのGT復帰につながりました。シリーズ前半はぶっちぎりでシリーズトップだったんですけど、後半はつまづいてチャンピオンを獲り逃す形になりましたが、自分なりには全力を出し切れました。
 翌11年の話は皆あまり知らないと思いますが、もう一度勉強したい気持ちもあり、長谷見監督とともにGT300参戦の話を進めていたのですが、突然の東日本震災によってスポンサーが離れてしまう事態となりました。突然、09年よりもひどい“浪人生活”がやってきたんです。さすがにこれは終わったなって思いました。ここまで何とか踏ん張ってきたけど、ついにこれでレースができない状況になってしまったな、と。答えがまったく見つからないぐらいの真っ暗なトンネルでした。シーズンが開幕してからの半年間、本当にレースが遠い存在に感じました。

横溝 直輝

横溝 直輝
12年からGT300クラスのエンドレスタイサンポルシェを駆る。今年は第6戦終了時でシリーズ14位と苦戦中だが、昨年の強さを終盤戦に取り戻せれば再浮上できるはずだ。

「浪人」と言える安堵感

 でも、チャンスは巡って来ました。サンダーアジアというチームから夏のSUGOと鈴鹿ラウンドで乗ってもらえないかという話をもらえたんです。ただ、テールエンダーを走っている車だったし、自分が乗ってビリの方を走ったら「横溝は完全に終わった」という評価になるわけだから悩みました。でも、次にこういうチャンスが来るかどうかも分からないし、これをチャンスに変えよう。そう思って走ったら、あるセッションではトップタイムも出せて、またいろんな人に声をかけてもらえるきっかけをそこで作ることができました。今は11年のことを浪人していたって言えるんですけど、復活しなければ引退ですよね。だから、今があるからこそ11年は浪人って言葉が使える。サンダーアジアにもらえたチャンスは自分のレース人生の中では大きなことでした。
 12年に向けて横浜ゴムから「エンドレスがタイサンと組んでやるにあたって、エンドレスさんから話があるんだけど、どうする?」という声を掛けていただいて、ふたつ返事でOKしました。チャンピオンを獲る最大のチャンスだと感じたんです。話は11年の間にまとまって、12年のGT3ポルシェが来て昨年の体制がスタートしました。
 その強力な体制の元で12年はGT300チャンピオンを獲ることができました。これまでのレース人生でいろいろな人に出会い助けてもらい、そういう方々の気持ちを力に変えて走ってきた結果がようやく実りました。またエンケイホイールにもすごく救われました。シーズン途中の富士テストで使ってみたら、本当にびっくりするようなパフォーマンスを感じたんです。剛性感、ステアリングを切った時のスタビリティの高さ、ブレーキング時の安定性、GT3ポルシェに着いてくる標準ホイールより重量はあるんですが、逆にバネ下が軽くなったような圧倒的なパフォーマンスを感じ、それらがタイムに表れたんです。当時、シリーズトップのウエイトハンデを搭載していたのですが、そのウエイトを積んだ中、公式合同テストでコースレコードでトップタイム。エンケイホイールを使っていなければ絶対に見えないタイムでした。後半のオートポリス、雨のもてぎでも表彰台に立っているんですけど、自分たちの足元を支えてくれた横浜ゴムとエンケイホイールに本当に助けられたという思いが強いですね。全セッションをエンケイホイールで走れるようにしてくださいって、僕はチームにお願いしたほどです。今年もエンケイさんにお願いしてすべてエンケイホイールで走っています。
 GTの難しさでもある性能調整で今年はやや苦戦していますが、こういう苦しい時期こそチャンスだと思っています。F1ドライバーになるという夢はもう厳しいかもしれないけど、次の目標としてはル・マン24時間レース参戦というのを自分の中には掲げています。また、アジアのモータースポーツも盛り上がっているので、アジアでも活躍できる日本のトップドライバーのパイオニア的な存在になっていければとも思っています。末永く見守ってください。
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