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野村 謙 氏 「努力で産まれる個性。」

HUMAN TALK VOL.167 野村 謙氏「努力で産まれる個性。」

PROFILE

野村 謙
NOMURA Ken

1965年5月19日生まれ 福岡県出身
競艇選手を目指し、競艇選手になるための試験を受けた経験もある。D1グランプリには初年度から参戦。独特な口調、博多弁の明るいキャラクターに加え、白煙番長と呼ばれる派手な走行スタイルで、D1業界の中でも人気が高いドライバーのひとり。初年度からR34スカイラインを駆り、04年に初優勝、06年に2勝、08年に4勝を挙げるなど活躍。今年の第4戦からトヨタ86に乗り換えた。
http://mos.falken.co.jp/blog/nomuken/

個性的なキャラでD1グランプリ界の人気者
のむけん、こと野村謙。
後先何も考えず、常に自然体で生きているように見えるが
じつはかなりの努力家だった。
好奇心旺盛な少年時代から今のD1ドライバーに駆け上がるまでの
人生を振り返ってもらった。

野村 謙

自慢のシティ・ターボ

 クルマに興味を持ち始めたきっかけは、小学校低学年の時に流行ったスーパーカーブーム!あの時はメチャ消しゴムを集めたなァ。しかもこのブーム、現在ウチのスポンサーである「なめ猫」の社長が仕掛け人だとはあまり知られてないっぽいケド。カッチョよか外車に少しだけ興味を持ち始め、消しゴム収集に没頭し、クルマ好きと言うよりも正確には消しゴムLOVEだったのかもしれん。本当にクルマが好きになったのはたまたま見た2本立ての映画の、どっちかと言うとオマケの方だったトラック野郎を見てから。大人になったら絶対に、電飾がいっぱい付いた派手なトラック運転手になることを誓ったのを今でも鮮明に覚えとる。それぐらい星桃次郎はおいどんにとっては衝撃的だった。
 初めて乗ったのはウチにあったニッサンチェリーバネット、今で言うミニバンで、セレナとかエルグランド的なクルマやな。親がいない間に少しだけ動かしたくなってしまい、家の庭からバックで出してすぐ戻すつもりだった。運転は父親の姿を見ててギヤを変えればOKと思いきや、エンジンをかけるとギヤが入らん……。後日、クラッチの存在を知るも、数日後に庭の溝に両輪を脱輪することとなる。頭にタンコブができたのは言うまでもなか……。
 人生で初めて手に入れたのはダイハツのクオーレ。当時、軽自動車って若者が乗るイメージはなく、友達はジャパンとか110ガゼールなどの人気車種を長期ローンで購入しとったのが本当にうらやましかったバイ。現在みたく若者の憧れはセダンとかミニバンとか軽じゃなく、絶対にスポーツタイプのクルマで、それを車高短にするのが夢。周りから見るとしょ~もない軽だが、自分にとっては宝物でマフラーを取っ払ったり、エアロパーツと言うモノができた時に、この辺りでは一番に装着して結構目立ったモンだった。なんで、どちらかと言うと運転好きと言うより「クルマ好き」。その後、ファミリアだのスターレットが流行って、モテる!?と勘違いして、おいどんは迷わずシティ・ターボを購入。友人もファミリア、スターレットに乗り換えたが、シティ・ターボが一番速かった。たまたま走り好きな友達から夜のお誘いがあり、行った場所が何もない道路なのにすごい人だかりのある“0→400m”会場だった。シティ・ターボってクルマはそこそこ速かったので、乗せられて挑戦するも完敗。でも見てて面白かったので毎週通い、当時一番速かったDR30に乗せてもらうことができた。その加速感に感動してシティをチューニングして毎週のようにゼロヨン会場に通ったとです。
 初めてスポーツタイプのクルマを手に入れたのがAE86レビンGTV。本当はソアラが欲しかったけど、ハンパなく高級車で買えるわけもなく、ミニソアラと言われてたレビンを買ったとですよ。で、ターボ。ゼロヨンでもまあまあ速い方だった。そこに、同車種の軍団が現れて一緒に走ったけど、コッチはターボ、向こうはスーチャーパーチャー!?とか、あまり聞いたことも見たこともないモンが付いとったけど、ターボは直線負け知らずのゴキゲン状態。で、長いことやっとると仲良くもなり、連れて行かれたのが峠道。直線は負け知らずだったのに、カーブ3~4個目で独りぼっち……。この後、峠に行く方がダントツに増えた。ある日、ギャラリーコーナーで見ていると、出口で滑りながら走っとるクルマが……。危なかっ!!と思うたけど、何事もなかったように走り去ってしも~た。「何じゃありぁ!?」。その後に見たのが遊園地の隣でやってたジムカーナ。なんであんな動きするんやろ!?ここからがドリフト人生への転落だった。

野村 謙

「いか天」で優勝

 峠でコーナー入口から出口までドリフトを成功したのは、始めて半年以上たった頃で、まだメジャーではなく「何、今の?」って感じで見られてたか、「スゲ~っ!」のどっちかだった。誰もが独学だった。自分もそうで、上り専用のテールスライドオンリーから下りに成功したのは始めて1年後。S字を連続で抜けるのに2年はかかった。そして、ドリフトを見に来る人、始める人が増えに増え~の、チームを作り~の、遠征行き~の、遠征先で仲間が増え~ので、しまいにゃ、300人以上の大所帯のリーダーになっとるじゃなかですか。その頃、ビデオオプションで「いか天」と言うドリフトのイベントがすでに始まっていて、出たがりタイプのおいどんは出場したくて仕方なかった。ビデオ屋さんに連絡すると、本当に来るんなら出してやってもいいよ(上から口調!?)と言われた。で、初出場で優勝♪天才バイ……。次に、誰が一番ドリフトがうまいのかを決める栃木県で開催された全国大会へ。予定通りに決勝戦までポンポン進んで最後は圧巻の勝利ぶぁいって考えていたら、スピンして準優勝……。ただ、優勝者より目立っていたらしく、いか天のデモランで呼ばれるようになり、そのうちレポーターみたいなことを頼まれるようになり、いつの日か喋っとるだけの人に……。てな感じで、あまり走ることがなくなった半引退後にD1グランプリが始まってしまった感じがするとです。
 ドリフトをやっていると最初はモテると思った。やはり、モテるのはクルマじゃなくて運転しとる人が重要だったようバイ。でも、始めた頃はクルマをコントロールできた時のうれしさが一番っ!それがキマッた時の快感っ!ギャラリーのザワつきっ!また知らない人に声を掛けられたり、仲間も増えて、たくさんの人に「すごい」とか「うまっ」って言われるようになったこともうれしかったですな。残念ながらモテることはなかケド……(悲)。

自身の引退期に出会ったD1グランプリは
本当に出る気がなかったはずなのに……
乗り馴れないマシンをマスターするため
陰の努力、練習を積み重ねる日々。
そして、いつしか「白煙番長」と呼ばれるまでになった
のむけんのドリフト人生と
これから目指す場所を語ってもらった。

野村 謙

D1に出る気はなかった!?

 第1回大会の時は前号でも言うた通り、ドリフト引退期に開催されたのでまったく参加する気もなかったし、見に行く考えもまったくナシ。なのに、当時のビデオオプションの担当者に半ば強制的に頼み込まれて出場させられた感があるまま、仕方なく参加してやったのに当日自分のゼッケンも無い状態だった。1回目の大会も無事に終わり、もう大会に出ることもないやろな、事実、次の第2回大会は出場してないし……。で、この年の途中にBLITZがドリ車を作ったってことで、D1に参戦することになったと聞いて、単に「へぇ~っ」と完全に他人事状態。半分以上興味なかったのかもしれんですね、この頃は。そして、BLITZスカイラインってのが水面下で参戦決定したのも、それに乗るドライバーが決まってたのも知ってた。モチロンおいどんは参加する予定もなく、エントリーさえもしてない。で、このクルマのデビュー戦の前にビデオのスタッフから「頼みがある……」的な電話がかかってきて、話を聞いとるとそのBLITZに乗る予定のドライバーが、当時ドラッグレースに某メーカーのドライバーとして参戦してて、同業種のチューニングメーカーのクルマにはやはり乗れないってことになったらしかとです。まぁ、良く考えたら当然っちゃ当然。しかも、大会の3日前!?で、その相談ってのがこのクルマに「オレ?」って感じだったとですよ。最初は断っとったケド、最後は本当に困っとるみたいやし……しぶしぶOKに。1回だけならって感じで。
 数日後に人生初のクルマを持って行かずにサーキットに向かった。そして、このクルマです的な軽い感じで仕様などの説明を受けて初走行、そして本番。1回戦は通過した気がするけど、まぁその後は想像通りですな。初めて乗るクルマで本番どうぞって、うまくいくわけがなか。サイドブレーキを引くつもりが、感覚が違うくてバケットシートを引っ張ったぐらいやしね。で、終了後にまたお願いされて、終わってはまたお願いされ、ズルズルと参戦して行くようになってしまったってのが事実。今までず~っとシルビア&180SXマニアだったおいどんが、いきなり初めて乗る4ドアの6気筒にすぐに対応できるわけもなく、勝つとか以前の問題……。
 まぁでも、ちょっとは自信はあったとですよ。でも、全然コントロールできんし勝てんとですよ。で、同じクルマを買って同じような仕様にして、通勤とかちょっと出かけるのも全部このスカイラインで移動して、マンホールを踏んで左タイヤの位置を覚えたり、バックで駐車するのも輪留めギリギリで止めたりして後タイヤの位置を確認したり、交差点を曲がる時には引きはしないケド、サイドブレーキにサッと手がレバーに行く位置を覚えたりした。そして練習にもイッパイ行ってこのダメと言われていたクルマの特性が分かるようになった。初優勝は、お台場特設コースで行われたエキシビジョン。この時、会場から近いってこともありBLITZの社長含め、社員の人総勢50名ほどが初のD1観戦&応援に来とった。そして、気が付けば決勝戦。なぜか決勝戦だけは何の根拠もなく「勝った」と思った。D1で初めて表彰式で胴上げが行われたのもこの大会で、選手の皆には本当に感謝した。それから「の~む~けん!の~む~けん!」とお客全員がコールしてくれたのは一生の宝です。
 それまでの審査基準ってのがカッコいいドリフト!って感じだったのが選手の技術やクルマのポテンシャルも上がり、単にカッコいい!だけでは点数を取りにいく選手も、点数を付ける審査員も難しくなってきていたのもあり、あるサーキットでは区間タイムを計ったりしたこともある。当然、速くコーナーを抜けたいから頑張った。そして区間タイムは1位になったこともあったが、得点はトップじゃなかったし、進入速度を計ったりした時代も速度重視でやったこともあったけど、やっぱ何か違うなと思ってた。何よりも、お客さんから「らしくない」とか「カッコいいドリフト見せて」と言われることもちょいちょい経験する年頃になり……。ドリフトにおいての「角度」とか「飛距離」って言葉を作ったのも自分だし、ある時のエビスラウンドは「角度と煙」バイっ!これで点数取れないなら審査員の言うことは次からちゃんと聞くつもりで、区間タイムと進入速度は完全においといて、昔やって峠でウケてた走法「ザ・ドリフト」に変えて走ったら、お客さんにも審査員にもウケた。で、「白煙番長」や「角度番長」ってあだ名もいつの間にかついた。

野村 謙
96年、博多にオープンした
URAS(http://www.uras.co.jp/)。車検、中古車販売からオリジナルエアロパーツ販売など業務内容は幅広い。

D1を盛り上げたい

 96年にショップ「URAS」をオープンさせたのは峠に行くのが楽しすぎて、ピーク時にはタイヤ代が1ヶ月30万円台にまで到達してしまったり、今みたくドリフト系のショップがなくて部品の交換工賃とか非常に高くて(クラッチ交換工賃だけで15万円だったショップもある)、じゃ、自分ちにリフトとタイヤチェンジャーがあれば良くない?ってな感じで気軽に立ち上げたとです。そうすりゃ、自分のクルマの工賃はタダ!?しかも、仲間にも集まれる場所と工具とかあればラッキー♪かなって。でも、そんなことやっとりゃショップとしては赤字じゃなかですか。この時、建築の仕事がメインでまだ景気は良かったからいいものの、このままじゃイカン!ってことで、何か面白いモン作ろう!から画期的なモノを発明しよう!になり、個性的なエアロパーツ作ったりってな感じでやっとりますとよ。
 今後の目標はD1全体を盛り上げることと、D1の楽しさ、スゴさを知らない人たちや海外にD1グランプリを伝えていくこと。また、D1を引退した選手が後の目標となる道を作れればなぁ。あっ、あとチャンピオンは絶対獲る(たぶん・・・)予定。会社としてはスポーツ系以外の車種にも興味あるし、パーツなんかの自社工場も作ることに決定したので、これからはドリフトパーツ以外も手がけてみたりして、普通のオーナーがウチが作ったパーツに興味を持ってくれれば嬉しい。トラック用品も好きやし……やりたいことイッパイかな♪それから、ヒマになったらウチの庭とか掘ったりして温泉が湧き出たり、小判がわんさか出てきたり、しまいにゃ石油とか天然ガスが出たらどうしよう……。こうなったら、次に皆さんにお会いする時には、おいどんの頭には白いターバンが巻かれとるに違いなか。その時はこう呼んでくんしゃい。「博多の石油王」と。
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