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末永 直登 氏 「日本に、世界に届けドリフトパワー。」

HUMAN TALK VOL.163 末永 直登氏「日本に、世界に届けドリフトパワー。」

PROFILE

末永 直登
SUENAGA Naoto

1976年7月23日生まれ 鹿児島県出身
エビスサーキット広報としておなじみであるとともに、全日本プロドリフト選手権(D1)でも活躍するドライバー。デビューは04年で、以後参戦を継続してきて、08年にはD1 SL(ストリートリーガル)シリーズで1位を獲得している。エビスサーキット等で講師を務めているドリフトスクールは、上達したことを必ず実感させてくれると参加者から好評。
http://blog.livedoor.jp/jdm_suenaga/

幼少からバイクレースを一筋に活動してきた末永直登だが
大学時代にドリフトと出会い、大きな転機を迎えた。
父の反対を押し切って始めるも思いどおりにいかずに
挫折しかかったこともあった。
だが、一歩一歩階段を昇り扉を開いていき、
末永はD1 GPまで駆け上がっていった。
彼が今、ドリフトを通して伝えようとしているのは―

末永 直登

衝撃の出会い

 生まれて初めて、エンジン付きの乗り物「ポケバイ」を始めたのは小学校に入る前のことでした。ダートラ、ラリーをやっていた父が僕にレースをやらせようってことで、まずは2輪からスタートしたんです。当時、父が勤めていたIRS(イワシタラリーサービス)ではエンケイスポーツのホイールを扱い、ラリーサービスをやっていました。今、僕もエンケイのサポートを受けているので、親子そろってエンケイとはつながりがあることになりますね。
 2輪レースは20歳ぐらいまで続けました。当時、バイクレースが盛り上がっていて競技人口も多かったんですけど、2輪はケガが多い。僕自身もケガをしたのもあったし、単純に"レースってどうなんだろうな"ってて悩んだ時期があった。モータースポーツって普通のスポーツと違って、少なからずモーターに依存する部分があり、カテゴリーが上がれば上がるほどその割合が増えてくる。もちろん競技なので仕方がないことだけど、その頃にふと疑問を抱いたんです。それで少し2輪を休むことにしました。
 当時、大学に行っていた僕は先輩が乗っているAE86にすごく興味を持ちました。同じ頃、たまたまコンビニで本を読んでいたら、AE86だけのドリフト大会が収録されたオプションビデオを見つけた。買ってすぐに見て、ものすごく衝撃を受けましたね。

ビデオの中の大会には200〜300万円かけ、すごくきれいなAE86もいたんですが、中にはボロボロの10万円くらいの拾ってきたようなAE86もいて、両者が同じステージで戦ってて、ときにはお金をかけていない車が勝ったりしていたんです。ドリフトってタイム競技じゃなく、いかに見ている人、審査員を喜ばせるか。そこにすごく興味を感じて、気づいたら僕もすぐにAE86を探して、ビデオを見た1週間後には購入していました。
 ただ、僕の父親は4輪のドリフトをやることに大反対でした。理由は父も4輪の競技をしてきて、2輪よりもお金がかかることを知っていたから。今は全面的に応援してくれてD1グランプリに出ることに関しても応援してくれているけど、当時は……。僕には弟がいて、今はRE雨宮さんのところの車に乗って一緒にD1GPに出ているんですけど、弟も僕と同じようにバイクレースから始めていた。僕がAE86を買った時、弟はバイクレースで鎖骨を骨折していて、僕のAE86を見て興味がわいたみたいで、少し乗せてあげたら、同じくすぐにAE86を買ってきたんです。

末永 直登

車は1/1のラジコン

 先に働き始めた弟と違い、当時の僕はまだ大学生。大学の自動車部に所属しながらドリフトを始めましたが、車を走らせるとなるとお金がいるのでアルバイトを3つぐらい掛け持ちして講義にはほとんど行けませんでした。それでもサークルの部室には毎日通っていて、その後自動車部の部長まで……結局、大学には7年もいました(苦笑)。大学3年生くらいまではきちんと講義にも出て、その流れに乗れば普通に4年で卒業もできていたはずなんです。でも、ちょっと待てよ、と。このまま普通に卒業すれば就職できるけど、自分って大学で何をやったっけなって、そこで思ったしまったんですよ。バイクはやっていたけど、それ以外って皆で飲み会をやってカラオケ行って騒いだぐらいしかしていない。これじゃダメだって。大学時代に"これは誰にも負けないぐらいに一生懸命にやった"ていうものがほしかったんです。そういう気持ちが強くあって、まったくゼロからのスタートでドリフトに打ち込んでみようって決めたんです。
  自動車部に入るまでは、車は壊れたら終わりだと思っていました。エンジンやミッションが壊れたら、その車は終わりって。そしたら自動車部の先輩たちは、エンジンが壊れても交換して直していた。「車は1/1のラジコン」。修理できるものなんだよって教えてくれたんです。自分が乗っていたAE86に関しては「このネジはどこのネジだ!」って全部言えるぐらいバラして組んで、バラして組んでを繰り返して車のことを学びました。
 当時、僕の地元にはサーキットがなかったので、必然的にみんな、夜中に山の中の峠道を走っていました。社会的にも今のように厳しくなかったので。峠をある程度走り込むと、そのうち物足りなさを感じました。その峠には一番上手いと言われている人がいて、その人を目標に通って練習していくと、そのうちその人に追いつき追い越して、逆に皆の目標にされるようになる。それはそれでいいんですけど、追い越したからと言って特別に評価されるわけでもないじゃないですか。で、今度はサーキットでドリフトをするようになるんですが、そこではボコボコにされた。峠では自分なりに自信があったけど、あまりにもレベルが違った。峠の場合はやっぱりマージンを残して走っているんですが、サーキットのドリフト大会でマージンを残していたら成績が出ない。そこでサーキットの走り方があるのを知って、それからは一切峠には行かなくなりました。遠いけど頑張って県外のサーキットに通い始めて、サーキットで認めてもらえるよう走りを磨くようになったんです。

峠からサーキットに通うようになり、
D1グランプリに参戦するようになった末永は大きな決断を迫られた。
会社を辞めるか、ドリフトを続けるか――
決意を固めた末永を支えたのは
現在所属するチームオレンジの熊久保だった。
大きな転機の中で
末永は自分の「役割」を見つけることになる。

末永 直登

1泊4日アメリカ通い

 サーキットに通うようになり、アルバイトに一生懸命だった大学生活も気が付いたら7年目となり、ちゃんと卒業するか辞めるか決めなければダメだな、と。そんな時、大学の教授が「そんなに車が好きなら機械系の会社に行ったらどうだ」と関東の会社を紹介してもらえたんです。大学7年も行っているしダメかもなと思っていたら入社試験に受かったので、地元九州を出ることを決意しました。

 ドリフトをやっていく中で、日本一レベルが高い関東や東北地区で挑戦したい気持ちが強かったので。新入社員研修で北海道に行っている時に、エビスサーキットで開催されたドリフト祭りに北海道からフェリーに乗って行き参加したんです。参加者のレベルがとても高くてもっと腕を磨かないとな、そのためにエビスに近い場所に行きたいなという思いが大会後に芽生えたタイミングで、関東地区の配属を強く希望しました。

 研修後に埼玉配属が決まり、それからの生活は月曜から金曜は会社員、週末はドリフトというもの。毎週のように、エビスサーキットに通っていました。その頃、04~05年ですかね、支配人(熊久保信重)がチームオレンジとしてアメリカに頻繁に遠征していた時期で、「海外でドリフトできたらいいな」って漠然と口にしていた僕に、「アメリカに車が置いてあるから乗って良いよ」という話をもらえたんです。会社には有給休暇を出し、何度も何度もアメリカに行きました。ただアメリカに行こうと思ったら、どんなに頑張っても日本を金曜に出発して、アメリカからの戻りも日曜出発で日本には月曜到着。1泊4日のスケジュールになり、金曜と月曜は有給休暇を取らないと実現できませんでした。
 当時、会社にはドリフト競技をしているのを伏せていたけど、有給休暇をすべて消化しきってしまい、正直に話をしなければいけなくなったんです。タイヤメーカーさんや各パーツメーカーさんにサポートしてもらいながらアメリカで走っていたので絶対に行かなければいけない状況になり、ついに上司に相談。当時すでに参戦し始めていたD1グランプリのこと、有給休暇がなくなったけどアメリカに行かなければいけないので、給料引かれてもいいから休ませてください、と。そしたら「仕事と趣味、どっちを取るんだ」と言われ、決断するしかないなと思いました。趣味でやってきたけど、今こうしてタイヤメーカーやパーツメーカーにサポートしていただいている以上、もう辞めることはできない。それが6~7年ぐらい前の話です。会社を辞めることになり「これから会社を辞めて、何かアルバイトをしながらD1に出ます」と支配人(熊久保)に話したら、「うちに来ないか」って誘われ、今の職場であるエビスサーキットで働くことになったんです。

末永 直登

D1参戦までの苦労

 D1グランプリに初めて出たのは05年、実は僕の弟の方が少し先にデビューしていて、僕はその手伝いをしていました。出られるならいつか自分も出たいなって思っていたのですが……。その時はまだ会社員で、限られた予算の中でしかやれなかった。ドリフトってタイヤの消耗が早くて、タイヤ代がすごくかかるんです。練習したい、うまくなりたい、でもお金もタイヤもない(笑)。そしたら支配人(熊久保)が、まだ使える中古タイヤを僕に分けてくれて、僕はそれで練習させてもらっていた。05年にD1ライセンスがもらえる選考会がエビスサーキットで開催されると聞き、自分の実力を試すために参加を決めました。結果5位ぐらいで何とかD1のライセンスをもらうことができましたが、ロールバーの装着義務や色々なレギュレーションを満たす車しかD1グランプリには出られないという規則があり、自分の車は車両規則に適合するものではなかった。その予算もなく、出たいけどお金もないし、今は練習を積むしかないなってその年は諦めました。
 翌年、仲間達が「D1出ないの?」と声をかけてくれ、「ロールバー安く売ってやるよ」「レーシングスーツ貸してやるよ」と参戦実現に向けて、みんなが助けてくれたおかげで、プライベーターとしてエントリーし始めたわけです。その後、チームオレンジの一員として、オレンジ色の車に乗るようになったのは、会社員を辞めて引っ越してエビスに入社してからのことです。

 08年D1グランプリ自体の成績はあまり良くなかったけど、D1ストリートリーガルというシリーズ戦で5勝を挙げてチャンピオンを獲れました。もちろん、今度はD1グランプリの方でもチャンピオンを目指したいです。そのために、まずは1勝が先ですが。ただ僕は勝ち負けだけじゃなくて、お客さんがもっと楽しめるような努力もしていきたいと思っています。観に来てくれるお客さんあっての僕ら選手なわけですから。あとはエビスサーキットで開催しているドリフトスクール。国内だけでなく海外からも大勢のお客様が来てくれて、そこで僕は先生をやらせてもらっているのですが、そっちでももっと分かりやすく、英語力を含めて勉強していきたいと思っています。日本のエビスサーキットはドリフトの聖地、そう思う外国人の方々も少なくありません。

 10代の若手ドライバーも増え、昔やっていた、あるいはやりたかったけどやれなかったジェントルマンドリフター世代も最近増えて、エビスサーキットは今、日本だけでなく世界に向けてのドリフト情報発信基地になっています。その中で僕は、今まで支えられた人たちから学んだことや自分の経験を活かして、皆のドリフトライフをサポートしていければいいなと思っています。ドリフトのおかげで、日本だけじゃなく世界中のたくさんの人々と出会えたこと、ドリフトの偉大さに本当に感謝しています。

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