僕らの世代がやるべきこと。

VOL.247

国沢 光宏 KUNISAWA Mitsuhiro

1958年4月16日、東京都中野区生まれ。東京農業大学在籍時からバイク誌、自動車誌で執筆をスタート。卒業後にベストカー(講談社ビーシー)に入社するも、1984年にフリーランスに転身。以後、雑誌やウェブサイトを中心に自動車関連の記事を寄稿しつつ、日本カー・オブ・ザ・イヤー等の選考委員も務めてきた。各サーキットのシリーズ戦からスタートしたレースキャリアは、40代からはラリーひと筋に。北海道で開催されるラリージャパンなど、WRC直下のカテゴリー参戦が主で、競技者とは違う目線での発信、取り組みを今なお続けている。
https://kunisawa.net/

今年で61歳を迎えた国沢光宏さんは
本業である自動車評論家の仕事をこなしつつ
ラリーの世界にも挑戦し続けている
なぜ「現役」にこだわるのか?
そこからの発信に込められた思いとは?
将来の自動車業界への期待を込めて
国沢さんの言葉に耳を傾けてみたい

 昭和33年生まれで、僕らの世代は皆そうなんですが、まだ車が一般的ではなかった頃に子供時代を過ごしました。実家は東京の中野で、身近な車と言えば商店街の仕事で使う商用車、もしくは地元で成功している人たちが乗っているアメリカ車がほとんどでしたね。そういう時代だったので、子供の頃は「乗用車を自分で買う」「欲しい」という考えはありませんでした。  ただ、乗用車が安くなり始めた時代で、僕が小学生の時には実家にも車がありました。初代カローラでしたね。それ以来、車が日常の中にある生活でしたが、あの頃の車ってガタガタと揺れるし排気ガスが臭いし、正直あまり好意的になれなかったです。あと中野という場所は駐車場代がとにかく高い。なかなか個人で車を持つにはハードルが高いこともあって、学生時代に車を所有するのは難しかったです。だから、中学校の頃は自転車、高校に上がればバイクというのが一般的で、自分も高校時代からバイクに乗り始め、毎日のように乗っていましたね。  車に興味を持つきっかけになったのがサーキットの狼。スーパーカー世代を生んだ漫画です。それを高校の時に読んで、車も面白そうだなと思い始めていました。

大学生で一般誌に寄稿

 自動車免許を取ったのは21歳の時です。教習所へ通わず、試験場だけに行って取る、いわゆる「一発試験」。僕は自動2輪免許の取得時も教習所へは行きませんでした。当時、教習所へ通うとなると15~16万円かかっていたのかな。僕は9500円、一発で取りました。
 車が一家に1台と言えるほど普及していて、大学生になって自動車免許を取る人が多かったので自分も取りに行ったのですが、免許を取得してからはバイクから車へとすぐに傾倒していきました。
 大学時代からバイク雑誌の原稿を書くアルバイトをしていて、その流れで車雑誌の原稿も書くようになっていき、大学4年の時には車の一般誌で記事を書いていました。専門誌はさすがにまだ大学生で腕も実績もなく書かせてくれませんでしたが、一般誌は面白がってくれて仕事をさせてもらっていたんです。当時はスカイラインのターボが出た時期で、ターボの記事を書いたり、初代FFファミリアが出た時の記事も書きましたね。
 雑誌の仕事を続ける中で、自動車評論家の徳大寺(有恒)さんが自分のことを気に入ってくれて、大学生の頃から原稿を見てもらっていました。そういうのもあって、大学卒業と同時にベストカー編集部に入ることになったんです。
 編集部に入ってからは、毎日のように徳大寺さんと編集長に怒られていました(笑)。今の出版業界に比べると、めちゃくちゃ厳しかったですね。車も雑誌も好きだけれど、あれほど家に帰れないなんて想像していませんでしたから。取材や打ち合わせの待ち合わせでは「誰よりも最初に来て、最後に帰る」のが当たり前で、いろんな先輩編集部員の下仕事を手伝わされながらも、自分の担当ページも持ち……寝る時間を削るしかないわけですよ。
 若い頃から本や雑誌を読んできたので、雑誌作りはすごく好きでした。ただ、楽しいのは雑誌が完成した時で、作っている時は常に苦しい日々(笑)。1カ月に1回、その楽しさ、満足感を得られたから、なんとか我慢できたのでしょうね。
 ベストカーに入って何が一番変わったかと言えば、車を速く、全開で走らせられるようになったことです。学生の頃に車を全開で走らせることって難しいですよね。ベストカーの仕事ではサーキットを走ることもあったし、いろんな意味で車を全開で走らせる機会が出てきて、より車のことやドライビングのことを深く知れました。それが今でも続けているラリー参戦につながっていると思います。
 レースに初めて出たのはベストカー時代で、タイム計測をし始めると、実際にレースをやっている人たちとのタイム差が気になり、それに近づいたり、追い越したりすると、当然ながら腕試しをしたくなりますよね。いろんな目を盗んでチャンスを作って、レースに出るようになっていったんです。最初に出たのは筑波サーキットだったかな。そこから富士スピードウェイ、鈴鹿サーキットのレースへと遠征するようにもなりました。
 でも、すぐにレースはやらなくなりました。というより、忙しくてやれなくなったというのが正しい表現です。僕は20代で会社を辞めて独立しました。ちょうどバブルの頃で、フリーランスになっても仕事は次から次へと舞い込んできて、仕事一筋に突き進んで行ったら、いつの間にか40代に突入していたんです。これじゃダメだと思って、40代から踏み入れたのが、ラリーの世界でした。

ご自宅の打ち合わせスペースには、ミニカーのコレクションが並ぶ。40代になってから目覚めたラリー参戦では、経験とコネクションを生かして最初から上級カテゴリーにチャレンジし続けている。

ベストカー編集部で2年半勤めた後に
フリーランスになった国沢光宏さん
そこから仕事に明け暮れる日々だったが
44歳になってからラリー競技の門をたたき
北海道で開催されたWRCにも参戦した今年で61歳。
まだ「現役」であり続ける国沢さんの生き様には
若手へのメッセージと期待が込められている

 ラリーの下地はベストカー時代にできていました。いろんな車に乗り、いろんな道を走っていたのもありますし、ラリーを見てきた中で「自分にもできそうだ」と思ったんでしょうね。もちろんトップクラスは別次元ですが、真ん中ぐらいであれば自分の腕でも通用するのかなって気がしていたんです。
 44歳でラリーを始めて、2005年にWRCが日本の北海道で開催されることになり、そのラリー・ジャパンに向けてのチャレンジをスタートさせました。砂利道のラリーに出たことがなかったことと、WRC参加資格を得るために参戦したのがアジア・パシフィック・ラリー選手権でした。その年はオーストラリア、ニュージーランド、タイに出て完走し、参加資格を得ることができました。車を考えれば、ラリージャパン本番での結果も望外と言えるものでした。その後、資金的な面でいったんお休みをして、次に出たのが2008年のラリー・ジャパン。あの時も成績が良かったので、その参戦車両で2010年からはタイのラリーに1年間参戦して、シリーズチャンピオンになることができました。
 2002年からのラリー活動は、ほぼ自費。小口のスポンサーや読者スポンサーはいましたが、基本はプライベート参戦です。年間で言うと、ポルシェを買うぐらいの出費(笑)。なのに、まだ現役で続けていて、今年もWRCドイツに出る計画を立てています。

ラリーの魅力

 世界的に見ても、60歳前後でラリーを続けている人はそれほどいませんし、日本ならほぼいない状態。それでもラリーを続ける理由は、単純に車を速く走らせるのが楽しいからです。車については、眺めて楽しむ人、所有することを楽しむ人、ドライブを楽しむ人、チューニングを楽しむ人と、いろんな趣味があります。僕にとって一番楽しいのは、速く走らせることなんです。ただ、サーキットでそれをやろうとすると限定的なことが多すぎて楽しめません。
 一方のラリーは、いろんな車が参加できるんですよ。僕の役割は新しい技術を広めること。電気自動車や燃料電池車であったり、オートマのラリー車でチャレンジして、それを発信することに意義を感じています。JAF公式戦に電気自動車で出てクラス優勝する、燃料電池車でリザルトを出す、国際格式競技においてCVTで優勝記録を残すなど、違うアプローチのチャレンジをラリーでは見出しやすいんです。
 サーキットであれば多くてもコーナーは10数個ですが、ラリーは無数にコーナーが出てきます。ツール・ド・コルス・ラリー・ド・フランスでは、コーナーが6000個所あります。全部のコーナーを覚えられないので、カンで対応するしかないし、すべてのコーナーにギア比や車体のセットアップを合わせることなんて不可能です。車もタフじゃないといけないし、ドライバーもその時々のコーナーや路面コンディションに対応していかないといけない難しさがあるんです。コーナーを曲がった先に、さっきはなかった石が落ちているかもしれない。でも、そうした中で公道を限界で走れることが本当に楽しいのです。対向車が来ない林道って、本当に素敵(笑)。前で何が起こっているか分からないところを全開で走る時の爽快感って、やったことがある人にしか分からない魅力がありますね。

タイのキングズ・カップ・トロフィというシリーズ戦を戦い、チャンピオンを勝ち取った際のトロフィ。思い出深いものだ。

種を蒔くために

 自動運転技術が現実的になり、この数十年の車の進化はすごいと言われる時代になりました。実家にあった初代カローラからすると、ぜんぜん違うもののように思えます。ただ、僕自身が感じるのは「時代の要請」が大きく関係しているだけで、車の本質は変わっていないのかなということです。
 排気ガスが大気を汚すというのでエコカーが出てきたわけですし、事故が起こった時にドライバーや同乗者を守るための装備や構造が進化をしたわけですからね。ダーウィンの進化論と一緒で、変わる者しか生き残れない。だから、車もその時々の時代の要請で進化していっているだけで、走るという本質はまったく変わっていないという見方もできます。4つのタイヤがあって、ハンドルを回して曲がり、アクセルを踏んで加速、ブレーキを踏んで止まるのは変わりません。初代カローラと最新の車で本質的な部分で何が違うと言われても、それほど大きく変化したものって、じつは多くはないんです。
 メディアにしても同じことが言えます。雑誌が厳しい時代と言われますが、僕自身は苦しんでいないんですよ。人間が情報を必要とするのは、今も昔も変わっていません。ただ、その情報源が紙メディアからウェブメディアになっているだけで、伝える側、発信する側の本質もじつは変わっていないんだと思います。ウェブメディアに乗り換えた出版社で良くなる兆しが見えてきたという話は聞きますが、紙メディアがなくなることはないでしょう。生き残っていく競争はかなり激しいでしょうが、紙には信頼性という重みがあり、紙メディアでしかできないことはまだまだあると思っています。世の中が絶えず変わっていく中で、メディア自身がどう伝え方を変えていくかが問われているのだと思います。
 自分自身の今後は……いつ死んでもおかしくない年齢に踏み込んだわけですし、残っている時間は好きなことをして、若手を育てるチャンスを作って、世の中のためになることをするだけですかね。でも、育てる若手がなかなかいないんですが(苦笑)。ただ、僕らが面白いことをやり続けて、若い人に車をもう一度見直してもらうというのも若手育成のひとつだと考えています。僕が活動する中にも若い子が入ってきて、手伝ってくれています。その子たちに、この業界ってこんなに楽しいんだよというのを伝えていくのも、いつか花を咲かせる種になると僕は考えています。

「ラリーの中でもWRCに魅力を感じ、パリダカには興味を持てませんでした」という国沢さん。北海道で開催されるラリー・ジャパンだけでなく、アジアやドイツにも遠征してきた。今年も8月末のラリー・ドイツに参戦を予定している。

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