Never give up

VOL.241

若林 葉子 WAKABAYASHI Yoko

1971年、大阪生まれ
OL、フリーランスライター・エディターを経て、2005年よりahead編集部に在籍。2017年1月より編集長を務める。2009年からモンゴルラリーに挑戦し、ナビゲーターとして4度、ドライバーとして2度出場してすべて完走を果たす。2015年のダカール・ラリーではHINO TEAM SUGAWARAの1号車のナビゲーターも務めた。

29歳までOL、34歳までは車にまったく興味を持たず
所有したいなんて思ったこともなかった若林葉子さん
人生のターニングポイントはどこにあったのか?
ahead編集長になるまでのカーライフをのぞかせてもらう

この業界では珍しいと思うのですが、20代は丸の内でOLをしていました。子供の頃から本が好きで、物を書く仕事をしたい気持ちはあっても、29歳まで大手製造業メーカーに勤務していたんです。でも、離婚をきっかけに27歳くらいで自分の好きな仕事で自立をしたい気持ちが強くなり、29歳のときにフリーランスのライターになろうと決意を固めてOLを辞めました。  カルチャーセンターに半年ほど通うなか、リクルートが出している住宅情報という分厚い情報誌でライターを募集していたので応募しました。それに受かって、1本いくらという仕事をベースにしながらフリーランスのライターとして生計を立てる生活が始まりました。29歳から34歳まで5年間。最初は苦しかったけれど、ひとりで生活していけるぐらいは稼げるようになった34歳のときに、時々仕事の情報をもらっていたそのカルチャーセンターで「ahead」がリビングページを新設するのでライターを探していると聞きました。住宅情報をやってきてインテリアや建築にも興味がありましたし、ときどき原稿を書くこともあったので、説明会に参加したんです。そこでaheadって車の雑誌だったんだと知るわけですが、初代編集長の話が面白くて、やらせてもらえたらと企画書と履歴書を出したら採用していただけました。

まずは車を購入

最初の半年は、その車の雑誌内でリビングのページを担当しました。毎月のように掲載誌が送られてくるので、こんな感じの車の本なんだっていうのは理解していましたが、そもそも車には興味がありませんでした。東京で暮らしていると車は必要ないんですよね。タクシーでいいじゃん! 当時の私の感覚はそんな感じでした(笑)。
 転機が訪れたのは、aheadに携わり始めて半年経った頃。「副編集長をやっている女性が辞めるから編集部に入ってやってくれないか?」と当時の編集長に言われたんです。最初は迷いましたね。雑誌自体は切り口も他と違って面白いなと感じていましたが、私自身がペーパードライバーで、おまけにオートマ限定免許だったんです。でも、「自分で興味を持って取り組めるならできるんじゃないか」と言われるまま2005年の1月に入社を決めました。
 恥ずかしいんですけど、当時の私はハッチバックとセダンの違いも知らず、入社して初めてルノーという自動車メーカーを知ったぐらい(笑)。そんな私の最初の行動が「車を買うこと」でした。1月に入社してすぐに、ルノーの試乗会で広報の人に「車を買おうと思うんです」と言ったら「ルーテシアがいいよ」と教えてもらい、自分のなかに基準がないから「じゃあそれにします」と購入したんです。当時、代官山に会社があって納車場所を会社にしたのですが、自分で運転して帰れないので、友達を呼んで家まで持ってきてもらいました。そんなとこからのスタートでしたね。
 ただ、後々振り返ると私の一番のターニングはこうして車を買ったことだと思います。人よりぜんぜんスタートが遅れているのは分かっていたので、できることは何?と思ったとき、せめて車の運転ぐらいはできるようになろうと決意してのアクションでしたから。でも、運転には苦労しました。クセがあって、小回りもきかないし、バックも難しくて……。だから練習のため、帰宅して夜中の空いている時間に湘南方面へひとりドライブによく出かけました。ルーテシアはものすごく気持ちよくエンジンが回る車で、難しかったけど、ルーテシアのおかげで車の楽しさを知りました。とても思い出深い車です。

ラリー初参戦

今でこそ、試乗会へ行けばどんな車でもパッと乗り換えてすぐに身体に馴染む感覚が得られますが、最初の頃は何に乗っても自分と機械が別物みたいな感覚。好きって言えるようになるまでは長い時間がかかりましたね。
 そんな私が2009年からラリーに参戦することになるとは思ってもみませんでした。以前、aheadの表紙を撮ってくれていた桐島ローランドさんが、ダカール・ラリー挑戦の練習としてモンゴル・ラリーに出ると聞き、プレスとして同行させてもらったんです。私自身は都会育ちで大自然を知らないので、憧れがありました。それが2005年の夏です。現地の大自然に魅了されたのはもちろんですが、長い日には600km、ただひたすらオフロードを走って帰って来た選手たちは、誰もが疲労困憊だけど楽しそうでした。プレスで現地に行ったとはいえ、ただ待っている時間が長く、その輪のなかにはどうしても入り込めない。その傍観者的な感じがつまらなくて、ラリーは観るのではなく?自分で出ないと楽しめない?という気持ちが残りました。
 帰国後、その気持ちを社内で話してからも、ずっと出たいなという気持ちが自分のなかにありました。でも、ラリー参戦は本当に大変です。いつだったか「出たい出たいと言う人は多いけど、本当に出る人はわずか。そこには大きな隔たりがある」とも言われました。自分のなかで何も知らず入ってきたこの業界で自信を持ちたいという気持ちもあったんでしょう。当時の編集長であった神尾(成)さんが、しびれをきらして「誌面で言っちゃえよ」と背中を押してくれて、本当に誌面で言ってしまったんです(笑)。
 後には引けなくなり、2009年にスバルのフォレスターで参戦することが実現しました。初参戦はドライバーではなくナビゲーターを担当したのですが、もう回数が分からなくなるぐらいタイヤ交換をして、完走扱いになったけどペナルティの山……。貯金もすべてはたいて、もう次の機会はないなと思って帰国した私のもとに残ったのは借金だけでした。

写真は2010年に参戦したモンゴル・ラリー。草原、砂丘、山、湿地帯など、大自然を相手にひた走った。このときのナビゲーターは三好礼子さんだった。

モンゴルで初めてラリー参戦を果たした若林葉子さん
衝撃的な体験の連続で、これが最初で最後と噛みしめて
帰国した彼女に声をかけたのは──ダカールラリーに続く
その出会いが、彼女の人生を大きく変えていった

「次はないな」と思いながらモンゴル・ラリー参戦から帰って来たのですが、ダカールラリーに挑戦し続けているHINO TEAM SUGAWARA(日野自動車のワークス)の菅原義正さんに声をかけていただいたんです。このモンゴル・ラリーにはダカールラリーに参戦する人たちも練習やテストを兼ねて参加されていて、菅原さんも現地で私が悪戦苦闘したのを見てらっしゃったんです。「借金まで作って参戦したのに、良い思い出がないまま辞めてしまうのはかわいそうだ」と。翌年、菅原さんはパーツ取り用に購入されていたジムニーのシエラを私のためにラリー仕様にして、「これでもう1回やりなさい」とチャンスをくださいました。
 この2年目のモンゴル・ラリーでナビゲーターを務めてくれたのは三好礼子さんです。aheadの取材で数回お会いしたことはあったのですが、菅原さんから依頼していただき、礼子さんは私のために「ナビをやるよ」と10年ぶりぐらいにラリーの世界に戻って来てくれました。「マニュアル車より機動力は落ちるけれど運転に集中できるから」という菅原さんのお考えでシエラはオートマ車。初めてのモンゴルの砂丘越えも礼子さんのアドバイスで無事にクリア、1年目の苦労が嘘のように楽しみながら完走できました。3年目は菅原さんのナビゲーターを務めてクラス優勝し、翌年も別の方と組み、モンゴル・ラリーには4年続けて挑戦しました。

ダカール参戦の条件

そんな貴重な経験を積ませてもらう中で2015年のダカールラリーのナビゲーターの話をいただきました。菅原さんはダカールラリー史上最多35回連続出場(2019年)を果たし、日野チームスガワラをずっと率いてこられた大ベテランです。そんな方から声をかけていただけた幸運を噛みしめる間も無く、実現する上でハードルとなるのが国際C級ライセンスです。ダカールラリーのナビゲーターを務めるためには必須で、取得条件を満たすには過去2年の間に国内のレースに3回出場してすべてを完走しなければいけません。2013年に参戦していたマツダのメディア対抗ロードスター4時間耐久レースをカウントでき、2014年も出走メンバーに入っていたので、これをしっかり完走すれば残りひとつ。迷いつつも選んだのはロードスターのパーティレースでした。
 ラリーは一度スタートするとコース上で他車と会わないことが多く、誰かに迷惑をかけることは少ないのですが、サーキットではそうはいきません(苦笑)。だから、必死に練習しました。筑波サーキットにも通いましたし、ロードスター使いとして知られる東京・町田のTCRジャパンの加藤彰彬さんを先生に、シミュレーターでコースのライン取りを叩き込んでもらったり、ジムカーナの練習にも付き合ってもらいました。それらの特訓を機に、マニュアル車の運転がすごく上達しましたし、国際Cライセンスも取得することができました。

2回目のモンゴル・ラリーでの一コマ。助手席に座っているのがナビゲーターを務めた三好礼子さんだ。

タイヤ1本100kg

ここまで自分なりに一生懸命やったつもりでしたが、ダカールラリーのプレッシャーは想像以上でした。HINO TEAM SUGAWARAは菅原さんの息子である照仁さんがクラス優勝して、菅原さんが2位という、長いこと親子ワン・ツー・フィニッシュを果たしてきている名門です。そんな日野自動車のワークスチームにパッと入ったわけですからね。私のミスで記録に泥を塗ったりしたら、もう日本には帰れないなって。国を背負って戦うオリンピック選手の気持ちがほんの少しだけ分かった気がしました。結果として、モンゴル・ラリーのように良い意味で緊張感を持って実力を発揮することができなかった気がします。プロの世界へ足を踏み入れるには、それなりの覚悟と準備をしてこなければ厳しいですね。
 中型トラックの日野レンジャーのホイール付きのタイヤは1本で100kg以上もあり、タイヤ交換で積み下ろしする際はウインチを使います。そういうところから違いが大きく、なおかつコースのある南米のアンデス山脈の砂丘地帯は標高が高いんです。私が参戦した時には、標高4200mを走る競技区間もあり、酸素が薄くて短い間ですが意識を失うようなこともありました。アフリカで開催されていた頃は冒険要素が強かったのでしょうが、今のダカールラリーは競技色が強く、平均速度も高くて砂丘越えもアクロバティック。ハーネスで体をがっちり固めているのに、コクピット内では頭をぶつけたり、急な下りでは体が浮いたりと本当に大変な日々でした。
 貴重な経験をさせていただいたことへの感謝の気持ちが強い一方で、もっと捨て身でやれば良かったなという反省の念もありました。いずれにしても、帰国後に自分の中にあったのは「この経験は最初で最後だな」という思いでした。同時に、本当の自分の実力がどれくらいなのかを知りたくて、もう一度モンゴル・ラリーに参戦したいという強い気持ちが生まれました。だから思いきって、この年のモンゴル・ラリーにはナビゲーターをつけず、自分一人だけで参戦しました。そのときの経験から「ラリーの楽しさってこういうことなのかな」と、初めて何か大切なものに触れられた気がしました。
 モンゴルから始まったラリー参戦の経験で得たのは、何よりネバーギブアップの精神です。最初から他力本願だと助けは望めない。自力で何とかしようとしている時に、どこからか誰かが現れて助けてくれる──ラリーではそんな不思議な経験ばかりでした。
 あんな大変なことを越えられたんだから、大概のことはできるだろうと。ラリーをやっていなかったらこの仕事をここまで続けてこられなかったとも思います。常にチャレンジする気持ちを持ち続けられるのは、やはりラリーでの経験が大きいです。今後の人生でも、aheadの編集長業務の中でも、それは私にとって誇れるものです。

中型トラックをベースにした日野レンジャーで砂丘を越える。ナビゲーターとして参加したダカールラリーは、モンゴル・ラリーとは規模も地形も環境も、何もかもが違っていた。

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