次世代につなぐ襷。

VOL.239

土屋 武士 TSUCHIYA Takeshi

1972年11月4日生まれ 神奈川県出身
20歳になる1992年にFJ1600でレースデビューして、いきなり優勝。1994年からは全日本F3選手権に参戦。フォーミュラでは2000~2008年には国内最高峰のフォーミュラ・ニッポンを走った。1995年以降続けてきたGT参戦では、レギュラードライバー勇退を決めた2016年にGT300クラスで2勝を挙げてシリーズチャンピオンを獲得した。ドライバーに限らず、これまでチーム監督、エンジニア、メカニックなど、レーシングチームのあらゆる仕事をこなしてきた。

自身のレギュラー参戦勇退を決めた2016年
若手の松井孝允とともにGT300クラスで
シリーズチャンピオンに輝いた土屋武士
充実感に満ちた彼の24年の歩みのなかでも
近年はとくに濃厚な時間を過ごしているという父と若手と自分。
そのどれもを生かせる道を開拓し続ける彼が
目指しているところとは?

初めてサーキットへ行ったのは小学校5年生のときでした。国府津、新松田を経て、松田から御殿場まで電車で移動して、そこから富士スピードウェイ近くの霊園までバスに乗って、ひとりで行ったんです。父が代表を務める「つちやエンジニアリング」の歴史は富士フレッシュマン参戦から始まり、当時アドバンとエンケイカラーのサニーとスターレットが常に置いてあったのを覚えています。メカニックという下積みがあって、自分自身は20歳からFJ1600に参戦を始めて、区切りをつけた44歳まで24年もドライバーをしてきました。近年はエンジニアをやりながらドライバーもやったりしてきましたが、本当に恵まれた環境のなかで過ごしてきたなと今は強く感じます。

化け物級メカニック

気持ちの面では、2008年(36歳)フォーミュラ・ニッポンを引退したときに、いったんプロドライバーに区切りをつけ、2016年(44歳)にGTを降りるまでの8年間は、いろんなことを考えながらトライアルをしてきました。実際、「この先何をやっていこうか?」という答えを考えたとき、レース業界のなかでは逃れられない現実として自分は土屋春雄の息子だというのがあり、その父のつちやエンジニアリングが2008年で休止になっていることも心に引っかかっていました。
 土屋春雄はレース業界のなかでは化け物級のメカニック、人間離れした技と心を持っている「ザ・職人」です。その職人がいるガレージが活動できない状況になった現実があり、これはレース業界全体で考えると損失でしかないなと感じました。頑固職人ではあるけれど、若い職人がそこで学べるものは計り知れません。ここで育った若手が今後のレース業界を背負うことを思うと、自分がやるべき使命はつちやエンジニアリングを復活させること、土屋春雄の活躍する場所をまた作り、若手職人を育ててもらうこと──。自分を育ててくれた人、良い環境でプロレーシングドライバーを続けさせてくれた支援者や企業を含め、業界全体への恩返しにもなると思いました。GT300にドライバーとして乗ったり、監督をしたり、エンジニアの仕事を受けたり、テレビの解説や雑誌ライター業もやってきたのは、結局はそこにすべてつながっていけばいいなという思いからでした。
 復活を果たしのは2015年。工場は最盛期のときくらい稼働していて、父は多忙な日々を送りながらも幸せそうです。

若手を応援する理由

自分自身も若手に頑張ってほしい気持ちが強く、ずいぶん前から応援してきました。ドライバーを始めた1993年の翌年、自分の会社「株式会社サムライ」を興したのですが、その活動のなかでも若手ドライバーの支援を行ってきました。自分がフォーミュラ・ニッポンのシートを得て完全なプロになれた2001年を機に、それまで何も返せないなかでも自分を支援してくれたパーソナルスポンサーさんには無償でヘルメットやレーシングスーツにロゴを入れて恩返しをしようと考えていたのですが、長く応援してくれたスポンサーさんが「これまでどおりに応援していきます」と金銭サポートも継続してくれたんです。だから、そのお金は若手の応援に回そう、と。自分はメーカーから仕事を評価してもらって給料をもらえるようになっていたので、スポンサーフィーは毎年ほぼ全額、レーシングカートをやっている10代の子やミドルフォーミュラで奮闘している若手何人かに割り振っていきました。
 同世代でそんなことをしている人は、もちろん皆無でした(笑)。正直、自分のことで精一杯ですからね。でも、自分は2000年からFTRS(フォーミュラ・トヨタ・レーシングスクール)の講師をやらせてもらうようになり、目の前には若い子たちがいっぱいいたわけです。平たく言えば、かっこつけていたのかもしれませんが、そうすべきじゃないかなって思いに従ってきました。
 さっきも言いましたが、自分は運がいいなとつくづく思います。人と出会う運、レースを続けてこられた運……。でも、現実には想像を超える厳しさがあり、F1を目指すなんてことになると莫大なお金がかかり、さまざまなものが渦巻き始めます。それがレースの世界。そんな中へ純粋にレースが好き、走るのが好きと頑張っている若手がいるなら、なんとかしてあげたいなと思うんです。上を目指せば純粋さが薄くなる環境が待っているなか、少なくとも自分ひとりでも、そんな悪いところばかりじゃないんだよと伝えたい、という反抗心なのかもしれません。
 それに、その行動は自分自身に返ってくるものなんです。熱い想いで純粋にレース活動している若い子の勢いに触れていると、自分も負けていられないと思えてくるんです。常に刺激をもらい、自分も活性していきたい。若手に負けないように自分も成長していかなければって。誰からも見られなくなったらダラけていくだけ。常に前を向いて進んでいかないと、誰もついてこなくなりますからね。自分を目標に頑張る若手が近くにいるだけでも良い意味でプレッシャーになります。若手を支援しているのだけれど、それは自分に対してのいい刺激でもあるわけです。

FJ1600からスタートしてF3を経て、2000年よりフォーミュラ・ニッポンにスポット参戦。2001年よりレギュラーシートを手にして2008年まで最高峰で戦った。ハコ車の経験も長くスーパー耐久シリーズの前身、N1耐久のころからアマチュアレース最高峰の舞台では活躍しつつ、GT参戦は1995年から始まっていた。

自動車メーカーのお抱えチームではなく
スポンサーやファンに応援されて初めて成立する「プライベーター」
つちやエンジニアリングはまぎれもなくそれだが、
先頭に立つ土屋武士を筆頭に誰もが情熱を持って前に進んでいる
その原動力はどこにあるのだろうか?

サムライの活動で取り組んだのがJAF F4参戦。ガレージとして自分たちのレーシングカーというのが少なく、モノコックとギアボックスを買ってきてスタートさせました。(松井)孝允(たかみつ)をドライバーとして走らせるためでもありましたが、それ以前にメカニックを育てることが大きな目的でした。
 誰かを育てる、と言うとえらそうに聞こえるかもしれませんが、僕らが成長してきたなかでは当たり前のことなんです。ドライバーで言えば、たとえば星野一義さんが影山正彦さんを、長谷見昌弘さんが田中哲也さんを育てられました。僕の師匠は鈴木恵一さんで、自分がプロとしてやれてこられたのはその存在のおかげです。だから自分も誰かを育てないといけない、育てたいという気持ちは強くありました。若い子を応援するだけでなく、一人前のプロに最低一人は育てないとダメだって。そんな中で孝允は何もないところからずっと一緒にやってきて、今ではしっかりしたプロになってくれました。トライアルをしながらの手探りでしたが、周囲が求めるものと自分がやりたいこと、やるべきことが自然に一致してきた結果、彼がプロになれたんじゃないかなと思います。自分が考えて、行動して、という感覚が間違っていなかった証明でもあるので、この感覚を大切にしながら今後のガレージ運営も進めていくつもりです。

必要とされる存在に

思い出深いのはドライバーを引退した2016年の11月13日。つちやエンジニアリングを復活させて、運良くスーパーGTの舞台に戻れて、最終的に自分が引退すると決めたその日にチャンピオンを獲れました。自分が描いた、まさに理想的なストーリーでした。レースが終わった瞬間に思ったのは、そこまで突っ走ってきて結構大変な日々を過ごして疲弊していたけれど、こんな素敵な引退を用意してもらえたからには、これからも休めないなということ。休んだらバチが当たるって。だから表彰台でマイクを向けられたとき、「今後、しっかりお返しをしていきます」と宣言してしまった。言った後で、また休めないじゃんかって思いました(笑)。
 でも、チャンピオンを獲ったから、その獲り方も教えられます。車の作り方、運転の仕方だけでなく、シーズンの戦い方という大切な戦略を伝える役目ができました。それはチャンピオンを獲っていなかったら、えらそうには言えないことですからね。
 よくドライバーを引退するときに不安はなかったか? と聞かれます。僕の場合はぜんぜんなかったですね。不安というのは自分の居場所がなくなるからだと思いますが、僕の場合は居場所がありすぎた(笑)。本当にありがたいことに、たくさんの人に必要とされていました。
 親父から何度も言われてきたことでもあり、必ず若い子たちにも言っているのが、常に人に必要とされる存在じゃなければプロでも一人前でもないということ。「またお前と一緒に仕事がしたい」と言わせろ、と。それが職人の教えです。自分の仕事を必要としてもらっていないと、自分の存在意義がなくなってしまいます。レースで何が一番大切かと言えば、じつは「続けること」なんです。続けられるということは必要とされていること。そこに対して常にチャレンジしていかなければいけなくて、怠けたら一瞬で自分の居場所がなくなってしまいます。それがプロの世界なんです。これでいいやって思った瞬間に、何もかもが終わる。だから生きている以上、自分はずっと何かにチャレンジし続ける──そんな姿勢って、まさに親父の生き方だなって最近よく思います。

2016年の引退レースで獲得したGT300チャンピオンは、父をはじめチーム一丸となって努力した結晶であった。今はチームを率いつつ、ドライバーとエンジニア目線で所属ドライバーふたりのよき相談役。左が松井孝允。

唯一のプライベーター

2015年にガレージを復活させて、つちやエンジニアリングには活気が戻りました。親父が元気でいるうちに、なるべく多くの若いメカニックの子たちにはその情熱と技に触れてほしいと願っています。自分自身ももっと車の勉強をして、いつか車を設計ができるようなエンジニアになりたいですね。
 ガレージとしての目標は、25号車が必要とされる存在であり続けたい思いに尽きます。今はGT300クラスが主戦場ですが、GT500を目指すぞといったこだわりはなくて、望まれる方向へ進めればいいなと。レースってそもそもお金がないとできないので、現状では他力本願なわけです。自分のところでお金を生めるわけじゃなく、誰かに応援されてできること。いわば賛同してくれる仲間のお金でやっているんです。そこにある現実はやっぱりプライベーターで、応援されて初めて走れるチームなんです。昔はそんなチームばかりでしたが、見渡すと今のGTではうちぐらい。だから、日本一のプライベーターであり、日本一のレーシングチームを目指したいですね。
 レース業界で「土屋」という名前が残せているのは本当に幸せなことですし、運がいい。なかなかできないことを自分たちが今やらせてもらっていると自覚しながら、今後も皆で頑張っていきたいと思います。

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