モータースポーツの未来。

VOL.229

関谷 正徳 SEKIYA Masanori

1949年11月27日生まれ。静岡県安倍郡井川村(現静岡市葵区)出身。1972年レースデビュー後は富士グランチャンピオンレースを皮切りに全日本F3000選手権や全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権などトップカテゴリーで活躍。ル・マン24時間レースにも11度出場し、1995年の大会では日本人初の表彰台の栄誉を得る、日本モータースポーツ界の重鎮。

1972年のレースデビュー以来、日本のレース界を牽引。
そして日本人として初めてル・マン24時間レースに
優勝したドライバーとして歴史に名を残す関谷正徳氏。
引退後もレースチームの監督やレーシングスクールの校長を務めるなど
精力的にモータースポーツに関わる氏が語る
「これからのモータースポーツのあるべき姿」とは

みんなが車に憧れた時代

私の出身は静岡県の山あいにある大井川と安倍川の間に挟まれた地域、安倍郡の井川村(現静岡県葵区)というところでした。井川村は大井川の上流の地域なんですが、山を東に一つ二つ越えた安倍川の上流にある玉川村には星野さん(元レーシングドライバー:星野一義氏)もいらっしゃいました。私が高校生くらいの時から星野さんは地元でも「バイクで速いライダーがいるぞっ」て有名でね、小さい頃から星野一義って名前は耳にしてましたよ。
 実家が自動車屋だったこともあって、小学生くらいになると親父が車の運転を教えてくれまして、それが車好きになったきっかけかな。当時は男子小学生に「将来何になりたい?」って聞けば大半の子は「車の運転手!」って言ったもんです。車に憧れてたんですよ皆が。トラックが村に来ただけでも珍しい、そういう時代でした。自動車の成長や成功とともに僕らは生きている。最高にいい時代を生きて来たんですね。
 僕らの世代は16歳から免許が取れたので、学校から実家がある山へは車を運転して帰るんです。当然速く走りたいという願望は持ってますから、自然と技術が身に付いた。教習所にも行ってませんし、誰に教えてもらったわけでもないんです。卒業してからも車で生きること以外は考えていなかったので、整備士をやり、営業もやりました。レーサーをやらなければ中古車屋の親父になってたかな(笑)。でもそんなに裕福な家庭ではなかったんで、レーサーになろうとは全く思っていなかった。

ご縁に導かれてレーサーに

僕がレーサーになれたのは全て人の縁ですよ。先輩や友人がレースをやるというので「一緒にやろうぜ」って誘われ「関谷ちょっと乗ってみろよ」と乗ってみたらタイムが良かった。このように誘われ、乗って、速いからまた他の人に誘われて、を繰り返してどんどん成長していったんですね。富士グラチャンを走っていた頃にもたまたま誘ってくれた人がいて、それじゃあってイギリスに行きフォーミュラ・アトランティックに参戦。そして帰国した時に舘さん(株式会社トムス会長:舘信秀氏)と大岩さん(同社長:大岩湛矣氏)が「うちに来いよ」って声を掛けてくれたんです。トムスとの縁はそれからです。
 1985年にはル・マン24時間レースに初出場しました。1982年からWEC(世界耐久選手権)が富士スピードウェイで開催されるようになって、そのあたりからがグループCカーをトヨタが本腰を入れてやり始めたきっかけになっていたと思います。そこから1992年まで足掛け約10年くらいグループCに携わらせていただいたことで、ドライバーとしてだけでなく、マシン開発も含めとても勉強になり、成長もしました。今振り返ればF3000に乗ったりグラチャンに乗ったりと沢山乗らせてもらいました。自分の下手さを沢山乗ることでカバーできたのかなと思います(笑)。そんなレーサー人生を通して、「出会い」というものの大切さを身に染みて感じています。静岡マツダ時代の白鳥哲二さん、グラチャンに誘っていただいた小倉泰彦さん、ウォールターウルフの高橋晴邦さん、トムスの舘信秀会長、大岩社長など素晴らしい人との出会いに感謝しています。

ル・マンの衝撃

ル・マンに行ってまず驚いたのはその雰囲気でしたね。とにかく人のエネルギーが凄かった。20から30万人もの人が集まった時のエネルギーは凄いですよ。そのエネルギーを受けて走る側もモチベーションがグッと上がりますしね。もちろん全世界に放送されて世界中の人々が注目するレースなのは言うまでもありません。ル・マンを誰でも知っているレースというものに価値を上げたのは主催者であるフランス西部自動車クラブ(ACO)やそこに集まる地元の人々、そしてフランス、イギリスを初めとした欧州諸国の人々のレースを愛する気持ちの賜物でしょう。
 モナコグランプリなんかもそうですけど、そのようにレース自体の価値を上げることが彼ら欧米の人は長けている。逆に日本人はそういうことをしない、下手というかそこに価値を求めていないのでモータースポーツがそうならない。でも彼らはル・マンというものを続けることによる価値を十分理解した上で100年くらい続けている。それがヨーロッパの人々の強さですよね。そこに誇りを持って毎年やる、辛い時もあったけれどもやめないで頑張る、そうやって続けることがひいてはレース自体のブランドになっていく。それによって生かされている人が何人もいるわけじゃないですか。世界中のモータースポーツ好きの人が一回は出てみたいなと思わせる魅力を作ること。誰でも知っているからこそ「俺はル・マンに出たよ」ということが通用する。その価値観を持っているACOのおかげでル・マンの今があるんだと認識すべきです。そういうブランディングの上手さを日本人も見習わなければならない。お金がないから、視聴率がとれないから、だからやめる。それではモータースポーツのファンは増えない、裾野は広がらないんです。子供たちが憧れるものにはならないんですね。そういうものを作り出していかないとダメなんだっていう思いが僕の引退後の活動に繋がっているんです。

1995年ル・マン優勝の栄冠に輝いた。
チームドライバーはヤニック・ダルマスとJ.J.レート。

子供が憧れるレースなのか?

昔は「レーシングカーはリッター100馬力」と言われましたが、今は市販車でリッター100馬力を出すことは何も珍しくはありません。F1レベルではリッター300馬力にすらなります。現在のメーカーの技術をもってすればそのくらい難しいことではなくなっているんです。自動車に関する技術的な面を考えると、昔のように日進月歩で進化したようなことはもうほとんど見られなくて、新しいものが出て来にくい状況だと思います。我々が関わるモータースポーツも然りです。なくなる事はないと思うんですけど、大変換期にさしかかっていると思います。
 昨今ではエンジンをモーターに代えたフォーミュラEというカテゴリーに大手メーカーが参入を表明しています。内燃機関の技術競争はそこに存在しないけれどもEVの技術開発という面では意義はあるのかもしれません。ただ、それが主流になるとは僕は思えない。そこに注力するということがメーカーにとって本当にいいことなのかなとね。
 確かにモータースポーツは「メーカーの技術開発の場」という側面も持っています。一方で考えなければならないのは、それは大衆が好んで見るものになり得るのかということです。誰も見てくれない、誰も見たくないレースはプロスポーツとして成立しないですよね。それはアマチュアスポーツや趣味と一緒です。それを社会が支援してくれるだろうか、観客が高いチケット代を払って行きたくなるのだろうかということです。子供達がそれを見て、「うわーかっこいい、面白い!」って思えるかということです。
 そういった時代背景の中で今後どうするかというのが私達の課題かなと思いますね。

2017スーパーGTシリーズGT500クラスでは関谷氏が監督を務めるKeePer TOM’S LC500(平川 亮/ニック・キャシディ組)が見事シリーズチャンピオンを獲得した。

モータースポーツは人間のスポーツ

今モータースポーツに参入、運営するのには莫大なお金がかかります。それは技術の進化についていく事にお金がかかるようになってしまったからです。お金があるところが有利、お金が無いとできないのがモータースポーツになってしまった。もうメーカーやコンストラクター、マシンの競争になってしまった。「この車がいい、このエンジンがいい」とね。車が主役であってドライバーが主役ではない世界。だからスポーツとして見ることができない。スポーツじゃないから面白くない。考えてみてください、面白いのは昔も今もヒューマンドラマですよ。人間同士がしのぎを削って戦うからこそ面白い。そこには努力する姿があり、失敗するくやしさや勝つことの喜び、涙がある。そこに見る人は惹かれる、感動すると思うんです。機械同士の優劣じゃくてね。
 でもメーカーもメディアも気が付いていない。それを我々モータースポーツ業界がテレビ、メディアも含め発信してこなかった、だから今のモータースポーツの現状になってしまった。「うちの車がいいんですよ」ということを証明するがためのドライバーというかたち、それが今のモータースポーツ界を生んだという結果です。
 究極の姿として自動運転の車が競うレースがあったとしたら、それを観客が熱狂と感動をもって見るのかと、見ないでしょう。もしそこに向かおうとしているのだとしたら、それはあるべきモータースポーツの姿ではないんじゃないかと僕は思います。

インタープロトシリーズの白熱したバトル

僕はモータースポーツに生かされている

だから僕は『インタープロトシリーズ』(以下IPS)を立ち上げたんです。IPSは“Kuruma”というIPS専用のレーシングカーを使って「誰が一番速いんだ」を純粋に競うレースです。車両の争いよりもドライバーの争いに注目してもらえる、そしてレギュレーションにより過度な開発競争を抑えることでハードに掛かる費用を抑えているんです。
 また世界初の女性だけのプロレースシリーズ『競争女子選手権』(以下競女)も同様の思いから立ち上げました。陸上競技も柔道などの格闘技も男女で分かれてますよね、それと同じことなのにレースの世界では車がなんとかしてくれるものだと勘違いされています。レースは本当にフィジカルなスポーツなんです。レースの世界で女性のプロドライバーが活躍できたらもっと世の中がレースに注目してくれるんじゃないかと。それが日本のモータースポーツ発展のきっかけになればとも思います。
 僕結構死に損なってるんですよ(笑)レース中に何回か死んでもおかしくないような目に会ってるんだけど、こうして生きている。これはもう「レースの神様に生かされている」と思うんです。それなら「おまえが考えたことをやりなさい」ということなんだと思ってね。だから行動してるんだよね。モータースポーツをやることによって色々な人に会い、人に会うことによって自分の人生が変わったから。今僕が行動しているのはモータースポーツへの恩返しなんだと思います。

競争女子選手権の専用車両「VITA-01」

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