F1を鈴鹿に呼んだ男。

VOL.223

鈴木 啓道 SUZUKI Hiromichi

1943年12月4日生まれ 神奈川県逗子市出身
1967年から鈴鹿サーキットで働き始め、1983年にモータースポーツ課長、1985年に副支配人、1986年に取締役兼支配人に。1987年から30年続く(うち2007~2008年は開催していない)F1日本グランプリを鈴鹿に呼ぶため、バーニー・エクレストンと交渉をした中心人物のひとり。

途中2年の中断があったとはいえ
1987年から鈴鹿サーキットで
開催されてきたF1日本グランプリ
そのF1を鈴鹿に呼んだ男が
この鈴木啓道さんに他ならない
鈴鹿入社からF1開催交渉まで
今まで語られなかった話を明かす

よく「モータースポーツはいつから好きなのですか?」と聞かれますが、じつは鈴鹿サーキットに入社するまではぜんぜん違うことをやっていたんです。神奈川県逗子で生まれ育って、高校と大学は相撲部。高校のときは結構強くて国体や全国大会にも出たし、関東大会では準優勝もしました。だから、モータースポーツと出会って向き合ったのは鈴鹿に来てからの話なのです。
 当時は就職が厳しい環境で、僕は学校推薦でこの鈴鹿サーキットに入りました。業務内容は「遊園地、その他興行」と書いてあって、試験を受けに行った面接会場で初めてパンフレットを見て「え、鈴鹿サーキットもやっている会社なの!」と分かり驚いた(笑)。入社は1967年で、慶応大学からも3人ほど入ったと思います。僕が最初に配属になったのが多摩テックで、6月から働き始めて12月には鈴鹿への転勤が決まりました。多摩での業務はいろんなイベントの企画。鈴鹿に来てからもイベントの企画がメインで遊園地の宣伝、お祭りに加えてレースの企画も担当しました。
 それまで開催していた日本グランプリが富士スピードウェイに移り、当時の鈴鹿はビッグイベントを失った時期でもありました。だから鈴鹿はレースに頼らない力をつけなければいけないということで、遊園地やホテルの充実など、モータースポーツに頼らない部門にも力を入れ始めていました。そして、レースは地道に鈴鹿オリジナルを育てようということで、フォーミュラ路線を歩み始めます。あの頃はブラバムのシャシーでホンダのS8エンジンを載せて、模擬レースをゴールデンウイークなどに開催してお客さんに見せていました。それがひと段落したので、日本にフォーミュラを根づかせるため、国内の2輪、4輪レース用パーツの開発供給を行う部門として鈴鹿サーキット内に基地を置いていたRSCと共同所有していたそのブラバムのシャシー20台を、関西を中心にしたコンストラクター等に放出したのです。エンジンは自由という規則でフォーミュラレースをやるので参加してくださいという、フォーミュラを盛り上げるためのレースを敷いたのです。その後1973年から始まったFJ360、FJ1300という新カテゴリーにも力を入れて、富士はグラチャン、鈴鹿はフォーミュラという棲み分けができました。
 鈴鹿がフォーミュラ路線を歩んだのは、日本グランプリが富士に移ってしまい、メーカー系のレースに頼るわけにはいかないという判断からです。鈴鹿は第1回の日本グランプリ開催のときからサポートレースでフォーミュラをやってきました。そのフォーミュラのイコールコンディションレースをやるうえで、鈴鹿のレイアウトは非常に合うんです。日本の底辺レースを構築するにはフォーミュラを根づかせることが一番ではないかということで、地道にゼロからですが積み上げていったんです。それでFJ360、FL500などに参戦しようとコンストラクターが鈴鹿に集まってきて、いわゆる鈴鹿のレース村ができあがり、彼らと一緒に底辺レースを育ててきたんです。
 レースだけではなく遊園地のイベントで、三重カーニバルにも協力していました。ゴールデンウイークを含めた10日間ほどを使い、三重県と鈴鹿市主催で地元の婦人会、老人会、子ども会を含めて、みんなが参加する三重県の、鈴鹿のお祭りです。山車は12台ほどで、ホンダAKという軽トラックを貸し出して、それにいろんなディスプレイをしてもらい国道をパレードをしてサーキットまで来てもらっていました。そうやって地元密着の施設を目指したのは本田宗一郎さんやその下の上層部の人たちの思いがあったからです。レースだけではない、幅広いモーターリゼーションを追求していこう、ここはそのリゾートなんだ、と。この地元に理解される、地元密着型というのも非常に大事なことです。
 たとえば、鈴鹿の名物レースのひとつである8耐(鈴鹿8時間耐久レース)。ひとり歩きして、バイク乗りが自分たちのバイクで8耐に来るのがカルチャーのようになり、小説家の五木寛之さんが「若者の現在のお伊勢参り」と表現したことでまた広まり、15~16万人が観戦に来るレースイベントにまでなりました。だから、サーキット周辺は大渋滞。近所の反感を買ってご指導もされました。それを真摯に受け止め、観客の受け入れ体制を充実していくことで我々も成長していった。その積み重ねがあったからこそ、地元の理解を得られ、鈴鹿にモータースポーツが根づいていったのだと思います。当初は養鶏場から「卵を産まなくなる」、ご近所さんからは単純に「うるさい」という苦情がありましたが、今は地域住民の人たちと協力体制もできて鈴鹿自体が「モータースポーツの町」として定着しています。
 僕個人としては、レースにおいては「富士に追いつけ、追い越せ」という気持ちを持って取り組んでいました。やはり日本最初の本格的なモータースポーツサーキットとして誕生したのは鈴鹿だ、というプライドもありました。だから1976~1977年、富士にF1を先に開催されたときは悔しかったですよ。鈴鹿はフォーミュラ路線を敷いたわけですし、当時の国内最高峰であるF2の上はF1ですから、ずっとピラミッドを完成させて日本にモータースポーツを定着させたいという願いがありましたからね。1983年からはホンダがF1参戦も開始しており、鈴鹿でもやりたいという気持ちが強まっていました。ただ、開催実現に向けてひと筋縄ではいきませんでしたよ。

鈴鹿サーキットでのF1グランプリ開催実現は
簡単なことではなかった。そう話すのは
当時、副支配人だった鈴木啓道さんだ
バーニー・エクレストンとの交渉や
F1安全委員会の委員長とのやりあいなど
今まで語られなかった話を明かしてくれた

1976~1977年、F1を最初に開催したのは富士スピードウェイで、もちろん私も見にいきました。鈴鹿はフォーミュラ路線を敷いたわけですし、F1はF2の上、フォーミュラのトップカテゴリーであり、日本国内でフォーミュラのピラミッドを作り上げたいと考えていました。1983年からホンダがF1に参戦し始めましたが、「鈴鹿サーキットでもF1を」という気運は、やはりありました。
 ただ、富士スピードウェイで開催された1977年のF1で事故が起きました。1コーナーでコースアウトしたマシンがコース外の人を巻き込む、とても大きな事故……。

鈴鹿はデンジャラス!

富士スピードウェイの事故の翌年、じつはF1の交渉に行っているんです。あのときプローモーターはTBSとスポーツニッポン、オーガナイザーが富士スピードウェイで、事故後もTBSとしては続けたい、鈴鹿でできないかという話があったんです。あの事故が原因で今後の日本にF1を誘致できなくなるのではという危機感が強まっていて、その受け皿が必要な時期でした。だから、TBSの人と私と上司でロンドンに行き、F1運営組織のトップ、バーニー・エクレストンに会ったのです。当時、バーニーは日本に対して不信感を持っていて、私の名刺を受け取ろうともしなかったです。そこにはFIAの人もいて、鈴鹿サーキットのコース図を持っていったのですが、デグナーカーブと130Rが交わる立体交差を見るなり、赤鉛筆でバーニーは「デンジャラス!」と言って印を付けたんです。これは難航するなと思いましたね。
 じつはバーニーに会う前から、FIAの当時の安全委員会の委員長が、日本のサーキットの安全を確認するため査察で来ていました。本当に無茶な要求ばかりしてきたので、委員長とはすごくもめていました。F1をやるわけではないのに、要求が高すぎるとこちらは主張し続けたんです。もう、委員長の目が怒りで震えるぐらい、やりあった(苦笑)。でも、先のようにバーニーに会ってF1を鈴鹿サーキットで開催することを目指し始めたので、委員長の指摘した部分をこう改修しますと、すべて図面に落として持って行ったんです。そしたら、あれだけ反抗していたのに、舌の根が乾かないうちにやりますってどういうことだと。委員長は「君たちは信用できない」と言い出して、また言い合いになりました。最終的には、周りにいた人たちが「日本のサラリーマン、企業戦士はそういうものだ」とフォローしてくれ、委員長の家に招待され一緒に過ごす時間のなかで、ようやく理解を得られて話が前に進んでいきました。
 そうしたなか、1983年にホンダがF1に参戦をスタートして、早々に勝ち出します。ヨーロッパ側からも、鈴鹿サーキットでF1をやらないかとJAF経由で誘いがきたのもあり、鈴鹿サーキットとしては環境が整ってきたという判断でF1のカレンダー申請をする運びになりました。ただ、その後バーニーに会ったのですが、まだまだクリアしなければいけないことは山積みでした……。「F1はコマーシャルベースが一番。それが決まって初めてカレンダー申請ができる」と言うんです。コマーシャルベースのなかにも、いろんな項目があり、それを全部クリアして初めて合意に至り、カレンダー申請はその次の段階だ、と。それが当時のF1のシステムだと言うわけです。
 1984~1985年とそういった話し合いを続け、結果的に1985年の開催は取り下げました。でも、鈴鹿サーキット側の歩み寄りもあったし、当時の日本は経済力もあったので、バーニーとしても日本でやりたい気持ちはありました。1986年に入ってからからも交渉を続け、同年12月ついに合意に至りました。初めて鈴鹿サーキットのコース図を見せたとき、バーニーは立体交差を「デンジャラス!」と言いましたが、このときは同じ立体交差のことを「ファンタスティック!」と言うほど、鈴鹿サーキットでの開催実現を喜んでくれました。

ホンダを愛した、あのアイルトン・セナとも仲が良かった鈴木氏。写真は1990年、セナが鈴鹿サーキットでF1世界チャンピオンを決めたときのもの。

佐藤琢磨の快挙

鈴鹿サーキットでのF1開催の継続は、日本のモータースポーツが発展していくうえでの核になっていきました。もちろん地元の方々のご協力、ご支援もありました。サーキット周辺の交通問題などは、とくに。鈴鹿市周辺の信頼を得るため毎年毎年積み上げていき、今では鈴鹿はモータースポーツの町として知られるようになるまでには時間がかかりました。どれだけ良いイベントでも、地元の方々の理解を得られなければ1回でダメになります。鈴鹿サーキットとして、やり始めたのだから、ずっと継続していくんだという意気込みを最初から持ち、10年先、15年先を見ていたからこそ続けられたのだと思います。たとえ、ホンダがF1から撤退してもやるんだ、と。2007~2008年の2年間は富士スピードウェイ開催になり抜けてしまいましたが、すぐに鈴鹿サーキットに戻ってきて、今年で30年の歴史になりますね。  そんな歴史のなかで最もうれしかったことは、つい最近の佐藤琢磨選手の日本人初のインディ500優勝のニュースです。琢磨選手は鈴鹿サーキットレーシングスクール・フォーミュラ(SRS-F)の2期生。鈴鹿サーキットでは1993年から2輪のレーシングスクール(J)を、1994年からレーシングカートのスクールを、そして1995年からフォーミュラのスクールをスタートさせています。SRSはJ、Fのトップ選手発掘と英才教育を目指し、優秀者には奨学制度を設けています。無限の本田博俊氏との熱いワイガヤミーティングが誕生のキッカケで、ミーティングはF1開催時の夜! 僕がスクールに口を出すことはなく、表彰式やスクール中の模様をのぞくぐらいの接点ですが、自分たちが作り上げたもののひとつのなかから成功例が出たことは、素直にうれしかったですね。
 琢磨選手にとって、スクールがなければ人生が変わっていたかもしれません。だからこそ、ずっと携わってきた人はみんな喜んでいるし、何においても続けることの重要性が証明されたと言えます。それが鈴鹿サーキットの、ホンダの良さなんだと私自身も思っています。

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