世界一のイベントに。

VOL.217

榎本 文昭 ENOMOTO Fumiaki

千葉県出身。当初は事務局内のスタッフを務め、1996年から事務局長に就任して東京オートサロンを牽引してきた。2015年からは顧問となり、2017年1月に開催された第35回目を含め、35回すべてに携わってきた。

2017年1月の開催で35回目を迎える東京オートサロン
当初はチューニングカー専門誌が中心の小規模なものだったが
いまや日本を代表する大規模イベントに成長した
立ち上げ時の苦労からチューニング業界の変遷などを
ずっと現場に立ってきた現顧問の榎本文昭氏に振り返ってもらう

毎年1月、「チューニングカーの祭典」とも呼ばれている東京オートサロンの第1回目は1983年に開催されました。モータースポーツ専門誌「オートスポーツ」の別冊として創刊した「Option」を立ち上げた稲田大二郎氏を発起人として、チューニングカーに市民権を獲得しようとスタートしたのですが、最初は「東京エキサイティングカーショー」という名前のイベントで、規模もが小さいものでした。  Optionは日本初のチューニングカー専門誌で、当時、谷田部のテストコースを使って最高速やゼロヨンの計測をしていきながら、エンジンのパワーアップがコンテンツの核になっていて、それにともなってブレーキや足回り、車体の補強をやっていくというようなことを誌面でお伝えしていく雑誌でした。そんな中、谷田部のテストコースで走行を重ねているとどんどん記録が上がり、同時に雑誌の部数もかなり良い調子で上がっていきました。ただ、当時は映像の媒体が何もありませんでした。そこで話し合った結果生まれたのが、実際に雑誌で紹介した車を一堂に集めてライブで見せられないか、というアイデアでした。それがショーの原点です。僕は三栄書房でエンケイの担当で、当時エンケイの部長だった鈴木順一氏(現エンケイ代表取締役)にも、こんなショーを開催するので協力してくださいとうかがったのを覚えています。

大規模イベントへ成長

正直な話をすると、エキサイティングカーショーの1回目、2回目は、主催者としては実際には赤字でした。外部に依頼せずに、スタッフはうちの社員が全部やっていましたからね。俗に言う、手弁当ですね。イベントが始まる前から、全スタッフをホテルに住まわせました。一度帰ると翌朝に来られない可能性があるので。だから僕の大事な仕事のひとつだったのが、朝5時に各部屋にモーニングコールして、起きたのを確認していくこと。そこで「6時半に集合だぞ」と念を押す。そういうところからこのショーは始まっているんです。ようやく3年目ぐらいから参入メーカーが増え、来場者も増えていったので採算が取れるようになってきた感じです。
 当時の会場は、晴海にあった東京国際見本市会場というところで、東館という1館だけを使いました。通称、ドーム館というドーム状の建物です。2回目は東館と南館を使い、その後に新館も使ってとどんどんと規模が大きくなっていきました。隔年開催である東京モーターショーと違い毎年の開催でしたので、チューニングカー目当てでない自動車マニアにも注目されることになり、10回目の開催のときには東京国際見本市会場の全域で開催されるまでに成長できました。
 6年経ったとき、東京エキサイティングカーショーから「東京オートサロン」とイベント名称を変えました。パリサロンという車のショーがあり、あんなふうにメジャーイベントになりたいという思いを込めての名称変更でした。ただ、今ほどに先のことが見えていたかというとそうではなく、国内のマーケット自体が大きくなり始めていたので、それをもっと伸ばしていくことがこのイベントの役割だと考えていました。
 1997年と1998年は東京ビッグサイトに会場を移しています。晴海の会場がなくなってしまったのです。東京ビッグサイトでの開催で問題だったのは駐車場のキャパシティです。当時は3000台弱しか収容できませんでした。だから1997年、1998年ともに駐車場がパンクしてしまい、首都高速湾岸線の本線まで渋滞することになり、警察から指導いただくこともありました(苦笑)。そういった理由で東京ビッグサイトでの開催は2年間のみで、1999年からは今の幕張メッセに移りました。幕張メッセは1万5000台ほど収容できる駐車場がありました。その駐車場が確保できたことで、車で来られるお客さんが増え、来場者数の増加にもつながりました。

幕張メッセに会場を移してからの2003年、2004年の模様。各メーカーはもちろん、来場者の熱気が伝わってくる。

車業界への影響力

チューニング業界の最初の主流は、もちろんスポーツカーでした。それが4年目あたりからビッグセダンの人気に火がつき、ミニバン系にまで拡大していき、車種はどんどん多種に増えていきましたね。最初は先ほど言ったようにエンジンのチューニングがメインで、車種はスポーツカー系。そこからどんどん車種が変わっていき、なおかつ足回りの細かいチューニングからエアロパーツというドレスアップ系のジャンルにまで開拓されていったわけです。
 たしか2年目だったと思いますが、ある出展者がリヤスポイラーを付けた車両を出してきたのですが、その翌年に日産自動車が純正でリヤスポイラーを付けてきました。メーカーの方々もショーに来られて、そこに何かヒントはないかと探しているんです。HKSのターボもそうでした。そういう意味で、オートサロンは単なるチューニングカーのイベントでは終わらず、自動車業界にも流行りを作ったり、影響を与えている存在と言っても間違いじゃないと思います。

改造車と聞くと悪い印象が先行してしまうが
合法か違法かで、大きな違いがある
東京オートサロンは合法内のカスタムカーショー
正当な車のアフターパーツの発展を目指すという
主催者側の目的、願いも込められている
今回はカスタムカーの社会的地位向上に向けて
業界一丸となった動きや東京オートサロンが
積み上げてきたものを榎本文昭氏に語ってもらった

東京オートサロンが様変わりしたのは、東京ビッグサイトに会場を移した1997年あたりからです。同じ屋内に一堂に出展者ブースが並ぶようになったので、どの出展者も内装等をグレードアップさせてきたのです。その1997年には、トヨタ自動車という名前で初めて自動車メーカーの出展もありました。それ以前からすべての自動車メーカーに出展のご案内はしてきていましたが、どうしても「改造車のイベント」というマイナスな印象で、メーカー側としても出展するイベントではないという見解だったようです。ただ、この頃から自動車メーカーにも注目、期待していただけるイベントに成長し、翌年からは国内のほぼすべての自動車メーカーの出展に拡大しました。
 トヨタ自動車の一歩はもちろん、各自動車メーカーの追随には、改造車に関する規制緩和も大きな影響を与えていました。アメリカとの関係で、日本の改造車に関して規制緩和が順次行われていくという、我々にとっては追い風でもありました。自動車メーカーとしても今後は車業界がカスタムの世界に進んでいくというのが見て取れ、トヨタ自動車の出展という衝撃があり、規制緩和という風に乗って次々に、という流れでした。マフラーに関しても、以前は騒音や排気ガス、熱害等の基準を満たしていない理由で交換自体が違法とされていましたが、東京オートサロンがスタートして4~5年ほどでJASMA(日本自動車スポーツマフラー協会)が発足準備を始め、1990年からマフラー認定業務をスタートしました。アルミホイールも1970年代後半頃から制定されたVIA、JWLによる安全性の担保、認知化により、装着したままでも車検を通せるようになったのです。それ以前は、アルミホイールに交換すると車検に通らなかったので、事前に純正ホイールに戻してから車検場に持って行くのが現状でした。我々が、といよりも、アルミホイールメーカーや他のアフターパーツメーカー、自動車メーカーを含めた業界が一丸となって動いてきたことで、カスタムカーの社会的な地位が徐々に向上していったのです。

ファミリー層増加の理由

今年1月の開催で35回目を迎えます。その中で、リーマンショックは東京オートサロンにおいても大きな事件でした。2010年開催に向けて出展の申し込みをされていたメーカーから、業績悪化ということでかなりキャンセルがあったんです。図面を描き終わった状況でメーカーさんが抜けていく形になり、レイアウトをガラッと変えなければいけないほど四苦八苦しました。とくに輸入関係の打撃は大きく、多くのキャンセルがあり、我々としてもそのときは「仕方ないです」と受け入れるしかなかった。会場規模は変わらないけれど、通路を広くしてレイアウトし直す対処で乗り切り、まあ来場者に対して見やすくレイアウトさせていただいたということで我々も納得するしかありませんでしたね。
 もうひとつ、事件というか……2011年頃から、初日の出暴走の違法改造車が東京オートサロンの日曜日の駐車場に集まり始めてしまったんですね。夜中から爆音を鳴らして来るので、地域の方々にも迷惑をかけてしまい、幕張メッセもあんな客層が集まるイベントなら場所は貸せません、と東京オートサロン開催自体が危うくなる事態もありました。我々主催者側としても、それは本来の目的ではありません。あくまで合法内。違法改造の推進など望んでおらず、正当な車のアフターパーツの発展を目指しているのです。だから即日、千葉県警にそういった方々が来ないようにご協力いただけないかと申し入れをしました。今の東京オートサロンは日本のモータリゼーションに多く寄与しており、ましてやこのジャンルで相当数の人が職を得て生活しています。どうしても東京オートサロンを続けなければいけないのです、というご説明させていただいたところご理解をいただけました。申し入れしてから毎年、高速道路上の電光掲示板でオートサロン開催時期は取り締まりを行いますと流してもらっています。警察でいうと関東管区1都6県から全部にご協力いただいて、開催時期に暴走族の車両が高速道路に乗らないように、東京オートサロンの会場に来ないように検問も実施していただいています。
 その影響で客層に変化がありました。ヤンチャな方々が集まらなくなったことで、ファミリー層が急激に増えたんです。女の子同士というのも今では普通の光景になりました。

トヨタ自動車の出展を機に、近年は自動車メーカーも出展。オートサロンに合わせて新車発表を行ったり、各種パーツの展示販売なども行われる。またレーシングマシンの展示・デモランだけでなく、レースの参戦体制発表を行うメーカーも多く、単なる車好きだけでなくコアなレースファンも集うイベントに。

皆がアツい!

最後にひとつお話しておきたいのは、最近の若者の車離れに関してです。どの自動車メーカーのトップの方々も結構そうおっしゃられていたんですが、東京オートサロンの会場に来ると、本当にたくさんの若者たちが目を輝かせており、「車離れと社内では聞いているけれど、まったく違うじゃないか」と考えを改めていただいています。実際に、会場に来ると車好きの人も含めて、来られたお客様全員、すごく活力があるんです。あのパワーを感じていただければ、まだまだ自動車業界は衰退しないと思えますし、それを感じた自動車メーカーのトップの方々もアツくなって帰られていきます。世の中にはいろんなイベントありますが、出展側も来場者もあんなにアツいイベントって他にはないと思います。
 今の若者は車に興味がない、携帯にお金をかけて車の所持費用がないなど、いろんなことを言う人がいますが、そんなことはないと思います。車好きも多いです。そして、車が好きな人は一生好きだと僕は思うんです。最初に中古車を買ってその車に飽きてしまっても、ドレスアップすることで再度その車を大事に思えるようになります。結婚したらミニバンにも乗るし、子供たちが成人していったらもともとの車好きはスポーツカーに戻りたいなと思うし、ある程度収入が増えたら外車という選択肢もあります。そういったトータルな車の楽しさや魅力、自分に合うライフスタイルを東京オートサロンは提案しています。
 東京オートサロンでは、軽自動車から何億円単位の車まで展示されています。それは我々がやらせていただいたことが皆さんに認められていることなのかもしれませんね。

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