F1まっしぐら

VOL.215

松下 信治 MATSUSHITA Nobuharu

1993年10月13日生まれ 埼玉県出身
4歳でカートを始め、ジュニアカテゴリーで輝かしい結果を残し、2009年から参戦した全日本カート選手権でいきなりデビューウィンを飾る。2012年に4輪レースデビューを果たしてFCJで王座獲得。2014年には2年目の全日本F3選手権での王座も勝ち取り、2015年から単身渡欧してF1直下のカテゴリーであるGP2に参戦。チームは名門ARTグランプリに所属し、今年はモナコでGP2での2勝目を挙げる大活躍。2月にはマクラーレン・ホンダの開発ドライバーにも抜擢され、いま日本人で最もF1ドライバーに近い若手として期待と注目を集めている。
http://www.nobuharu.com/

F1直下カテゴリーであるGP2シリーズ
今年、その第2戦モナコの第2レース後の表彰式で
君が代が流れた。モナコで日本人初優勝──
歴史的な快挙を成し遂げた松下信治は
物心ついたときから、ただひたすらF1に憧れ
その夢の舞台に上がる道を模索してきた
そんな“まっしぐら”な人生を振り返ってもらう

ディズニーランドに行ったら普通の子はアトラクションで遊ぶと思うんですけど、僕は100円を入れたら動く車のゲームをずっとやっているような子供で、「そんなに好きなのなら」と4歳のときに、父が鈴鹿サーキットで開催されるF1鈴鹿グランプリに連れて行ってくれたんです。そのときは確か、ミカ・ハッキネンとミハエル・シューマッハーがチャンピオン争いをしていたときで、ものすごく感動したのを覚えています。
 出身が埼玉県なのですが、その後すぐにクイック羽生というカートコースに連れて行ってもらい、レンタルカートに乗せてもらいました。そこから僕のレース人生が始まったわけです。親にやらされているとかではなく、純粋に自分がやりたいことで、楽しくて何度も乗りました。そのうち自分のカートを買ってもらい、幼稚園に行かずほとんど毎日のようにカートに乗りに行っていましたね。当時から父はレース好きというわけではなく、車にもそれほど興味がない人だったことを考えると、そうやって僕がやりたいなと思ったことをやらせてもらったのは本当にありがたいことだったなと感謝しています。

あのアイルトン・セナと同じ4歳からカートを始めた松下。2005年からは全日本ジュニア選手権に挑戦し、その後数々の優勝とタイトルを積み上げ公式記録に名前を残していった。

F1へのプロセス

カートを始めた頃から「F1ドライバーになりたい」と口では言っていましたが、実際にそれに対してのプロセスを踏むための道づくりを考え出したのは中学1年生ぐらいからでした。それまではただカートレースをやっているだけ、楽しいから乗っているだけ。でも、現実的に物事を考えられるようになってきてから、本当にF1ドライバーになりたい、どうすればなれるんだろうと考え始め、ひとつひとつのレースに対しても本気で臨むようになっていきました。
 カートレースでは最初はコマー50というクラスから始めて、コマー60、J2、KT、そしてARTAチャレンジを経て全日本カート選手権という国内最高峰の舞台にまで登りつめました。その全日本カート選手権に参戦していたのは高校1~2年生のときで、本山哲さんが率いるソディ・レーシング・ジャパンというチームに所属して、メーカーのプライドを懸けた勝負の世界を勉強させてもらいました。そして、明確とは言えないまでも「こんなステップアップでF1を目指そう」という自分なりの階段を設定し、それを登りつめるための努力を続けていた日々ですね。あの頃の自分は本当にF1のことばかり考えていて、フォーミュラカーのピラミッドの頂点であるF1しか見ていませんでした。

ホンダを選んだ父

当時はトヨタとホンダがメーカーとしてF1に参戦していて、日本人ドライバーにもチャンスがあるだろうなと誰もが思っていたんですけど、その後にトヨタもホンダも撤退してしまい、日本人がF1への道を思い描くのが困難な時代になりました。そんなとき、父が僕に道を示してくれたのです。
 全日本2年目のときでした。当時からトヨタ、ホンダ、日産という3メーカーが国内のモータースポーツを牽引していて、プロドライバーの道ならどのメーカーにも可能性はありました。そんななか、父はホンダを選び、そのホンダが若手ドライバーを育てているレーシングスクール、SRS-Fに入校することを勧めてくれたのです。後になって聞いたら、F1を目指すうえでホンダに一番可能性を感じたそうです。他メーカーからのお誘いもありましたが、僕は父を信じて、その道を進む決心をしました。スクールに通い始めたのは2011年のことです。
 そのSRS-Fを首席で卒業することができて、2012年は若手育成カテゴリーであるFCJに参戦しました。スクールで学んだこと、経験したことをしっかりと発揮できたのもあり、僕は最初からトップ争いをできて、最終的に5勝を挙げてルーキーイヤーでチャンピオンを獲ることもできました。
 ここまですべて計画どおり、と言えました。SRS-Fでスカラシップを取って、FCJ、全日本F3選手権でチャンピオンを獲って海外に行くという道を考えていたんです。ただ、全日本F3選手権はチャンピオンを獲るまでに2年かかってしまいましたけど。ただ、たくさん失敗も負けもあり、とても濃い2年間でした。
 F3では初めて4輪のセットアップというものを学び、車というものをすごく勉強させてもらえました。FCJはマシンのセットアップ変更が規則で禁止されていたり、誰もが同じ車に乗る完全ワンメイクレース。一方、F3ではチームに携わる人の数が増え、エンジンサプライヤーも増え、マシンセットアップも各チームが何年も積み上げてきた違いがあり、同じようなマシンを走らせているようでまったく違う世界だったんです。ドライバー自身が大きく成長して、対応して、チーム力を発揮できるパッケージを作らなければ結果が出ない世界なのです。1年目の悔しさ、そこから学んだことを活かすことができ、2年目に6勝を挙げてチャンピオンを獲ることができました。あのときの経験は、その後の海外挑戦での糧になっています。

幼少期からずっと憧れ、追いかけてきたF1
今年2月、マクラーレンの開発ドライバーに抜擢され
ついに手が届くところまで到達した松下信治
昨年からはF1直下カテゴリーのGP2に参戦し
優勝も果たして欧州での速さを証明してきた
来年に向けた次のステップがとても気になるが
彼が一貫してきたレースへの信念にも注目したい

レースを始めて、僕は常にF1だけを見てきました。国内の最高峰レースであるスーパーGT、スーパーフォーミュラもハイレベルなカテゴリーですが、僕は最初からF1へ行くことを最優先にやってきました。だから、F3でチャンピオンを獲って、次はこのカテゴリーへ進んで……と思い描いてきたわけではなく、出たカテゴリーで勝つことに専念してきました。そうすると次の道が必ず出てきて、どんどん選択肢が増えてくる。そう信じて突き進んでここまできました。
 自分はタイミングも良かったと思います。ホンダがまたF1に参戦するという年にFCJでチャンピオンを獲ってF3に上がれて、昨年からはホンダのサポートでGP2にも出られることが決まってと、タイミングが合致したのは大きいです。そのときに僕がたまたまチャンピオンだったからなのですが、そうじゃなかったらGP2にも進めなかったと思います。だから、常に置かれている立場は同じで、そこで頑張るだけだと思っています。

優勝がすべて

昨年から、GP2参戦のためパリでひとり暮らしを始めました。イギリスに語学勉強に行ったこともあったので、英語を多少は話すことができて、生きていける程度の英会話はできました。そして、毎日のように向こうのチームのファクトリーに行ってメカニックやスタッフと話し、レース会場では一緒に仕事を重ねていくうちにどんどんと話せるようになり、言葉においては大きな壁というのはなかったですね。あと、ひとり暮らしをするのも初めてだったのですが、それは誰でも経験するものですし、日本だろうがパリだろうが場所は関係ないのかなと思います。最初は文化や習慣などの違いがあり戸惑うこともありましたが、慣れれば何でもなかったですね。
 レースの方では、もちろん苦しい時期はありました。昨年はチームメイトにストフェル・ヴァンドーン選手がいて、すぐ近くに速くて比較される対象がいたので悔しい思いをすることもありました。彼はすごくタイヤの使い方がうまく、自分がデグラデーションでタイムが落ちているときに、うまくタイヤを持たせてタイムを落とさなかったり、そういう差を見せつけられたときは、もっと努力しないといけないなと思いましたね。今年はエンジントラブルもあったし、単純にドライバー側のミス、チーム側のミスもあり、タラレバの多い1年だった気がします。バクー戦ではセーフティカー後のリスタート時のドライビングが危険行為とみなされて、1戦出場停止のペナルティを受けましたが、それはぜんぜん気にしていません。もちろん、あの時の判断は間違いでしたが、またやらなければいいだけの話なので。あのときは判断をする余裕が自分にはなかった。いまはそれを悟って、少し余裕を持ってレースをできているので、あのペナルティ自体が自分のためになったと思います。
 今年はモナコのレース2で優勝もできました。内容的にすごく良いレースだったので嬉しいんですけど、昨年のハンガリーでの初優勝のほうが新鮮さが自分の中では強かったですね。モナコは車も良くてポールポジション、スタートさえ決めれば自分がレースを制することができることは分かっていたので、よくできたなとも思いますが、そのスタートをうまく決められただけ。モナコでの日本人の優勝は今までにないですし、モナコ自体がレースでは特別な場所であり名誉あることだと思います。ただ、どこであっても、予選であっても、レース1であっても勝てるポテンシャルがあるし、勝つために僕はやっているので、そこで満足はしていません。まだ完全にコントロールできるドライビングの方で合わせきれていないところもありますが、どんどん自分が強くなっているなという実感があるんです。このままいけば常に勝てるドライバーになれると思っています。口だけじゃなく、今後はそれをもっと結果で示したいですね。
 参戦する上で僕がとにかくこだわって、全力を注いでいるのが優勝すること。ドライバーにとって、優勝はすべてが報われる瞬間なのです。一番特別なことであり、そのレースで最も頑張ったドライバーしか優勝はつかめない、そういうふうに思っています。

狭くバンピーな市街地コースで知られるモナコでの優勝は日本人初。レース1で8位に入賞した松下は、リバースグリッドによってレース2はポールポジションに。そこからスタートを決めてトップを守りきった。

曲がらない信念

今年2月、マクラーレンの開発ドライバーに抜擢されたときは、正直嬉しかったですね。F1としての仕事を初めて任され、マクラーレンというF1でも1番、2番を争うチームの一員になれたわけですから。自分の将来を意味づける上でも、大きなステップだと思いました。
 開発ドライバーの仕事内容ですが、基本的には車両関係の開発すべてに携わります。たとえば新しいフロントウイング、サスペンションといったものを導入する際に、その効果を試して評価するなど。今のF1ではシーズン中のテスト規制が厳しく、開発ドライバーが実車に乗ることはできないので、シュミレーターでのテストが主になりますが、そこでチームとの信頼関係を築けていければ実車に乗ったときにもプラスになると思って取り組んでいます。あとは古いF1マシンのデモ走行を担当することもありますね。
 やっとF1の世界が見えるところ、手が届くところまできたなという実感はありますが、これまでと同じように満足はしていません。まだ開発ドライバーであって、先にはステップがあります。次はレギュラードライバーのシート、その次はF1での結果、チャンピオン……。同じように与えられた環境の中で、とにかく全力で最善の結果をつかむことに集中していくことが大事です。これまでそうやってきた結果が今。だからそこは変えずに今後もやっていきたいと思います。

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