アメリカの奥深さ

VOL.213

ロジャー安川 ROGER Yasukawa

1977年10月10日生まれ
アメリカで生まれ、小学校の6年間を日本で過ごす。1990年からロサンゼルスでカートレースを始め、中学時代にアメリカ代表としてカートジュニアワールドカップ参戦。1997年にイギリスのフォーミュラ・ボグソール・ジュニアで4輪レースデビュー。1998年にイギリスのフォーミュラ・パーマー・アウディに参戦、1999年のバーバー・ダッジ・プロシリーズではルーキー・オブ・ザ・イヤー賞を獲得し、フォーミュラ・アトランティック・シリーズではミルウォーキー戦で参戦2戦目に優勝。2003年からアメリカ最高峰のインディカーシリーズに参戦し、以後アメリカを拠点にレース活動を続けてきた。父はF1チームであるレイトンハウス、マクラーレンで要職を歴任した安川実。

F1名門チームであるレイトンハウスやマクラーレンで
要職を務めてきた安川実を父に持つロジャー・安川が
レースの世界に続く扉をノックするのは必然と言えた
最終的にアメリカでそのキャリアを積み上げていったが
当初は欧州を拠点にF1を夢見る少年のひとりだった
今回はアメリカでレースを始めるまでの日々を振り返る

生まれたのはアメリカのロサンゼルスで、当時は家族そろってアメリカに住んでいました。父は昔から車が好きで、アメリカから自動車や関連商品を日本へ輸出するという仕事の関係で、アメリカに来ているときに僕が生まれたんです。だから、6歳まではアメリカで育ちました。それで、ちょうど6歳のときに家族で一度日本に戻ることになり、日本の小学校に6年間通うことになりました。
 父の仕事の影響もあり、自然と僕も車やレースに興味を持ち、日本に戻ってからレーシングカートを始めました。僕が始めた頃はモータースポーツが盛んになり始めた時期だったのですが、まだジュニアカートレースというカテゴリーもなく、国内でのレース参加は12歳まで待たないといけませんでした。基本的には練習走行のみの参加でタイムアタックしかできず、勝った負けたという勝負もできませんでした。
 たしか小学校5年生か、6年生のときに、所属していたカートチームを頼って、1ヶ月だけアメリカにホームステイをさせてもらう機会がありました。そこで、ジュニアカートレースが盛んで同世代の子たちと勝負できる環境があると知り、アメリカでカートをやりたいという気持ちが芽生え始めました。再びアメリカに行き、レースをやりたいと父やカートチームに相談したところ、中学生に上がるタイミングでまた単身で行かせてもらえることになったんです。だから、中学時代はロサンゼルスにあったカートショップのオーナー宅でホームステイし、カートショップで手伝いをしながらカートレースをやる環境の中で育ちました。
 ところが、現地の中学校卒業前に衝撃を受けたんです。ベルギーで開催されたカートジュニアワールドカップにアメリカ代表選手として参加するチャンスを得て遠征したところ、アメリカ代表選手としては初めて決勝レースには出走できたんですが、当時のアメリカ国内のカートレースには大きな差があると痛感したんです。世界のトップドライバーを目指すなら、ヨーロッパで戦わないといけない、そう強く感じました。そういう経緯で今度はイタリアに渡りました。本格的にカートレースをしたかったんです。当時はずっと日本のカートチームであるベアレーシングで走っていたんですが、そのチームのオーナーさんにもお願いして、イタリアに渡る助け舟を出してもらいました。

日本でレーシングカートを始めた頃。まだジュニアカートレースというカテゴリーも無かった。

父の仕事の関係で幼少期から車やレースは身近な存在だった。

F1を夢見て

イタリアに渡って数ヶ月。当初は父のレイトンハウス時代からの友人でフェラーリF1ドライバーだったイーヴァン・カぺリ氏宅にホームステイし、トレーニングも含めイタリアでの生活に馴染んでいき、生活にも慣れてきたところで、一人暮らしを始めました。当時、16歳でした。ミラノのアメリカンスクールに通い、通学しながら週末はカートコースで走ったり、カートチームに顔を出したり、イタリア国内選手権を中心に参戦する日々を送っていました。
 そのころから強くF1というものを意識するようになりました。きっかけは1987年、小学校4年生のときにF1ハンガリーGPをひとりで観戦に行ったことでした。父は1991年からマクラーレンにいるんですけど、その前はレイトンハウスと、ずっとF1チームで仕事をしていて、僕自身もF1を身近に感じていました。そんなときに観戦したF1は、本当に刺激的でしたね。アイルトン・セナも、アラン・プロストも、リカルド・パトレーゼもいた時代。レーシングドライバーになりたい、F1ドライバーになりたいと初めて意識した瞬間でした。

バーバー・ダッジ時代の2001年にバンクーバーの市街地コースで優勝した時の写真。左側に写っているのは当初からのライバルで2014年インディ500Winnerのライアン・ハンター・レイ。

イギリスの苦悩

高校生活が終わり、フォーミュラカーに乗れる歳になったときいろんな方々のアドバイスを受け、登竜門としてイギリスでチャレンジする選択肢がレベル的にもいいのではないかというので、イギリス行きを決めました。最初に乗ったフォーミュラカーは、フォーミュラボグソールジュニアでした。
 ここで、すごく悩みましたね。カートからフォーミュラカーに移行する際、普通の自動車を一度も運転をした経験が無いまま、初めて自動車を運転したのがフォーミュラカーということで、最初のうちはカートと車を操ることの違いに苦戦しました。もともとアメリカ、しかもカリフォルニアでの生活が長く、イギリスの雰囲気や天気だったり、食べ物だったりが、なんか肌に合わないなと感じていたりもしました。さまざまな要因が重なって、自分がいま目指しているものは正しいのかなと悩んだりもしていた時期で、レースの結果も当然出ていなくて気持ちはずっと沈んでいました。
 そのシーズンオフ、当時のレース活動を支援くださっていたチーム郷で知られる郷(和道)さんからのアドバイスで「アメリカに行って、スキップバーバーのレースにチャレンジすればスカラシップシステムもあるので、そこで活躍すれば違う道も開けるよ」とアドバイスをもらったんです。その言葉をきっかけに僕は再びアメリカに戻ることを決めました。

イタリア、イギリスでの武者修行を経て
活動拠点をアメリカへと戻したロジャー・安川は
人生の分岐点とも言える勝負どころで結果を出し
アメリカ最高峰のIRLにまで登りつめていった
階段を駆け上がっていくその日々を振り返りつつ
安川自身がいまだ夢中になっている
アメリカレースの魅力を今回は語ってもらった

イギリスからアメリカに戻って、フォーミュラ・ダッジのシリーズに参戦したのが1998年。そこでの最初のステップはスクールレースで、僕はほとんどのレースで優勝し、シーズン半ばでシリーズチャンピオンを獲得できました。アメリカの空気というか雰囲気が自分に一番合っている土地だなと実感でき、スクールレースでスカラシップを勝ち獲れたことで自信も取り戻せました。その後、全米で誰がスカラシップを獲るかというシュートアウトも行われたのですが、それらはすべて冬の間にシリーズが終わってしまいます。だから、夏の間は再びイギリスに戻り、ちょうど1998年からシリーズが始まったフォーミュラ・パーマー・アウディに参戦して、その翌年の1999年から完全に軸足をアメリカに置きました。バーバー・ダッジ・プロシリーズに参戦して、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得することができました。

人生の分岐点

当時のアメリカにはふたつのトップカテゴリーがありました。ひとつはチャンプカーともよばれていたCART、もうひとつはIRL。オーバルをメインとした人気のNASCARもあり、それらトップカテゴリーを目指してアメリカではいろんな道をたどってステップアップしていく方法があります。僕自身はゴーカートから始めて、バーバー・ダッジのフォーミュラカーシリーズでチャンピオンを獲り、次にバーバー・ダッジプロシリーズに進んで、フォーミュラ・アトランティックとインディ・ライツを経てチャンプカーシリーズというのを思い描いていました。2002年に僕がフォーミュラ・アトランティックにステップアップしたとき、インディ・ライツが消滅してしまい、フォーミュラアトランティックからチャンプカーかIRLのどちらに進むかを選ぶ形となりました。同時期、すべてのエンジンメーカーがIRLに移行するというアナウンスがあり、翌年からアメリカにおけるフォミュラレースの最高峰はIRLということが分かっていました。
 それを発表した週末がインディアナポリス。その翌週に開催される「ミルウォーキーのオーバルレースで勝ったら、自分もIRLにステップアップするチャンスがあるんじゃないか?」と考えていました。その週末が勝負。そう強く思って臨んだレースで優勝することができ、結果的にアトランティックを1年で卒業でき、翌2003年からIRLにステップアップすることも叶いました。実際、ミルウォーキーで勝っていなければチャンスはなかったでしょう。人生の分岐点だったなと強く思いますね。

今年、第100回目を迎えたインディアナポリス500マイルレースでは、40万人を超える観客数に達した。シリーズ戦の中でも特別な1戦で、ドライバー個々においてもプライオリティの高いレースである。

勝ち獲ったシート

IRLは2005年を最後にフルシーズンを戦えていませんが、思い出はたくさんあります。デビューイヤーの後半戦のシカゴでのレースは、最後のピットストップのタイミングが良くて残り10周で2番手まで上げられました。イエローコーションとなって2番手からの再スタートで、リーダーのブライアン・ハートに並んで勝負。そしたらサム・ホーニッシュJRまで並んできて、結局抜かれてポジションダウン……。でも、ようやくIRLのレースで勝負できている感触を得られた思い出のレースです。
 もうひとつ忘れられないのは2006年のインディ500。結果を残したわけではないのですが、その参戦の経緯が嬉しいものでした。当時はシートがなく、シートを探すために現地に行っていたんです。パドック裏を歩いているときに、たまたま「いま何をやっているんだ?」とプラヤ・デル・レーシングチームから声をかけられ「何もやっていないならスポッターをやってくれよ」と誘ってくれたんです。で、インディ500のスポッターをやることになったのですが、チームのドライバーが苦戦していて「車がおかしい、おかしい」とオーナーにずっと訴えていて、「本当におかしいのか誰か他のドライバーに乗せてみよう」ということで僕が乗ることになったんです。そしたらマシンはおかしくなく、僕は乗ってすぐにそのマシンでの最速、決勝出場可能なタイムを出せました。オーナーからは「このレースのドライバーはお前でいく」と急遽参戦が決定。当時の日本人がIRLに乗るスタイルはスポンサーフィーを持ち込んでというものでしたが、そのときはドライバーとしての実力を認めてもらい、なおかつ給料までもらって乗せてもらえ、本当の意味でのプロドライバーとしての自覚を味わうことができました。

単にグルグルと回っているというイメージのオーバルレースだが、給油のタイミングやイエローコーションなど刻々と変化する状況に対応していかなければ上位入賞は見えない。その奥深さは一言では語り尽くせない。

距離の近さが魅力

正直、満足して現役から離れているわけではありません。ここ2~3年はレースに出られていませんが、チャンスがあればまた出たいというのが本音です。ただ、プロである以上、中途半端にも出たくない。スポット参戦でもすぐにスピードに乗せないといけないし、かつクラッシュも許されない。あいつは速いけど、クラッシュするんだよねという印象を残すわけにはいきません。スポットだからこそ、自分の目標を見極めるというのも大事だと思っています。レースに携わりながらチャンスがあれば乗りたいですし、乗っていないのであればスポッターという形でサポートするか、または自動車メーカーのモータースポーツ活動への貢献だったり、僕の知識や経験を生かしてお役に立てることがあればと考え今は行動しています。
 アメリカのレースに携わり続けるのは、ひと言で言うとフレンドリーでアットホームの雰囲気が満ち溢れているから。F1観戦はプレミアムで、パドックエリアに入ってドライバーに触れ合い、マシンを見たいなと願っても、限られたパスを所有したものだけの特権という、ヨーロッパ文化の象徴のようなレースイベントに対し、アメリカのほうがオープンで、ファンからするとマシンやドライバーとの距離が近いんです。そこがアメリカのモータースポーツの魅力です。あと、インディ500だけは本当に特別な1戦なんです。一度あのレースを経験すると、毎年戻ってきたいなと思わせる雰囲気があるんです。スタートグリッドに立って眺めたスタンドには35~40万人の観客が入り大熱狂。何年やってきても、あの空気に触れると鳥肌が立ちます。そんなインディ500に挑戦するチャンスが、またいつか訪れれば幸せですね。

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