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星野 一樹 ヒーローの背中を追いかけて

HUMAN TALK VOL.211 星野 一樹 ヒーローの背中を追いかけて

PROFILE

星野 一樹
HOSHINO Kazuki

1977年10月13日生まれ
「日本一速い男」と呼ばれた星野一義選手の一人息子。帝京大学在学中4年生時からレースキャリアをスタート。2000~2001年はイギリスへ武者修業へ。2002年に帰国して全日本F3選手権に参戦し、2003年からは全日本GT選手権(現スーパーGT)GT300クラス、とスーパー耐久のクラス3を走った。以後、スーパーGTを中心に活動して、2008年と2010年にGT300クラスのチャンピオンを獲得している。近年は日産の若手ドライバー育成を担い、今年はB-MAX NDDP GT-Rをドライブしている。
http://ameblo.jp/hoshino-kazuki/

父の背中を追いかけたくてもできない……
最初から高い壁が立ちはだかったが
大学卒業後に、ようやく父の許しが出た
「ここからは自分の人生だからレースをやります」
その日から星野一樹のキャリアがスタート
父・星野一義の偉大さを噛みしめつつ
急激な階段を休むことなく駆け上がっていった

 最初は中学2~3年のときだったと思います。親父に「レーシングカートをやってみたい」と言ったんですが、ダメでした。危険だというのが第一で、あとは親父自身がプロドライバーの大変さを知っているから、僕には普通の生活をしてほしかったみたいですね。常に勝たなければいけないというプレッシャーにさらされて、毎年が勝負で複数年契約もない。そんな不安定な精神状況が続くことを知っていて苦しい思いをさせたくないから、親父自身になかった学歴だったり、安定した収入だったり、プレッシャーがない日々を望んでいたんです。
 でも、僕にとって親父はヒーローでした。ウルトラマンや仮面ライダーが同世代のヒーローだったように。親父はほとんど家にいませんでしたが、母がテレビや雑誌を僕に見せてくれていたので、僕の中で親父がヒーローになっていったんです。当時はまだブラウン管テレビでしたが、その中のあのヒーローが自分の親父であるのが不思議な感覚でした。家に帰ってくる、あの親父と同じ人だよな、みたいな(笑)。

星野 一樹
東京世田谷にあるインパルショールームには、父の偉大さを証明するかのようにトロフィーや楯が飾られている。一樹はどこまで父に迫れたのだろうか?

大学卒業までの我慢

 今思い返せば小学校ぐらいからレーシングドライバーになりたいという気持ちはありましたが、さらに強く思い始めたのは高校生ぐらいからです。直接、親父に言っても反対されるので、担任の先生を呼んで説得してもらったり、母のほうから言ってもらったり、周りからも攻めてみたんですけど、それでもやっぱりダメでした。ただ、親父は「大学を卒業したら、好きなことをやっていい」と言ってくれていました。もちろんレースはダメだという前提ですが、大学さえ卒業すればレースを始めていいんだ、そこから先は自分の人生だと開き直って、じっとその時を待っていました。
 そして、大学卒業見込みがもらえた大学3年終了時、親父に「あと1年間、大学に行かなくても卒業できる。ここからは僕の人生だからレースを始めます」と言ったんです。高校2年生のときに反対されてから、その卒業見込みがもらえるまでの4年間は一言も口に出さなかったので、親父はかなりびっくりしていました。「まだやりたかったのか? でも、そこまで言うならやってみろ」とようやく言ってくれたんです。
 その直前、舘(信秀)さんにも相談していました。ゴルフを一緒にさせてもらったときに「一樹、なぜレースをやらないんだ?」と聞かれて、「違うんですよ!」と小さい頃からの思いを全部説明したんです。「そんなにやりたかったのか。なら、俺が言ってやるよ」と舘さんからも親父に話してくれたみたいです。たぶん、それがなかったら親父はやっていいと言ってくれなかったと思います。そういう意味で舘さんは僕の人生を変えてくれた人ですね。

星野 一樹
スーパーGT300クラスでは二度のチャンピオンを獲得。チャンスがあればGT500に復帰したい気持ちもあるという。

ふたつの急激な階段

 レーシングカートを始めたのが22歳になる年。よしレースに出るぞとなったデビュー戦のことは忘れられません。フレッシュマンクラスで、参加者の9割が小学生か中学生。その中に大人の僕が混ざってレースしたんです。星野一義の息子がデビューすると、記者やカメラマンの人たちも数人来ていて、変に注目されて嫌だなと思っていました。普通の家に生まれていたらなっていうコンプレックスは、小さい頃からあったので。
 カートをやり始めてすぐにレーシングスクールにも通い始めました。そこでスカラシップを獲らないと先がないのは分かっていましたが、スクールに集まるのは全日本カート選手権で優勝してきた若い子ばかり。そんな子たちと比べると、最初は天と地の差があるわけです。年間10戦ぐらいやった模擬レースは、もちろんビリから始まりました。でも、後半になると2回ぐらい勝てたんですよ。自分の中ではステップを感じましたね。でも、到底追いつけないなと思うような壁にも同時にぶちあたっていて、スカラシップが獲れなかったこともあり途方に暮れた時期もありました。
 そんな時、黒澤琢弥さんに背中を押されたんです。日本グランプリを見に行ったときに相談したら「一樹、イギリスに行って来い。日本でみんなと同じことをしていても差は埋まらないぞ」って。向こうはガソリンの入ったドラム缶をピットに並べて、朝から走行終了の夕方まで走りっぱなし。とんでもなく差を埋められる、走れる環境があると教えてくれたんです。それを聞いた僕の頭の中は、その日からイギリス一色でした。何も分からないのに、親父にイギリスに行かせてくれと毎日のように懇願していました。その甲斐あってか、諦めきれない気持ちを理解してくれた親父はイギリス行きを許してくれたんです。
 親父のツテで、カーリンモータースポーツにコンタクトをとり、1年目からフォーミュラフォードに参戦できることになりましたが、最初から大変でした。苦労したのは、まず家も決めずに行ったこと。カーリンで語学学校を探してもらい、そこに入学してホームステイ先を紹介してもらおうと考えていたけど、なかなか簡単にはいかず、毎日泣きながら2週間ほどホテル住まい。持って来たチョコレートとかカップラーメンで飢えをしのいでいました。当時、英語をまったく話せず、外国人が怖くてレストランにも行けなかったんです。
 ホームステイ先が決まり語学学校生活が始まると、学校後に毎日カーリンの工場に行ってメカニックと6時まで話をして、帰宅して家族とご飯を食べるという繰り返しの中で英語をどんどん覚えていきました。4輪デビューとなったフォーミュラフォードでも英語の習得とともに結果が出始めて、その年は表彰台に2回ほど立ち、ポールポジションも1回獲りました。シーズンオフにはフォーミュラルノーのウインターシリーズにも出させてもらい、イギリス2年目はF3のスカラシップクラスを戦いました。今振り返ると、英語習得もドライビング習得もすごく急な階段を駆け上がっていきましたよね(笑)。


イギリスを経て日本国内でステップアップを
果たして国内最高峰にまで手が届いたが……
競技という世界での成績はシビアで残酷でもある
父の背中を追った星野一樹にとっては
苦しい時期だったが、どん底まで落ちることで
彼を包み込んでいた巨大な存在から解放された
第2章はそこから始まる──

 周りの若い子たちがF1ドライバーになりたいと頑張っているなか、22歳からレースを始めた僕にはそれが現実的に難しいことが分かっていました。だから、とにかく目標は親父に一歩でも近づくこと。親父になれないことは分かっていますが、親父の見た世界を自分も見てみたい。あんなすごい人を軽々しく超えたいとは言えません。それはレースをやればやるほど強くなった思いで、僕の中ではとんでもなく大きな目標が親父に近づくことだったのです。
 その一歩としてイギリスで4輪デビューをしてF3にまで上がったのですが、Bクラスで3回ほど表彰台に立った程度で、最終的には勝てませんでした。結果が出ず、参戦継続が難しくなって帰国……。ただ、タイミングよく童夢から話をもらえて、全日本F3選手権に無限から出走できることになったのです。

星野 一樹
星野 一樹
2010年はHASEMI MOTOR SPORTに所属、TOMICAZを柳田真孝と駆り、1勝を挙げてGT300のシリーズチャンピオンに輝いた。

一樹、行って来い

 予選でチームメイトの小暮卓史選手に肉薄したり、表彰台を3回ほど獲ったのかな。でも、そこでも勝てなくて、満足いく結果を残せませんでした。イギリスでレースデビューしたので、国内では鈴鹿ともてぎ、富士しか走ったことがなくて、予選で初めて走るコースばかりだったんです。そのシーズンオフが僕にとって、一番苦しい時期でしたね。親父に「ここから先、自分で契約して乗れないのなら、いつまでやっても変わらない。親として支援できるのはここまで。だからあきらめろ」と言われたんです。それでも、あきらめられなかったですけどね。
 途方に暮れるなかNISMOでバイトをさせてもらって、働きながら「乗るチャンス」を探そう、拾おうと考えていました。それが2003年です。毎日、NISMOに通う日々のなか、シーズンオフにGT300のダイシンのオーディションに行かせてもらえることになったんです。Zのデビューイヤーで、ワークスではないけれどダイシンがシルビアを継続して走ることが決まって、ドライバーを選考するので「行って来い」と。で、そのオーディションに受かることができて、2003年は全日本GT選手権でダイシンシルビアに乗せてもらえることになったんです。開幕直前にはS耐の3クラスのZ33の開発をシーウエストがニスモと共同でするという話になって、オーナーのパートナードライバーがいないということで、そこでも「一樹、行って来い」と言われて、S耐のシートも決まりました。

星野 一樹

解放された気持ち

 2003年のダイシンで2位表彰台に立てて、2004年からはNISMO契約のドライバーになれ、GT300を走るエンドレスZに乗れることになりました。そのときに履いていたのがエンケイホイールでした。それまでホイールをあまり意識していなかったのですが、テストをするなかでホイールを換えただけでコンマ2秒ほど上がって、ホイールって大事なんだ、ホイールってセッティングパーツだったんだと、そこで初めて知ったことをよく覚えています。同年のS耐にはモバイルキャストZに乗り、3クラスのチャンピオンを獲ったのですが、その車のホイールもエンケイでした。
 2005年もGT300を継続して走り、もてぎで初優勝できて、そのシーズンを終えると同クラスのなかのZでトップでした。NISMOから「GT500に上げてやる」と評価されて、2006~2007年は念願のGT500を走ることが叶いました。チームはカルソニックインパル、親父のチームです。
 GT500に乗ったのは2シーズン……。鈴鹿1000㎞で優勝することはできましたが、ブノワ(トレルイエ)という素晴らしいパートナーがいながら、彼ほどのパフォーマンスを出せず、2年で降ろされることになったんです。ようやくGT500に上がって、そこでずっとやっていきたかったのに、2年でシートを喪失……チーム監督であった自分の親父からクビを宣告されたときは、本当に人生の終わりだなと思いました。
 でも、逆に吹っ切れた部分もありました。ここからは星野一樹として生きて行くしかないんだなって。裸の星野一樹。ここまで星野一義の息子で乗り続けられたけど、ここから先は自分で結果を出していくしかないと。今までのコンプレックスがなくなっていき、精神的に楽になれたんです。2008年は自分の色を出せたのもあり、GT300で初チャンピオンを獲ることができました。すごく自分としては変われた年でした。
 それ以降、ずっとGT300に乗り続けるなかで、一緒にGT300を戦った若いチームメイトがGT500にステップアップしていく姿を見ていて悔しい時期もありましたが、今は少し違う感情です。自分と同じようにGT500を目指す若手が上がってきたら、一緒に結果を出すなかで育てていくというか、若手が上を目指すサポートをしてあげるのが、僕の今の役割なのかなと感じるようになってきたんです。
 こうしてベテランドライバーになっても「目標は親父」というのは変わっていません。死ぬまでに、親父の見た世界を見てみたい、親父に近づければなと思っています。レーシングドライバーとしても、毎年のように自分の中でプラスになっていっている部分をたくさん感じているし、親父に近づくためにも、まだまだ現役にこだわってやっていきたいと思います。
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