世界に挑み続けるカメラマン

VOL.209

小林 直樹 KOBAYASHI Naoki

1965年、千葉県生まれ
サラリーマン時代の27歳のころからモータースポーツ撮影を始める。1994年のマカオグランプリ撮影をきっかけに脱サラをし、フリーランスのカメラマンとして活動開始。国内のトップ4輪レースだけでなく、F1グランプリの現場での活躍経験も持つ。1998年からWRCを全戦追いかける生活が始まり、現在でもWRCを中心にシリーズを追いかけ世界を転戦している。日本レース写真家協会(JRPA)会員。

国内最高峰のモータースポーツだけでなく
F1やWRCといった世界選手権の場にも
活躍の場を求めてきた小林直樹カメラマン
雑誌が厳しい時代になってもその姿勢は変わらない
そこまでして、なぜ世界に目を向け出ていくのか?
小林カメラマンのキャリアを振り返りながら
その胸中に秘めた熱い「思い」を語ってもらう

モータースポーツカメラマンになったきっかけは、子供のころから車が好きだったからです。父が車好きで、その影響が大きいでしょうね。父は自動車番組やレースをテレビで見ていたし、雑誌もそういったジャンルのものが家にあったから自然に僕も車好きになっていきました。それに加えて、小学校時代にスーパーカーブームという社会現象が起こって、より車に興味を持ち出しました。写真については、特別興味を持っていたわけではなかったけれど、父が二眼レフカメラを持っていて、それを後楽園で開催されたスーパーカーショーに持って行ったことが、今思えばカメラマンになるきっかけだったんでしょうね。小学5年生のとき、二眼レフをぶら下げてそこにひとりで行ったんです。側から見たら、すごいカメラで撮っている小学生だなって思われたでしょうね(笑)。そのとき撮った写真は今でも持っていますが、意外にちゃんと撮れていました。

東洋大学へ

中学生のときの修学旅行に二眼レフカメラを持っていくのが大変だと父に相談したら、小林家でも一眼レフを買うことになりました。買ってくれたのはキヤノンのAV-1。それを持って修学旅行に行き、バチバチと撮って来て、帰ってきたら車やモーターショーといったイベントに出かけて撮りに行くこともありました。ただ撮るのは好きでしたが、趣味というわけではありませんでした。それ以上に陸上が好きで、陸上部に入って走ることに夢中だったんです。学生のころは車と陸上。そのふたつを追いかけていました。
 陸上部に入ったきっかけは、中学のとき友達に誘われたからです。でも、高校進学が茨城だったので、家からも遠くて部活動はやらないつもりでしたが、いざ陸上部に入ってみたら完全にハマってしまい、最終的には箱根駅伝を目指すランナーになっていました。もちろん進学は箱根駅伝に出ている大学で、高校からの推薦もあり、東洋大学に入ることができました。当時の東洋大学はシードを取れる大学でしたが、入ってみると練習は想像以上にハードでした。周りの速い連中に圧倒されたのもあったし、練習内容が高校とまったく違ったから、練習についていくのにとにかく必死。当時の記録は5000メートルで16分台だったかな。800メートルでは2分を切れませんでした。思うように記録が出ないし、貧血ぎみでぜんぜん走れなくなったこともあって、結局陸上は1年で辞めてしまいました……。

大学を辞めて就職

陸上を辞めてからは車好きの友達とよく話をするようになり、バイトで貯めたお金で買ったのがトヨタの86でした。21歳、大学3年生のときでした。そうこうしているうちに大学を辞めることにもなりました。陸上部に入るための大学進学だったので、その目的がなくなったら行く意味を感じられなくなったんです。そんなとき、友達が勤めていた共同石油の関連会社から良い条件で誘いがあり、僕は大学を辞める決断をしたんです。
 共同石油の中には、ガソリンスタンドで働く社員やアルバイトを教育する部署があり、そこの仕事をサポートする会社に入社しました。当時、共同石油では2輪、4輪ともにレース参戦に力を入れていて、2輪ではヨシムラ、グループAでは共石GT-R(日鉱共石スカイラインGP-1プラス)などにスポンサードしていました。
 仕事をやり始めて本社の人と仲良くなり、僕が車好き、レース好きというが分かってきたら、本社の方々からグループAのパドックパスなどレース観戦チケットが回ってくるようになりました。もらったチケットで初めて行ったのは富士でのF3000。友達を誘ってカメラを持って行ったのが始まりでした。AV-1に50ミリレンズという装備でしたが、とにかく楽しくて仕方なかったです。パドックをうろうろするだけでもワクワクしたほどでした。当時はネガフィルムで撮っていたんですが、紙焼きプリントするとさらに楽しさが増しました。

フォトコンテスト応募

観戦チケットが回ってきてサーキットに撮影に行くことを繰り返しているうちに、もう少し望遠レンズがほしいな、カメラも手巻きじゃなくモータードライブ付きがほしいなと、機材に対する自分の要求も増えていきました。たまたま友達がAE-1というカメラを持っていて、使っていなかったそれを借りられ、モータードライブを買ってきて後付けしました。またその友達が35~105ミリのズームレンズを持っていて、それも借りることができました。でも、105ミリではさすがに走りを撮れないので、中古で300ミリの望遠レンズを買いました。それらの機材で撮った写真をフォトコンテストに応募するようになり、賞をもらえるようになったときは、もしかしたらプロカメラマンになれるかもという思いも芽生えてきました。
 カメラもF1というモデルとT90というモデルを買い足し、300ミリレンズも黒レンズから白レンズに買い替えました。サーキットに行く回数も、回ってくる観戦チケットだけでなく自分でも買うようになり徐々に加熱していき、年に7~8戦は行くようになりました。そんなとき、雑誌「オートスポーツ」の企画でマカオグランプリに連れて行ってもらえる読者カメラマン募集を見つけたんです。フォトコンテストのように作品を応募して競い合い、チャンピオンになった人がマカオに行けるというものです。最初の応募が93年、28歳のときで、この企画への挑戦が僕の人生の転機になりました。

「重いレンズを持っていかずに後悔するより
たとえ使わなかったとしても
持って行って後悔したほうがいい」
小林直樹のその考え方は、彼の人生を
ずばり、表しているような気がする
プロカメラマンの世界に入って間もなく
人生の岐路が訪れた。その時も、もちろん──

1993年、マカオグランプリにオートスポーツの読者カメラマンとして連れていってもらえるという企画に応募したときは、4~9月まで全5回で戦う方式でした。応募した写真が採点されて、上位6位までが毎回ポイントがもらえて総合ポイントを競うというものです。その年は3位以内に入れてチャンピオン決定戦に参加でき、10月の富士のレースでカメラマンとして参加できるタバードをもらえました。フィルム5本を受け取り、上位3人で一番良い写真を撮った人がマカオに行けるのです。残念ながらそこで優勝はできませんでしたが、翌1994年の一発勝負になった同企画では、僕が優勝してマカオに行く権利を得たんです。
 ところが、マカオグランプリの日に会社でも大事な仕事があり、すごく悩みました。最終的にはプロカメラマンとしてやりたいという気持ちが強くあったので、良いきっかけなのかもしれないと社長にも相談してみたんです。最初は「なに考えているんだ」と怒られましたが、とことん話をしたら理解してくれて、最後は「仁義を切っていけよ」と優しい言葉をいただけました。親からも「プロは甘い世界じゃない」という厳しい言葉ももらい、会社関係の人にも「大丈夫なの?」と心配されましたが、逆にできないと思われていたことに対して絶対に見返してやるという気持ちが強かったです。

月曜日の売り込み

マカオで自由に撮った写真は、誌面でも使ってもらえました。ただ、プロとしての将来を確約されたわけではありません。3月で会社を辞めて、どういう道を歩むのか、自分で考えなければいけませんでした。1995年は観戦チケットやパドックパスを自分で買って、とにかく行けるレースはすべて行くことにしました。筑波のローカルレースから全日本まで行けるだけ行って、必ず翌月曜日にスリーブを持って編集部に行き、編集長に写真を見てもらうことを続けていました。
 そんな中、オートスポーツ編集部から初めて声をかけて連れていってもらえたのが鈴鹿F3000でした。編集部の人と僕、ライターさん、先輩カメラマンふたりの5人でライトバン! 僕は後部座席の真ん中、しかも荷物満載だからシートの角度が90度。そんな状態で鈴鹿まで行ったんです(笑)。そのときのレースで、チャンピオンを争うふたりのドライバーの表情を撮れて、ドカンと見開きで使ってもらえました。それと次のSUGOのJTCCでのワークス仕事で結構認められたのかなと感じましたね。
 2年目からF3、F3000、JTCC、GT、N耐など、ほとんどのレースに行かせてもらえるようになり充実していたのですが、そういう形で3年も行かせてもらうと、だんだん新鮮な目で国内レースを見られなくなってくるんです。それが写真にも出てきたような気がして、自分では壁のようにも感じていました。そんなときに、WRCの撮影をしてみないかと声をかけてもらったんです。

初撮影で「もう嫌」

WRCは一度、自分の目で見たいなと思っていました。後で知ったのですが、ラリーカメラマンが高齢化していて、若手を育てなければいけないという話が浮上して、なぜか僕の名前が挙がったそうです。そんな話は滅多にないから、もちろん行くことに決めました。全日本ラリーを飛び越して、いきなりWRCのアクロポリス。右も左も分からず行ってみると、本当に何も分からず苦労しました。インドネシアと最終戦のイギリスにも行くチャンスがもらえたのですが、インドネシアでは雨の中でスタックしたり、イギリスでも雨で真っ暗な中をさまよって、終わってみるともう嫌だなって気持ちでいっぱいでした。それでも、なんかラリーの魅力にハマってしまったんです。
 プロを目指すようになってから、最終的にはF1カメラマンになりたいなという気持ちをずっと持ち続け、1995年には鈴鹿と岡山でF1の撮影もしました。でも、ラリーの世界に足を踏み入れてしまい、すっかり人生が変わりましたね。1998年には新しいラリー専門誌を立ち上げる際に声をかけてくれ、WRCをシリーズで追いかける決意も固まりました。さすがに全14戦は追いかけられないな、行けて半分の7戦かなと考えていたら、先輩カメラマンから「行くなら全戦行け」と言われて全戦行くことに。WRCを全戦追いかける生活が始まりました。

ラリーは温かい

最初の頃は先輩カメラマンと一緒の行動でしたが、ある時からひとりで行くようになりました。すごく大変でお金もかかりますが、いろいろと自分の撮りたい場所を下見で見つけて撮るそのスタイルが、ラリーの本来の撮り方だなという感じがしました。僕が撮りたかったのは、その国らしさとか、WRCの魅力や迫力をダイレクトに伝えること。それがようやく表現できるようになったと思えるようになったんです。
 大変ですけど、ひとりで回るようになって得るものは多かったです。トラブルがあってもひとりで乗り越えないといけない代わりに、自由を得られます。自分でこうしたいと思えば、たとえ徹夜でも、朝どれだけ早くても自由に動けます。そうやって世界で自由に行動するようになってすごく視野が広がったし、国内にいた頃とは違うものが見えてきた気がします。あらゆることを学んだというか。ただ、いまだに英語はちゃんと話せません(苦笑)。
 自分が撮り始めた頃と比べ、ラリー雑誌も減りラリーカメラマンにも厳しい向かい風の時代です。それでも続けているのは、やっぱりラリーが好きなんでしょうね。なんか温かいんですよ。大変な場所で大変なことをみんなでやっている。だから、困っている人がいたら、みんなで助け合おうよという気持ちが自然と出てくる。僕らプレスが困っている時でもチーム関係者やお客さんが助けてくれたりするんです。もちろん、仕事である以上は儲かったほうがいいんですけど、そうじゃないのにやり続けている理由は、ラリーにあるそういう温かいところが心から好きだからです。

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