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田中 康二 いつも「本気」

HUMAN TALK VOL.207 田中 康二 いつも「本気」

PROFILE

田中 康二
TANAKA Koji

1972年8月9日生まれ 埼玉県出身
1995年から日産マーチ耐久レースin筑波でレースデビューを果たす。1997年にザウルスジュニアレース東日本シリーズに参戦し始め、1999年にはチャンピオン争いにも加わりシリーズ4位獲得。2000年はF4選手権関東シリーズに参戦、2001~2002年はフォーミュラ・スズキKeiスポーツCUPを戦った。autosport編集長就任は2014年から。

車レース雑誌「autosport」編集長を務める田中康二さん
現編集部の中では唯一のレース経験者であり
かつてはプロレーサーを目指したこともあった
そんな田中さんに、ご自身のレースキャリアとともに
編集長に就任してから、どのような思いを込めて
雑誌を作り情報を発信してきたのかを聞かせてもらった

 幼少期にレースの影はまったくなかったですね。小学校から帰って来たら、ランドセルを置いてすぐ遊びに行って夜まで帰って来ないような子供でした。むしろ当時は、車は乗ると酔う、嫌いなものでしたね。
 高校生のときに映画の影響を受けて、新聞記者になりたくなって、それを目指して大学に入りました。ところが、大学入学直後に車の免許を取ったら車が最高に面白くて、そこから車の世界に目覚めた感じですね。最初は実家のカローラFXを乗り回していて、その次にカローラレビンを買いました。社会人になってからは、R32スカイラインのタイプM、FRのスカイラインを買いました。
 運転するのが楽しいというか、競うこと、速く走らせることが楽しい、そのときからややレース志向がありましたね。

田中 康二
田中 康二
デビューはハコレースだったが、すぐにフォーミュラ路線に変更。ザウルスジュニア、F4と駆け上がっていく。

小劇団の影響

 レースの世界に憧れたのは、周囲の影響が大きいです。学生時代にいまでいうアミューズメントレストランでアルバイトをしていたのですが、そこには小劇団をやっている人たちがすごく多く、将来、俳優や女優を目指すとか、ダンスで有名になるんだっていう人たちばかりだったんです。一方で自分は大学に入って、このまま勉強やっていればいいんだって環境にいて、そういう人たちに出会って自分よりよっぽど人生に目標を持って生きているなと感銘を受けたんです。自分も目標を持とうって考えたんです。もちろん、それまで目指してきた新聞記者というものもあったけれど、そのときはレースで食っていくという考えのほうが強くなったんです。
 自分の車で峠を走るようになって、ほぼ同時にジムカーナを始めて、実際にレースに出始めたのは23歳のとき。遅いですね(苦笑)。K10マーチのハコレースで、レース仕様の車両は購入しました。40万円か50万円ぐらいだったと思います。マーチは1年ぐらい、ちょうど新しいK11マーチが出てくる年で、K10マーチが戦闘力的に厳しくなったこともあり卒業することにしたんです。
 マーチの次はザウルスジュニアを始めました。一応、右手シフトだし、ヘルメットごしに風を感じられるシングルシーター。あとカウルがバタつくし(笑)、そのインパクトがすごかったですね。筑波の裏(ストレート)で、カウルが外れてしまうんじゃないかって思いながら走っていました。

スポンサー営業

 ザウルスジュニアの頃からスポンサー営業活動をしていました。ザウルスもマーチのエンジンだから、古いK10マーチのエンジンと新しいK11マーチのエンジンの両方を使える状態で開催されていました。最初は当然、お金がないから古いK10マーチのエンジンを使っていたら劣る部分があるので、新しいK11マーチのエンジンを搭載したザウルスジュニアに乗り換えることに決め、スポンサー営業活動をしたんです。冗談じゃなく100件ぐらい当たって、その中でお金を出してくれるという話にまでなったのは1~2件。基本、断られるからへこみましたよ(苦笑)。
 当時、仕事もしていたので仕事後に寝ないで企画書を作って、休みを1日とってアポイントが取れた10社ぐらいを回って……そんな日々を送っていました。今から思うと、相当エネルギーがないとできないことですね。やっぱり、切羽詰まっていたのかな。
 ザウルスでスポンサーを取って勝負を懸けた年に、優勝したり2位になったりでき最終戦までチャンピオン争いに残れました。最終的に自分が予選で失敗してしまうんですが、スポンサーさんはその年を一緒に楽しんでくれていました。チャンピオンは獲れなかったけど、翌年にF4をやりますと言ったら一緒にやってみようかと言ってくれたんです。チーム員じゃないけど、仲間として自分の挑戦を楽しんでくれていたのが大きかったと思います。

まだ引退していない

 F4にステップアップして一番驚いたのは、やっぱり車の速さ。たぶん筑波サーキットでのラップタイムが一気に10秒ぐらい縮まりましたからね。これがフォーミュラかと感動したのを覚えています。スタビリティの高さもそうだし、スリックタイヤも初めてだったし、身体がつらかったのも印象的でした。木曜日から練習走行をはじめると土曜日の予選のときには腕と首がひどい筋肉痛。もちろん当時は悔しくて隠してましたけど(笑)。その後、F4とフォーミュラ・スズキKeiを何年か続けましたが、フォーミュラの継続的なレース参戦は途絶えてしまいました。
 トップアスリートと比べるのはおこがましいけど、それでもレースをやめるのは抵抗がありましたね。結果お金がなくて続けられなくなったんですけど、ずっと引退したとは思っていませんでした。ただ、最近ちょっと変わってきたかな。同じ年のドライバーが引退したり、若い可能性のある子が出てきて勝てないなと本気で思ったり、歳をとるといろいろと感じることも変化してくるものですね。
 歳という意味では、親の気持ちも分かるようになりました。僕のレース活動に対して父親こそある程度理解してくれましたが、母親は猛反対。いくらこちらが説得しても平行線のままでした。ただ、いま、自分自身が人の親になってみると母親が反対するのも仕方ないと思えるし、それと同時にその猛反対される理由「カーレース=危険」という世間一般の見方を変えたいという思いも抱くようにもなりました。
 でも、趣味ではまだ続けたいと思っています。


autosport編集長としてモータースポーツの
最先端を追いかけている田中康二さん
彼のレースとの出会いを紹介した前回に続き
今回は出版業界に入ったきっかけ
さらには雑誌作りへのこだわりを聞く

田中 康二

 今はオートスポーツの編集長をやらせてもらっていますが、そもそもこの業界に興味を持ったきっかけは高校生の時に観た映画なんです。『大統領の陰謀』という映画で、アメリカのウォーターゲート事件を題材にしていた物語。ふたりの新聞記者が命を狙われそうになりながらも一国の大統領の不正を暴いていくのが単純にかっこ良くて、その影響で新聞記者になろうと考え始めたんです。大学も新聞学科に行って新聞記者を志したんですが、前回お話したように車のレースに夢中になってしまい、車と新聞記者の融合というか、自分なりに答えを出したのが紙メディア、自動車雑誌の仕事でした。
 大学3年生から『スピードマインド』という会社でアルバイトを始めました。Bライセンス競技、いわゆるジムカーナ、ダートラ、ラリーを扱う雑誌の編集の仕事。大学を卒業して、その会社にそのまま就職したんです。

田中 康二
田中 康二
田中さんが編集長を務める「auto sport」誌。一番左側が2014年のF1日本グランプリ中のビアンキの事故を扱った号。表紙にも悩んだ。

1冊作りたい

 『スピードマインド』は編集という仕事の魅力も内容もすごく教えてくれた雑誌であり、会社だったのですが、残念ながら1999年に倒産してしまいました。でも、倒産したことに対しての危機感はありませんでした。まだ若かったし、結婚もしていなかったので、世の中こんなことも起こるんだなっていう感じで受け止めていました。
 しばらくフリーランスで働きましたが、自分の中には雑誌をコーディネーションしたいという気持ちが強くありました。じつは会社倒産の直前、別冊という形で初めて自分が編集長となって1冊作らせてもらい、1冊をコーディネーションする楽しさ、魅力を知ってしまったんです。やっぱりどこかに所属して、編集者としてやりたいと思いました。
 決心が固まってから『オートスポーツ』の門をたたきました。自分が憧れていた雑誌です。そしたら、当時三栄書房から発行していて、後に交通タイムス社で発行されることになる『XaCAR(ザッカー)』という一般自動車誌で人が足りないからやってみないかと言われたんです。日本で一番自動車誌が売れている時代の名物編集長が牽引する編集部。そこで2000年から働き始めるわけですが、自分は車は好きだったけれど新車にはうとかったので苦労しました。逆に言うと、編集を分かった気になっていたなという反省にもなりました。雑誌編集者としての引き出しが増えたのはそこでの経験があったから。今から思えば、『XaCAR』に行かなければ、かなり偏った編集者になっていたと思います。
 働き始めてから10ヶ月ほど、転機はすぐにきました。ある日、編集長に呼ばれて、「オートスポーツの人員が足りない、モータースポーツをできる編集者を探している。田中くん行かないか?」と言われました。答えは「もちろん行きたい!」でした。

眠れない夜

 オートスポーツでも学ぶことが多かったです。そこに6年在籍して勉強させてもらってから、『F1速報』という雑誌の編集長をやらせてもらうことになりました。編集をやり始めて10年ちょっとで、定期刊行物の編集長を初めて務めました。その頃、ちょうどモータースポーツ界でもウェブが台頭してきて、僕は「ウェブになくて雑誌にあるものは何だろう」というのをずっと考えていたのを思い出します。ウェブにも良いところがありますが、同じ書き手でもウェブ原稿と雑誌に書く原稿だと、個人的には雑誌に書く文章のほうが良いと感じます。雑誌にはウェブと違って文字数の制限があります。文字を削ったぶん、文章密度や質が上がっているような気がするんです。スペースに限りがあるなかで削ったぶんが重みになったり、思いになったりするのかな、と。ウェブなら後からの修正が何度もできますが、雑誌の場合はやり直しがききません。1文字に懸ける、ひとつの文章に懸ける思いが濃い気がします。
 『オートスポーツ』の編集長になったのは2014年です。自分が憧れていた雑誌の編集長になれる日が来るとは思ってもいませんでしたが、いきなり緊張感の高い出来事が……。長い間、モータースポーツを取材してきて、目の前で重大事故が起こった経験はありませんでした。2014年10月のF1日本グランプリ、ジュール・ビアンキの事故です。
 鈴鹿サーキットで取材していた自分は、すごく迷いました。もちろんドライバーとして無事であってほしいという思いを持ちながらも、どう誌面で伝えるべきか? 考える時間は1週間ほどありましたが、長いとさらに悩むんです。結果として、事故の瞬間の写真を表紙で使って、巻頭では自分がその事故の詳細を原稿にまとめたのですが、初めて夜に眠れないという経験もしました。夜中に寝てもパッと目が覚めるということがずっと続いたんです。見る夢は、すべてビアンキ……。
 一番恐かったのが、本を作り終わってから発売までのタイムラグの間にビアンキが亡くなってしまうこと。ウェブなら書いてアップしたら、その時点で最新情報になるから取り返しがつきます。でも、雑誌では取り返しがつかないんです。改めて自分がしている仕事の重みを感じました。
 発売後、売れればいいのかとか、こんな表紙見たくないとか、ひどいバッシングも受けました。読者からも、レース関係者からもいろんな意見をいただきました。一方で、F1ジャーナリストの大御所の方には「あれでこそオートスポーツだと思う」と言われました。この業界の巨匠のひとりにそう言われて励みになりましたし、オートスポーツ創始者の方にも「いろんなことを言う人がいるけど、少なくとも僕は君の判断を支持する」と声をかけてもらえ、心が救われました。分かってくれている人がいることが、うれしかったんです。
 自分の考え方が100%正しいとは思わない、常に疑ってかかる。それを胸に仕事をしていますが、最後に決断するのは、やっぱり編集長の自分。いまだに自信はないし、試行錯誤の連続です。でも、自分はそれでいいと思っています。物事の本質を瞬間に見抜く力を自分は持っていないと分かっているからこそ、疑い続ける。裏を返せば成長し続けることだと考えています。現状に甘んじない、それが僕は大事だと思うんです。
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