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福島 祥行 創造する手

HUMAN TALK VOL.193 福島 祥行 創造する手

PROFILE

福島 祥行
FUKUSHIMA Yoshiyuki

1957年8月19日生まれ
東京都出身。23歳から静岡県の“レース村”と呼ばれる御殿場に移り住みハセミモータースポーツに入所。その後、ノバエンジニアリングを経て94年にプローバに入社。06年にプローバの各部門が独立する際に御殿場の代表取締役に就任した。
http://www.prova-engineering.com

まだ工業技術が進んでいないころのレース界では
自分の手で何でも作ることが当たり前だった。
壊れたら直す、モノがなければ作る。
そんな世界で育った福島祥之が、
今のレースの世界でなくなってしまった
「大切なこと」を教えてくれた。

福島 祥行
御殿場のファクトリー内。今はスバル社をメインにした業務が多いが、サーキット走行やレース参戦する人たちのマシンもメンテナンスしている。

御殿場に残る決断

 静岡県の御殿場に来たのが23歳のとき。自動車整備学校を卒業したタイミングでハセミモータースポーツが設立されて人を募集していたんです。普通は自動車整備学校を卒業すると皆ディーラーに勤めるんですけど、僕だけ昔からレースが好きだったんです。ひとりで富士スピードウェイにレースを見に行っていたりもしていました。父が自動車関係の仕事をしていたものだから、自動車に関わっていることが多かったので嫌いじゃなかったし、その道に入りやすかったんですね。でも、一般車よりも自動車レースが好きで、憧れでしたよね。
 当時、ハセミモータースポーツにメカニックとして入って、一応3級の整備士は持っていたのですが、レーシングカーは市販車とはぜんぜん別物だから、何をするにも勉強、勉強。長谷見(昌弘)さんのところで初めてレーシングカーを勉強させてもらいました。その頃はグラチャンだったりグループ5のトミカスカイラインターボの製作から走らせるところまでをやらせてもらいました。でも、いい思い出って覚えていないんですよ。当時は気合と根性でレースをしていたので、つらい思い出が多かったです。優勝したこととかってあんまり覚えていないんです。何日も寝ていなかったとか、あの車は大変だったよとか、そういうことのが方が今でも印象に残っています。
 2年、長谷見さんのところで働いたところで転機が訪れました。ハセミモータースポーツが御殿場から厚木に引っ越すことになったとき、僕は御殿場の同じ敷地内にあったノバエンジニアリングに移ることを決めたんです。26歳のときでした。当時のノバは中嶋(悟)さん、星野(一義)さん、国さん(高橋国光)だとか、そういう一流ドライバーが走っていたんです。ノバ全盛期で、F2やグラチャン(グランドチャンピオン)をバリバリにやっていた頃です。今では「何も分からない若造の決断だったな」と思えますが、バリバリのレースの世界に憧れていた自分はそっちの道を選んでしまったんです。

福島 祥行
昭和61年10月に発行されたレース専門誌「レーシングオン」の掲載記事。メカニックの仕事にスポットを当てた記事で、トビラの写真は福島氏の作業中の手が大きく取り上げられた。

好きなのは耐久

 F2は国さんをずっとやっていて、国さんのマシンが履いていたのがメッシュのエンケイホイールでした。当時のレースでは日本製ホイールがなく、多くのチームではイギリスのレーシングホイールが使われている中、エンケイさんが一生懸命に開発していて現場にも来られていましたね。毎回材料を変えて新しいホイールを開発、それを持ち込んでというのを繰り返していましたね。
 国さん、(藤田)直広さん、ステファン・ヨハンソンとか、F2からF3000に変わる頃のノバではフォーミュラカーが盛んでしたが、自分はCカー(※1)をずっとやっていました。最初がポルシェ956、962に変わって、それからニッサンのCカーR90CK。バブル全盛期で1台のマシンに3〜5億もかけるようなレースをやっていた時代です。ポルシェでは全日本スポーツプロトタイプレースという耐久レースをずっとやっていました。僕はそんなレースをやっていたので、スプリントレースより耐久レースのほうが好きでした。スプリントレースってマシンができあがってタイヤが決まってセッティングが決まってスタートしたら、後はドライバーさん頑張ってくださいというもの。耐久レースはチームも良くないといけないし、ドライバーも良くないといけないし、マシンもレース中の作戦も良くないといけない。いろんなことを考えないといけないから、毎レースごとにドラマがある。そこが楽しいんですよ。当然、ポルシェは出れば毎回勝ってしまう。トヨタやニッサンはレースを始めたばかりの頃で、Cカーではまだ速くなかったですから。ポルシェでは毎回勝って、当然チャンピオンも獲ったんですが、そういうのはやっぱり覚えていない(笑)。ぶつかってマシンを直して……そんなことばかり覚えています。
 当時はコンピュータなんかなくて、レース業界はまだアナログ時代でした。すべて手でやっていたんです。手で計算、手で測って、手で作る。今のように3次元の機械加工技術もないから、すべて手で作っていた。今のように技術もないから、何でもかんでも自分でやっていました。壊れたら直さないといけないし、モノがなければ作る。マシンを速くするために何でも作っていましたね。最近のレースは「作ったらダメ、換えちゃダメ、皆イコールコンディションで」というものばかり。あの時代はお金がかかろうが、技術がなかろうが、速いほうが勝ち。いくらでもお金と手間をかけて、毎回新しいものを作っていました。メカニックという仕事に、想像力と創造力が求められていた時代だったと思います。
 猪瀬(良一)さん、森脇(基恭)さんのノバエンジニアリングに入ってからは、レーシングカーのノウハウをたくさん学びました。当時、レイナードというイギリスにあるレーシングカーの会社にも勉強で行きました。英語は喋れない、イギリスなんか行ったこともない、それでも何とかなったものですね。ホンダのHRCでバイクに携わったこともあります。500㏄で世界チャンピオンだったフレディ・スペンサーのマシンを作る手伝いをしたり。今週、スペンサーが出るレースに間に合わせないといけないから、次のサーキット用にチャンバーを今週中に作っておくとか。チャンバーができあがったら、そのひとつだけでホンダの飛行機が飛ぶぐらいお金がかかっていました。当時、Cカーでもカーボンブレーキを導入していた頃で、ローター1枚100万円、4枚で400万円。それをバンバン使っていた。そんな時代の話です。
 あの頃は毎日、毎日が一生懸命。将来的に何をやりたいとか考える時間もなかったですね。明日の仕事をどうしよう、そのことばかり。自分は遊ぶのも好きだったので、何とか早く仕事を終わらせて飲みにいくことにも必死。遊ぶのも、ご飯食べるのも、仕事するのも毎日一生懸命にやっていました。

(※1)Cカ―=グループC規定のレース車両



レーシングカーとハコ車ではまったく違う……
ノバエンジニアリングで技術力を身に付けてきたが
次に勤めたプローバで打ちのめされた福島祥行
清水和夫とともに参戦してきたスーパー耐久
そのレースから離れて今考えることはひとつ
「開発余地のあるレースをもう一度やりたい」

福島 祥行
福島 祥行
メカニックの仕事を始めてからの財産とも言える工具。年々追加され新しいものも増えていったが、使いやすいもの、自分の手に合うものはずっと手元に残してある。

ハコ車の難しさ

 ノバエンジニアリングには10年間勤め、メカニック20人ぐらいをかかえる工場長という立場に自分はなっていました。ただ、だんだんとバブルが弾けて、レース業界が厳しい時代を迎えることになります。ノバエンジニアリングを辞めてから株式会社COXに2年、F3000で中谷明彦と服部尚貴が走っていたのかな。お金を節約しながらレースをやらなければいけない状況で、技術屋としてはあまり面白くない時代でした。そんな時、清水和夫さんに拾われてプローバに入ったんです。
今までは純然たるレーシングカーしか僕は知らなかった。清水さんとレースをするようになって、初めてハコのレーシングカーの難しさを知りました。最初はスカイラインのGT-Rでしたね。それまで触ってきたレーシングカーは、ミリ単位のセッティング調整でどんどん車の特性が変わっていくものだったのですが、ハコの場合は足回りのブッシュなんかもゴムなので僕が思ったようなセッティングでは、なかなかドライバーには応えられなかったんです。清水さんにも怒られましたね。「ちょっと動かしただけじゃ分からないよ。もっといっぱいやってくれないと」って。計算上では車高を5㎜落とせば重心位置が前に何㎜移動して、前後ウエイト配分が何㎜前に行く……という計算なのですが、ハコだとそうはいかない。総重量があるから、フィーリングとしてほとんど変わらないんです。そういう部分で最初はプローバにも迷惑をかけたし、苦労しましたね。
 スバルのインプレッサでレースを始めてからは、STIと仕事をしました。当時のスバルはラリーは強かったけど、レースをやったことがなく長いレースの中でエンジンが壊れてしまった。毎回走るたびにエンジンが壊れるから、STIとああじゃないこうじゃないって開発を一生懸命にやりました。そして、ようやくランサーと互角に戦えるようになってきた。
 戦いの舞台はスーパー耐久でしたが、いろんな開発をやる上でマシンはコンピュータですべて管理していました。エンジンはエンジン屋さんが、ブレーキはブレーキメーカーが、シャシー側もドライバーとのコミュニケーションをとるためのデータロガーを積んで、コンピュータでがんじがらめ。でも、ランサーに勝つために作戦面での工夫もたくさん考えていました。当時の十勝仕様のマシンを見ると、エアジャッキの口が2個あるんですよ。フロントだけタイヤ交換したり、給油の流速を高めるためにタンクを積んだリヤ部をなるべく下げるために、フロントだけジャッキアップできる工夫をしていたんですね。そういうことを考える余地のあるレースは面白かったですね。

福島 祥行

いつかレース復帰を

 プローバ入社は94年で、最初は筑波ガレージにいました。車3台しか入らない中でレーシングカーをやってきたわけですが、市販車の整備にまで事業を拡大し始めたら、手詰まりになってしまいました。もともと自分は御殿場だったので、御殿場でやりたいと清水さんにお話しました。御殿場というレース村は何かを作るにしても、職人を探すにしてもすごく便利なのです。エンジン屋さんも、機械加工屋さん、カーボン加工屋さんもあるんです。
 御殿場に引っ越してきたのは03年。筑波、横浜、そして御殿場にいったんは分かれたんですが、レースが下火になってきてメーカーにも頼れなくなってきたので、清水さんがみんな独立してやっていこうというのを決めて、横浜と清水さんの会社と御殿場で、プローバという看板を掲げながらも独立採算制にするようになったんです。そして06年、この御殿場を清水さんから託されました。
 今はレースをやるよりも一般車を整備する比重のほうが大きいです。レースはお手伝いに行く程度。ただ、ここにはレースをやる道具があり、レースをやる技術もあり、レースをやる人間たちもいます。また時代が良くなれば……。自分は自動車レースが好きなわけじゃなくて、車を作ることが好きなんです。ああしよう、こうしようと考えるのが楽しい。レースで勝つより、勝つまでのプロセスが楽しいんです。買ってきたものをポンッと付けるのではなく、パーツひとつにしても自分たちでアイデアを出して作っていたほうがマシンに対する思い入れも強くなります。
 もしこの先、レースができるとしたらWEC(世界耐久シリーズ)のようなのがやりたいですね。今もレース用パーツを依頼されて作ったりしていますが、穴が合わなかったと返されることもあるんです。昔は何でも自分たちの手で作って、付かなければくっ付ける、速くするためにどんどん改造していました。穴が合わないなら穴をあければいい……なんて思ったりしますが、それが許されない規則で縛られてしまっているんです。開発に余地があるレース。そういう仕事があれば、自分はまだまだ現役でやりたいです。

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