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坂東 正敬 ゼロスタートの強みと弱み

HUMAN TALK VOL.189 坂東 正敬 ゼロスタートの強みと弱み

PROFILE

坂東 正敬
BANDOH Masataka

有限会社坂東商会、株式会社レーシングプロジェクトバンドウ代表取締役社長。幼少期からサッカーに打ち込み、ドイツ留学や清水エスパルスのユースチームに所属した経験を持つ。03~06年はアルテッツァワンメイクレースの監督を務め、07年は父である坂東正明のGTA委員会の委員長就任もあり、RACING PROJECT BANDOHの監督代行を務め、08年から正式にチーム監督として始動し始めた。

ずっとサッカー少年だった坂東正敬の人生が
大きく切り替わったのは織戸学との出会いだった。
まったくレースと関わりのない日々からいきなり自身のレースデビュー、そして監督就任。
下地のないゼロスタートの中で努力していき、思い描いていた理想の道へとつながった――
今回は幼少期からレースデビューまでを振り返る。

坂東 正敬

サッカー少年

 中嶋一貴、星野一樹、土屋武士など、いろんな環境で育った二代目ドライバーがいる中で、僕はまったくレースとは遠い幼少期を送ってきました。もちろん父が車関係の仕事に携わっていたのは分かっていましたが、どちらかと言うと車好きではなかったですね。小学校の頃から父と土屋圭市さんがテレビ番組や雑誌に出ているのは知っていました。ただ実際に何をしているのか、どんな職業なのかも分からないまま育ってきたんです。
 自分はずっとサッカーをやってきて、プラティニとか、マラドーナで頭の中はいっぱいでした。18歳の時に自分の進路をどうしようかって考えて、ドイツ留学を選びました。当時、サッカーが強いのはブラジルかドイツで、友達がブラジルを選んだので、自分はドイツだって。ちょうど日本のJTCCでドイツのACシュニッツァーが走っていて、ドイツの自動車産業に興味を持つことを見越していたのか、父もドイツだったらいいよって言ってくれました。何のコネもなく、初めての海外。父の知り合いに紹介してもらった語学学校に通いながらサッカーに明け暮れていました。
 物心がついて初めてレースを見たのは96年です。飯田章さんが国際F3000に挑戦した年で、「飯田章という若いやつがF1を目指してヨーロッパに行くから、彼のコーディネート的なことをやってくれ」と父から電話があったんです。ニュルブルクリンクかホッケンハイムだったと思うんですけど、生まれて初めてF1の前座として開催された国際F3000のレースを見ました。ただ、興味はまだ持てませんでしたね。サッカーのスタンドに座れば両チームのゴールキーパーの位置も全部見られるけど、レースは目の前を通過していくマシン以外に、向こう側のコーナーで何が起きているかまったく分からない。ぐるぐる回っていて何が楽しいんだろう?というのが最初の感想でした。まったくファンタジーが感じられなかったんです。
 再び父から電話があって、今度はル・マン24時間に行ってこいと。当時、トムスとサードが参戦していて盛り上がっていた時期。でも自分は行ってこいと言われたから来ましたっていう感じで、楽しかったという思い出ではないんです。サーキット内に移動遊園地があって、レース場なのにこんな設備があるところもあるんだっていう驚きはありましたけどね。

坂東 正敬
94年からJTCCに参戦、98年からJGTCのGT300クラスを戦ったウエッズスポーツ。写真は07年参戦時のセリカ。

坂東 正敬
出会った時からすでにレーシングドライバーだった織戸を意識していた。00年はその織戸にすすめられてヴィッツレースにデビューすることに。

運命の出会い

 サッカーでは結局挫折して、21歳で日本に戻りました。とりあえず父が経営する坂東商会にアルバイトで入ったのですが、そこで織戸学さんとの運命的な出会いがあったんです。運命的って言っても、社員の織戸さんはいつも犬の散歩や電話番をしているだけで、最初はこの人は何なんだろうって思っていました。
 97年、織戸さんがRSRシルビアで走っている時に僕がサーキットに行くきっかけを作ってくれて、初めて富士や鈴鹿など近場に付いて回るようになって、織戸さんのすごさというかスター性に感銘を受けました。織戸さんは常にチューニングカー雑誌に出ている人ですごいとは分かっていたんですが、サーキットではもっとすごいスターだったんです。自分のバイト先にいて、普段は犬の散歩をしている人がサーキットに行ったらスーパースター。その上に坂東正明という父がいる。これってどういうことなんだ? その疑問がレースに興味を持つきっかけになったんです。織戸さんが出社している時は必ず質問攻め。いろんなことを教えてもらいました。車に関して本当に自分は無知で、レース以外のこともたくさん。洗車しておいてって頼まれた車をボンネットから洗い始めて、屋根から洗わないと洗ったところにまた流れてしまうだろとか、そんなところからの勉強でした。

気づいたらレース参戦

 織戸さんとは3年ぐらい一緒に働きました。その中でレースや車を好きになっていったというより、織戸さんを常に意識するようになっていきました。普段から感性だけで生きているような人が、なぜうちの会社からスターにまでなったのか? この人は何を持っているんだろう? それを知りたかったんです。僕はいつも織戸さんに対して「ライバルだから」とえらそうなことばかり言っていました。織戸さんより運動神経がいいし、語学もできる。本当に負けず嫌いだったんです。
 99年のある日、織戸さんとご飯を食べている席で翌年から始まるナンバー付きのヴィッツレースのことが話題に上がりました。織戸さんは僕に「いつも上からものを言っているけど、とりあえずレースをやってみればいい」と提案してきました。レースの大変さが分かるから、とりあえずやってみたらって。別にレーサーになりたいわけじゃなかったけど、運動神経には自信があったから、その場では「ポンポンって上がって行っちゃうよ」っていつもの強気で答えたら、一筆書くことになって、書いたからにはやったるわっていう流れになってしまったんです。本当の意味でレース界に足を突っ込んだ瞬間でした。
 小さい頃からレースをやっていたら、父に頼んで車を用意してもらうという流れが当たり前なんでしょうけど、僕はヴィッツレースを始めるにあたって普通にネッツに行って車を買いました。もちろん坂東正明の息子として、また父の会社で3年間働いたのもあって、タイヤ、ホイール、ブレーキ、シートなど多くのメーカーの方々が支援してくれたのも大きかったですね。実際にレースを始めたら、運転はそれなりに勉強しないといけないし、やれブレーキ、やれタイヤだとか学ばなければいけないことばかり。1年やって3回ぐらいマシンを全損して、600万円ぐらい使ったのかな。そこで、もしかして……と気づいたわけです。


1年間のヴィッツレース参戦を終えた坂東正敬の
次なるステップは「チーム監督」だった
スペシャリストたちをまとめる組織の難しさ
そして、やり甲斐……入門アルテッツァから
GT500のチームにまで登りつめた過程を追う

坂東 正敬
坂東 正敬
今季もGT500参戦を継続。脇阪寿一、関口雄飛というベテランと若手のドライバーコンビで戦っている。

スペシャリストの集まり

 今だったらもう少しうまくできたと思うんですけど、1年ヴィッツレースをやってこれはマズいなと思ったんです。ライバルである織戸(学)さんとの差がついてしまうなって(笑)。レース参戦はその後もJAF戦にはスポット参戦で出たけど、レースの世界に入ってみてひとつ気づいたことがありました。
 レース会場に行くと、トヨタ車なのにタイヤはブリヂストン、シートはブリッド、シートベルトはタカタなど、さまざまなメーカーが混ざっています。スペシャルな世界になるにつれて、ひとつひとつのパーツもスペシャルになって、それぞれのスペシャリストたちが製作しています。そのスペシャリストたちの集まりを活かしてまとめているのがレーシングチームなのかなと、徐々にチームというものに興味がわきました。そして、レースをやった次のステップとして、父である坂東正明がGT300をやっているなら僕もGT300のチームを作りたいなと思い始めたんです。それで父に対抗して勝ったら、自分のほうがすごいんだぞって言えるのかなって。勝手にライバル心を燃やし始めた。そんな時、たまたまアルテッツァのワンメイクシリーズをうちのチームで戦いたいという話をもらえ、そこからアルテッツァのチームを自分でコーディネートしていったんです。メンテナンスの勉強もそうだし、オーナー、監督という立場も経験しようって。それから06年まで、アルテッツァのワンメイクレースをやり、次のステージとしてスーパー耐久レースをやりたいなと思っていた時に、いきなり父から父のチームを託されることになりました。

知らない顔ばかり

 07年、「GTAに本腰を入れるからやっておけ」って言われて、父は僕にチームを任せたんです。1996年に坂東商会に入社して10年、最後の5年は打倒織戸さん、打倒坂東正明って思ってやってきたけど、そんなやつにチームを任せるって……GTなんてまったく知らない僕にですよ。  最初の鈴鹿合同テストに行ってみたらドライバーが決まっていない状況でした。いきなりの難題ですよ。当時、僕が唯一知っているドライバーって織戸さんか飯田章さんだけでした。で、章さんが06年でGT500を下りると聞きました。今だったら何か理由があってGT500を下りたんだろうなって察して気軽に電話をかけたり、しかもGT300の型落ちセリカに乗ってくださいなんて言えないですけど、当時の自分は無我夢中だったので声をかけたんです。もうひとりのドライバーは関谷(正徳)さんに相談したら、関口(雄飛)を紹介してもらえました。  その1年目、章さんにはいろいろ教えてもらいながら何とかこなし、1勝させてもらうこともできました。でも、レース業界にどっぷり浸かってきたわけじゃないから、マシンのことはほとんど分かっていませんでした。あるメーカーの方が「ここを変えてきました」って言ってもまったく分からなくて、何も言えない。レース会場で挨拶するのは土屋春雄さんなど父と仲がよかった人だけ。チーム監督が集まる監督会議に行けば、鈴木亜久里さん、中嶋悟さん以外はまったく知らない顔ばかり。そんな状態だったんです。たまたまその年はうちのピットの隣が土屋エンジニアリングで、サーキットに知り合いがいない僕は毎レース、当時GT500を走る織戸さんと喋っていました。GT300とGT500の差すら分かっていなくて、織戸さんには「来年はうちで乗ってください。一緒にやりましょう」なんて失礼な話をしていました(笑)。

坂東 正敬
チームとしての人気も高く、都内のショールームにはファンから毎年寄せられる応援メッセージが飾られている

「夢を持ったら、語れ」

 そんな折、たまたまIS350での参戦の話をもらってプロジェクトがスタートしたんです。そこからは、ブレーキメーカー、カーボン加工メーカーに自分で行くようにして、スーツのデザインからミーティング、マシンセッティング方法まで、いろんなスペシャリストのところに行って勉強するようになりました。アンチリフト、アンチダイブを変更するとどうなるのか? アームの角度を変えたら何が変わるのかとか、織戸さんとエンジニアのやり取りするメールに割り込んで聞いたり。そういう部分では大変さもあったけど、感動したことも多かったですね。IS350の2年目の09年には片岡(龍也)が加入して、片岡/織戸組でGT300チャンピオンも獲れました。その時、1997年に織戸さんと坂東正明がチャンピオンを獲ったことに対して、なんとなくイーブンになれた気がしました。  そんな満足感と同時に感じたのは、GT500がやっぱりすごいなってことでした。GT500でチャンピオンを獲ったら、どんな感動があるのかなって。織戸さんから「夢を持ったなら、いろんな人に語れ」と言われて、父にも、他のいろんな人にも「GT500をやりたい」と言って回りました。それが2011年のGT500参戦につながりました。トヨタ自動車さん、TRDさんが許可してくれたのもありますし、横浜ゴムさんとウェッズスポーツさんの協力を得られたことも大きかったです。  11~13年にGT500で戦い、表彰台3回、ポールポジション1回という結果を残せましたが、昨年DTMと車両規則が統一される話になった時は続けるかどうか悩みました。ぶっちゃけ辞めようと思っていました。ワークスチームに対しての差というのがいかに大きいか、3年やって見えたのもありました。ただ、TRDとトヨタ自動車さんから再びチャンスをいただくことができて、今年の体制ができあがったわけです。  ヴィッツレースもメンテナンスしているし、86のワンメイクも2台やっていて、D1とGTを入れると全部で4カテゴリーも今は手がけています。加えて、坂東商会という問屋業、チューニングカーでのタイムアタックなど……GT500に集中しろと言われるかもしれないけど、星野(一義)さん、国さん(高橋国光)たちが作ってきた時代をリスペクトしながら、僕のような2代目連中がこれから上がって来たとき、そのなかで自分が先頭に立っていたいんです。だから誰よりも今は経験したいという気持ちが強いので、大変だけどいろいろと手がけています。そして、どこかでチャンスを与えてあげたいなという気持ちもあります。GT500のチームオーナーってたった14人。僕はヴィッツや86からGTまでのカテゴリーを手がけ、ドライバーにしたら歩み寄りやすい存在。そうありたいし、歩み寄ってきたドライバーにチャンスを与えられればうれしいなと思っています。
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