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舘 信秀 氏 ピンチをチャンスに変える男

HUMAN TALK VOL.183 舘 信秀 氏 ピンチをチャンスに変える男

PROFILE

舘 信秀
TACHI Nobuhide

1947年3月23日生まれ 三重県出身
1971年にトヨタのファクトリードライバーとなり、72年の日本グランプリ富士ではセリカで優勝を飾った。74年には石油ショックの逆境の中で株式会社トムスを設立して代表取締役社長に就任しつつ、自らがドライバーとして生き残る道を切り拓いた。現在は株式会社トムス代表取締役会長、トヨタチームトムス代表。

スーパーGTやスーパーフォーミュラ、F3などで
数々のタイトルを獲得してきた名門チームトムス。
そのチームを牽引する舘信秀の人生をひも解くと
順風満帆なことは何ひとつなかったと分かる。
自らもレーサーとして活動する日々のなかでいかにしてトムスを立ち上げて、
国内最強チームにまで成長してきたのかを振り返ってもらった。

舘 信秀
舘 信秀
舘 信秀
1973年の石油ショック後に自らのチームを立ち上げてレース参戦を継続。74~75年は富士スピードウェイを中心に“トムススターレット”を駆って走った。75年の日本グランプリ・レース、76年のJAFグランプリで優勝を果たしている。

車嫌いだった少年

小さい頃は興味がないどころか乗ると酔うぐらい車に弱くて、排気ガスのニオイも嫌いで車に乗るのが嫌で嫌で仕方なかった。でも、きっかけというのがあるから人生は面白いものですね。

 生まれは三重県の鈴鹿、父親の仕事の関係で小学校に上がる前に東京に出て来ました。中学と高校はバスケットボール部に入ってそれに一途な子でしたが、大学に上がる前の春休みに鈴鹿で第2回日本グランプリが開催されるというので、僕のまわりの車好きでプライベートレーシングチームを作っている仲間がそのグランプリを見に行きたいって言い出したんです。で、僕が鈴鹿生まれだということで、学生で金が無いから「お前の家に泊めろ」と言う流れから引き受けることになって、じゃあ僕もっていう感じで一緒に行くことになったんです。それが、人生を変えましたね。初めて見たレースに五感を刺激されたわけです。耳と音とスピードとニオイ。僕にとっては衝撃的で、ものすごくやりたくなった。

 バスケットをずっと部活でやってきて、他の趣味と言えばラジオやプラモデルを作ること。ただ、何でもわりとすぐやりたくなって、すぐに投げ出す、いわゆる僕は熱しやすく冷めやすい中途半端人間だったので、レースに関してもすぐにやりたいと興奮してしまったんです。もちろん、何も考えていませんよ。とにかく、レースをやりたかった。レースというものの仕組みも分からなかったし、プロもアマチュアも区別がつかない。ただやりたいという気持ちが先走っていったんです。

 レースをするにあたっては車が必要です。最初に買ったのはトヨタのパブリカ700という強制空冷水平対向2気筒エンジンの車。親父の運転手をやるとか何とか言って、当時の値段で19万円で買いました。そこからレースに出る準備を始めるわけですよ。足まわりを落としてエンジンをチューニングして、マフラーを換えて……どんどん車がうるさくなって乗り心地が悪くなっていったけど、両親はそれに気づかずにいましたね(笑)。それが僕の最初のレーシングカーであり、自分が初めて手にした車でした。

つきまとう逆境

 レースに向けての準備として、最初はジムカーナをやりました。週末になると湘南の大磯ロングビーチの駐車場へ行ったり、毎週のようにジムカーナをやっていました。で、ある程度やるうちにレースに出たくなって、今度は船橋サーキットで開催されているクラブマンのレースにデビューしたわけです。トヨタモータースポーツクラブ、ニッサンスポーツカークラブとか、そういうクラブの人たちが参加するプロとアマチュアが混在したレース。1年間パブリカで参戦して分かったのは、この車では勝てないこと。で、次はホンダのS600にするわけだけど、たまたま鮒子田(寛)と知り合って彼の車を買ったんですよ。そのホンダのS600でまた1年戦いました。その時にわりと成績が出て、トヨタのS800で出ていた川合稔さんに勝ったりして、わりと注目されるようになっていました。ただ、やっぱり個人だったのでその年の最後には資金難で終わるわけですよ。今までの熱しやすく冷めやすい自分だったら、そのへんで辞めてても不思議じゃなかったけど、レースだけはどうしても続けたくてどうしたらいいかって考えた時、メーカー系のクラブに入って将来ワークスを目指すしか道がなかった。僕がホンダのプライベーターとしてレースをやっている時にトヨタの人たちも僕のことを知っていて、トヨタモータースポーツクラブにすぐに入れてもらえた。たまたま運よくトヨタも若いドライバーを育てようという思いがあって、僕や見崎清志、高橋晴邦を同時期に入れてくれたんです。将来、僕もレースに出る約束をしてもらえていました。

 ところが、S800を駆って船橋で練習している最中に、リヤのドライブシャフトが折れて、僕は手が窓から外に出て大ケガをしてしまった。最初の病院に行った時は手を切断するって言われたぐらいひどいケガでした。次に行った病院で、お腹の皮膚を手にくっ付ける皮膚移植をして何とか切断はまぬがれたけど、長いリハビリ生活が待っていました。今思えば、その時にも過去の自分なら辞めていておかしくない状況でしたが、当時はこれで辞めたら男がすたるぐらいに覚悟を決めて「もう少し続けさせてくれ」って両親にお願いをしました。そこまでのケガをしてまだやりたいって言うんだから、こりゃ辞めないだろうって両親は思ったんじゃないですかね。そこから少し協力的になりました。ケガから復帰して2年ぐらいプライベーターでやったかな。

 ワークスに入って、プロレーサーとしてトヨタと契約をしてもらったのは1970年の年末。だけど、今度は1973年の石油ショックが来るんだよね。原油がなくなるっていうのでトイレットペーパーを買い込んだり、世の中は大変な時代。トヨタだけに限らず、他のメーカーもレース界から撤退したり縮小するという話になって、トヨタの場合は完全撤退することに決まりました。資金難で辞めなければいけないことがそれまでに2回も3回もあったし、トヨタのクラブに入ってケガをしたこともすごい壁だったけど、石油危機でワークスチームが解散してしまうことに関しては、自分の力ではどうしようもできない高い壁ですよね。だけど、そこまでの状況になってもレースだけは続けたい、辞めたくないって思った。冷めやすい自分がそこまで惚れ込んでいたことに驚きましたよ。レースを続けることに関しては、本当にしぶとかった(笑)。

資金難、ケガ、石油危機からのワークス解散……
度重なるピンチの中で立ち上げた自らのチーム
レースを続けていくために不可欠な決断だったが
チームオーナー兼監督業を続ける中で
また新たに追いかけるべきものが定かになってきた
過去の経験をもとに舘信秀がいま目指すものとは?

舘 信秀
舘 信秀
創業当時のトムス社屋。かき集めた資金をもとに会社をスタートさせながら、自身のレース活動も続けるという大忙しの時期。

敵は隣のお前

1973年に石油危機がきてトヨタワークスが解散になって、これからレースを続けるにはどうしたらいいのか? そこで立ち上げたのがトムスでした。自分でチームを作るしかないって。これが1974年、僕が27歳の時のことでした。

 実は、僕はあまりレーサーに向いていないなって思った時期が早かったんです。バスケットボールをやってチームプレーというものが基本にあったから、僕の中ではトヨタでレースをやっている時も敵はニッサン、ホンダだと思っていた。それがある日、誰に言われたかは覚えてないんだけど、「敵は隣のお前だよ」って言う人がいて、レースの世界は厳しいんだなって思ってしまったわけです。その頃そうやって思ったからよっぽど自分は幼稚だったんでしょうね。そういうのもあって、自分はレースに向いてないのかなって思い出した頃があったんだよね。冷静に考えれば長く続くビジネスじゃない。だから、いつかは自分のチームを作ってみたいな、という人生プランが現役の頃からあったんです。そういう意味で石油危機っていうのはひとつのビッグチャンスで、ピンチをチャンスに替えようっていう思いでトムスを始めたんだけど、やっぱり最初に会社を作るときは資金難でしたよね。銀行行っても変人扱い。ガソリンが世の中からなくなってしまうかもしれないのに、車の商売やるんですかって。ようやく資金援助を受けられたのは小さな地元の信用金庫。その資金をもとに何とか会社を立ち上げました。

 トヨタがワークスを辞めた後、トヨタにいろんな車やパーツがあったので、あちこち通って集めて……。スターレットの16バルブの車ももらってきて、トムスとしてレースにデビューしたんですよ。トムスの名前を売ったのはそのトムススターレット。その名前でエントリーして、サニーに勝ち続けたわけです。

 正直、自分で乗りたいから会社を作って、最初のうちは自分で乗っていたけど、チームオーナー兼監督という立場だったから旅行の手配、エントリー、資金集めまでのすべてを自分でやらないといけなかった。だからレースのスタート地点に立った時には、もう疲れきっているんだよね。もちろん自分のスピードも年齢とともに落ちてきて、若くて速いやつらもどんどん出てきたから、これはどこかでバトンタッチしなければなっていう思いも抱き始めた。最初に乗せたのが鈴木恵一、その後に星野薫だとか関谷正徳、鈴木亜久里。彼らはうちでアルバイトしながらレーサーを目指して行ったよ。

舘 信秀
現在は国内最高峰のスーパーフォーミュラ、スーパーGTを戦うトムス。若手育成として全日本F3選手権にも参戦して、チームとドライバーを育てる環境が整っている。

一番つらかった時期

  やっぱり、やるならドライバーの方が楽しいよね。チームオーナーは経営もそうだし、ドライバーやチームスタッフをはじめ、人間関係の調和を保っていかないといけない。それは難しい仕事だと思うよ。ただ、苦痛ではない。苦しいのはやっぱり資金集め。ビジネスとして成り立たせるためには金を集めないと仕方ないですから。ただ、僕は金儲けを考えてトムスを始めたわけではないです。金儲けだけ考えてスタートしていたら、今頃はビルのひとつやふたつは建っていると思いますよ(笑)。トムスを始めるときに掲げた目標は日本一のチームを作ること。それは今でも変わっていません。

 チームオーナーをやっているとつらい時期も経験します。第2回石油危機の時も厳しかったけど、一番つらかったのはバブルが弾けた時でした。グループCのマシンを製作して世界選手権に出て行き、トムスGBを作ってF1をやろうってことでジョン・バーナードや僕が目をつけていたデザイナーとも契約をした矢先、バブルが弾けてすべてが流れてしまった。それまで集めてきた人材においても人員整理をしなければいけなくなったんです。トムスGBはその先に人員を含めてアウディに売ることになるんだけど、日本のトムスにおいても120人ぐらいいた社員を44名まで縮小しなければいけませんでした。何よりも悲しかったですよ。お金がどうこうじゃなく、今まで一緒にやってきて同じ将来を夢見た仲間を切らなければいけないっていうのは、経営者にとっては最低な話ですからね。人間ってガンガンやっている時って忙しいけど大して苦しくなくて、やっぱり縮小したり切ったりする時の方が勇気がいるな、改めてそう思いました。

 同じ悲しい思いをしないために今これから何をしていくか? それが今の僕のメインの仕事です。サーキットでは監督としての顔もあるのでおもしろいレースをして優勝することを目指しますが、常に今の仲間たちの将来を考えて、新しい逸材を育てていくことも真剣に考えています。モータースポーツを再びメジャーにすることが求められていると感じています。
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