生き様に詰まった義理人情

VOL.183

星野 一義 HOSHINO Kazuyoshi

1947年7月1日生まれ 静岡県出身
レースの入口はモトクロス。全日本選手権でタイトルを獲った後、ニッサンのワークスドライバーテストを合格して4輪に転向。74年全日本F2000選手権でタイトルを獲得し、その後もツーリングカー、フォーミュラの世界で数々のタイトルを獲った。97年のフォーミュラ引退に続き、02年にレーサーから完全引退。監督業に専念することに。ホシノインパルは1980年6月に設立した。
http://www.impul.co.jp/

良い意味で「一途」、悪い意味で「不器用」
そんな表現が星野一義には合っている。
レーサー現役ピーク時にホシノインパルを立ち上げ
現役後はチーム監督としていまなお現場に立つ。
そんな星野の生き様は一貫したもので
今も昔も変わらず義理と人情にしたがったものだ。

自宅を営業所にスタート

今年で66歳だから、ホシノインパルは33年目、自分が32歳の時にスタートさせた。20代の頃なんて、正直自分が商売をやると考えたことがなかったね。とにかくモーターサイクルでチャンピオンを獲ること以外考えてなかった。全日本モトクロス選手権で90?、125?でチャンピオンを獲って、モータースポーツの方から電話がかかってきて4輪に進んでも、とにかくチャンピオンを獲ることだけを考えて、日本一速い男と言われるようになっても関係ない、1位以外自分で自分を許せない性格だったんだよね。ただ、そうやって突き進んでいく中、モータースポーツで100%生きている人の定年が30代真ん中でくるんだなと分かって、先が見えてきた。これは現役のトップの時に自分で会社を作らないといけないな、と思い始めたんだ。
 問題は何をやるかだけど、自然に車関係以外にないわけだよね。カーショップをやるにも土地を買って建物を建てて、在庫を仕入れると言ったらすぐに2~3億円必要になってしまう。そこまでお金がなかったから、じゃあメーカーをやろうかと。メーカーだったら自宅が本社でもいい。金子(豊)のところを東京営業所にすればいいって。そうやってふたりの自宅を本社と営業所にして社員ふたりで始めたのが、今の会社の原形だった。
 駆け出しの頃はホイールのメーカーとして、3ピースでセンターの14インチからスタートした。ホイールだけで商売をしていた時代は3年ぐらいかな。心の中には、いつかコンプリートカーもやりたいなって気持ちはずっとあったよ。夢は大きく持った方がいいからね。で、うちはニッサン系だからニッサンの車でやっていくことになった。シルビアが一番最初だったかな。

東京の世田谷区桜丘に本社、ショールームを構えるホシノインパル。

エンケイに救われた

自分の生き方はすごくシンプルだと思っている。レースや商売をやる上での悩みや決断力とかを求められる時、いろんなことでただ小さくなって、ただすべての条件飲みますっていうのではなく、レースは100%勝つこと、商売でも自分が納得したものを選んで自分のオリジナリティやニオイを出すことで頑として譲らない。ホイールにしてもいろんな時代があって、韓国や中国で作れば安くできるし、それでも売れる時代があったんだよね。いろんな誘い話も実際にはあったよ。でも、世話になった人の義理は通す。
 ヘルメットひとつにしても契約金を倍額出すからと言われたこともあるけど、最終的に義理と人情で受け入れない。逆にそれで惚れられたりもして、じゃあいくらならいいって言われたけど、そういうことじゃない、ハートの問題だと。ずっとそういうやり方でここまで来られたから、間違いではなかったんだろうね。外国人ドライバーの中にはこっちの方が契約金がいいからってニッサン、ホンダ、トヨタ、すべて渡り歩く人がいるけど、僕はそういうタイプにはなれなかったね。
 会社を興してホイールを出すってなった時にいろいろなメーカーを回って、一番感じが良くて、好意的だったから僕はエンケイにお願いをした。ただ、会社を作るまでに1年ぐらいかかって、スタートしてからも最初のホイールを出すまでにはいろいろあったね。そんな中で、今現在まで会社が存続しているのは大げさな話でもなく、エンケイの鈴木順一社長のおかげだと僕は思っている。エンケイで自分のところのデザインで試作を作ってもらった時、金型に入る前に立体感を持たせた木型を作るんだけど、その木型を見た段階でこれはダメだなと自分で見てストップした。2時間ぐらいミーティングしたのかな、その結果、これは売れないって判断を出したんだ。他にいくつかデザイン案もあったけど、一番自信のあったものがダメで気持ちが沈んでしまって、他の案を進める気にもなれず、僕はミーティングルームを出て、タバコを吸いながらエンケイの工場近くの田んぼをぼんやり歩いた。あまりのショック、あまりの出来の悪さ、あまりの魅力のないホイール、頭の中がパニックになって、良いアイデアもなくお先真っ暗だと思ったよ。
 タバコを吸い終わって工場に戻ると、鈴木社長は「星野さんどこへ行ってたの?」って聞いてきて、素直にショックで気持ちの整理がつかなかったって答えた。そしたら、うちので使えるのがあるか分からないけど、それなりに数があるからってホイールが展示された部屋に案内されたんだ。その時はどんなホイールを見ても、しばらく作る気にはならないだろうと思っていたけど、その部屋に入った途端、ドキッとしたんだよね。ドアを開けて一番左の一番上にあったのが、あの十文字。「社長、これいただいてもいいの?」「星野さんだったらいいよ」って。じゃあ、早速これで試作やってみようって気持ちがまた走り始めた。鈴木社長のあの好意に本当に救われたね。
 その当時の鈴木社長の好意には義理人情を感じずにはいられない。だから、自分たちのホイールがヒットして、中国でホイールがもっと安く製作できるなんて話もいろいろあったけど、うちはエンケイ以外でやる気はまったくない。33年間、それを通してきた。それが僕のやり方なんだ。

創業当時から力を入れてきたオリジナルホイール。エンケイとはずっとタッグを組んできた。

現役時代のうちに自らのチームを立ち上げてドライバー引退後も監督として牽引。
赤字になるフォーミュラをなぜ続けるのか?
そんな言葉も耳に入ってくるがそんなの関係ないと一蹴してしまう。
星野一義はまだ夢を追いかけ続けている。

レースの数字にはシビア

1983年にヒーローズレーシングから独立をして自分でホシノレーシングとしてレーシングチームを作って、そこからドライバーを辞めてもずっとチームを続けてきた。ただ、続けてきたけどレースが楽しいと思ったことは一度もない。勉強で1位になりたいと思ったことはないけど、ハンドルを握ったら常に1位。1位以外、自分で許さなかったから。モトクロス時代からそれは変わらなくて、90ccでも、125ccでもチャンピオンを獲った。サニーに乗っても、チェリーに乗っても、スカイラインに乗っても、フォーミュラに乗っても絶対に1位だけを求めてきた。頭がおかしいと思われるかもしれないけど、そういう気持ちがなかったら今の僕はないだろうね。決して天才でなかったからさ。
 監督業をやり始めても、ビジネスの方では数字がどうのこうのというのは金子(豊)に任せてあるから耳に入ってきてもすぐ抜けていってしまうけど、御殿場のファクトリーの方でコンマ1秒遅いって聞くと、「なんで遅いんだよ」ってなるんだよね。本当は両方で1位を目指さなければいけないけど、やっぱりレーシングチームの数字の方が心に響いてくるんだよね。裸で何もない頃から僕を引っ張ってくれて、ニッサン、ブリヂストン、カルソニック……感謝しきれないほど借りがあるわけだから、もっともっと勝ってイメージアップに貢献しなければいけない、誠意を持って返さなければいけない。いつもそう思い続けることが大事だと思うし、僕のやり方なんだよね。

ビジネスの方では、今はニッサンのコンプリートカーまでを販売する事業へと拡大した。

常にいいものがほしい

ビジネスでは成功しているけど、レーシングチームでは赤字。星野さんなんでそこまでして続けているの? なんて最近よく言われるけど、確かに数字の上ではお金は使わない方がいいさ。それはホンダにしてもトヨタにしてもニッサンにしても同じ。でも、たとえば今までならガソリン100?を使っていたところが、レースの中で研究して開発していけば、その70%で同じ距離、同じ速さ、同じパワーでも走ることができるようになるんだよ。人間は作ってしまう、乗り越えてしまうんだよね。僕が赤字でもレーシングチームを続けているのは、その人間を生むために投資しているわけ。レースで勝った、負けた、それも大事だけど、最終的には人間を生むために今はやっている。単にインパルの名前を広めるだけなら、速いチーム、速いドライバーにスポンサーフィーを出して優勝してもらって宣伝してもらった方が楽でしょ。でも、そうじゃなくて自分のところのスタッフが力をつけていかないといけない。それプラス、優勝できれば最高だけどね。予算はかかるけど、それを回していくために一生懸命やっているよ。
 そんなにえらそうなことばかりは言えないけど、日本のレースの中でチームインパルの地位を不動のものにするためには何をすればいいか? 最終的に資本力じゃないよね、人間。奥さんの買い物自転車にエンジンを付けた本田宗一郎さんが、何年も後にニッサンをやっつけるなんてこと誰も思っていなかった。その例でも分かるように、意欲チャレンジ、努力っていう言葉なくして成功はないと思うんだよ。僕は東大を出ているわけじゃない。高校中退の中卒だよ。でも、意欲チャレンジ、努力があればそんなの関係ない。東大卒だってふんぞり返っていたら、会社はなくなっちゃうよ。

おなじみ、星野が愛用してきたヘルメット。現役時代はこれを投げつけるシーンもよく目撃されるほどアツかった。

何をやったから成功したどうのこうのじゃなく、常におもちゃでもいいものがほしい、いい車がほしい、いい家がほしい、今でももっといい家がほしい、そういう夢を今でも持っている。それが僕は一番大事なことだと思う。だって、ずっとチャレンジしているわけだからね。昔からトップを獲るために夢中だよ。そういう目をしているから恐い人だと思われているけど、実際には恐い人でもいい人でもない、弱い人なんだ。ものすごく億病。だから努力、努力、努力。人が1周走れば10周走って、10周走れば100周走る。
 ただ、ひとつ言えるのは人に恵まれていたこと。前にも言ったけど、ホイールからスタートしてビジネスでそれなりに成功できているのは、エンケイの鈴木(順一)社長の思いやりがあったから。それがなかったら……あそこで違う道、違うメーカーを選んで失敗していると思うよ。それは感謝、感謝、いつも頭のどこかにあって大事にしている。レースの世界でもあまり苦労することなく、いい出会いが多かった。自分を優等生ぶるわけじゃないけど、騙したり裏切ったりは絶対にしない。不器用だなんて言われることもあるけど、義理人情を大事にしてここまで生きてきた男が星野一義なんだ。

星野自身のもの、チームインパルとして勝ち取ったトロフィが世田谷のショールームには誇らしげに飾られている。

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