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松田 晃司 氏 いつも誰かに支えられていた。

HUMAN TALK VOL.171 松田 晃司氏 いつも誰かに支えられていた。

PROFILE

松田 晃司
MATSUDA Kouji

1971年6月6日生まれ 神奈川県出身
95年に富士フレッシュマンでデビュー。96年にチャンピオンを獲得、98年からはスーパー耐久シリーズに参戦。00年から全日本GT選手権(現スーパーGT)にクラフトから参戦し、01年に初優勝を果たす。同年からアジアツーリングカー選手権にも参戦を始め、02年にはチャンピオン、06年までSGTにトヨタからGT300に参戦、02年から現在までスーパー耐久のクラス2のスバル インプレッサを駆る。

自分の気持ちだけがいくら強くても、レースはひとりではできない競技だ。
10代の頃からレースの世界に憧れを抱いた松田晃司も、
気持ちだけは強かったが、いざ始めるまでの下積みは長かった。
そして、当時は気づかなかったが
多くの人に支えられてきたことに後になって気づいたと松田は語った。

松田 晃司

遠いレースの世界

一番最初に興味持ったのは、やっぱり自転車とバイクですよね。子供の頃、リアルタイムで「バリバリ伝説」というマンガに夢中になって、それを真似て自転車で坂道を攻めたりとか、どこに行くにしてもコーナーがあったら攻めていましたね。その頃からバイクのレーサーになりたいっていう、ボヤっとした夢はあったんですけど、どうやったらなれるのか、どうやって目指せばいいのかも分かりませんでした。高校生になってバイクの免許を取ったんですけど、すぐに取り上げられて(笑)。もう一回原付免許を取り直して、仲間内の先輩にバイクを貸してもらい、それでまた峠に戻ってみたり。
 箱根の椿ラインってところに行くと明らかにレーサーって人がいて、すごく速かった。4輪も箱根で明け方になると、オールペンしたものすごくきれいな86に乗る先輩たちがいっぱいいて、中でもうまい人たちが走り出すと他は走れない、その走りに注目するっていう雰囲気で。そこに入りたいってすごく思いましたね。で、ひょんなことからきれいに塗られた86を売ってもいいよと声をかけてもらえ、すぐに買いに行ったんですよ。ただ、それと並行して車を買う=進学をするのか就職をするのかっていう選択に迫られた時に、まわりは働いてお金を作って車を買うっていう流れだったので、なんとか親にホテルマンになりたいと説得したわけです。もちろん、ホテルマンというものに興味がなかったわけじゃないんですけどね。
 ホテルに就職してからも(本当は車通勤はダメだったけど)その86で通勤していました。横須賀から磯子のホテルまで。そしたらある時、通勤途中の車屋さんに86のレーシングカーがずらっと並んでいるのを発見したんです。ガレージアネックス、フレッシュマンでは孤高のチームです。そんなことも知らず、何だここはって思って、僕はすぐにそこの門をたたいたんです。最初は僕の車の見た目が派手だったから、うちはそういうのじゃないよ、真剣にレースをやっているからっていう雰囲気で噛み合わない感じでしたが、バイクの頃からレースの世界の人と出会うチャンスってなかったので僕のテンションだけすごく上がってしまって、毎日のようにそこに通ってましたね。
 レース見に来る?という話をもらった時に問題だったのが、僕がホテルマンだったこと。週末の書き入れ時に、しかも新入社員が休むなんてことはあり得ないこと。それでも年に3~4回は何とか土日を無理やり休ませてもらって、ガレージアネックスの手伝いに行き、サインボードを出したり、後は何にも出来ないのでレーシングカーのワックスがけをしていました。
 そういう生活をしている中で、走行会に出たりレースを手伝ったり、仲良くなったらチームの飲みの席にも呼ばれたりもしますよね。フレッシュマンレースでバンバン優勝している人たちがいっぱいいる僕にとってはヒーローばかりに囲まれて、いろんな話も聞かせてもらいました。ガレージアネックスで4年ほど手伝いをさせてもらったのかな。自分は峠通いをずっと続けながら、レースを手伝うっていう生活です。峠にも付き合ってくれていたのは地元の幼なじみで、彼がまためちゃくちゃうまかったんです。良いライバルとレースが身近にある環境の中に身を置いて、じゃあいつレースを始めようかっていうような雰囲気にはなっていきましたね。

松田 晃司
松田 晃司
ガレージアネックスのシルビアでレースをしていた頃。このアネックスのバックアップも松田の後のキャリアを大きく左右することになる。

レースにチャレンジしなよ

レースをやるにあたっては意外と計画どおり進めました。もう4年もお手伝いをしているので、どれぐらいの予算が必要でどの位難しい事なのかある程度分かっていたので。で、そろそろできるねという話になったのが、フレッシュマンの86が最後の年でした。引退する先輩の車を買って出るかというところまで決まり、父親にそういう道に進みたいって相談したら、じゃあ家を出てやれと言われまして……。親友が一人暮らしをしていたのでそこに転がり込む、という話もあったんですけど、いやいや待てよと。ここまで計画どおりに進めてきたのに、ここでへたは打てないなと。予算的にちょっと無理でした。仕方がないのでその86購入の話を断って、もう1年間お金を貯めることにしたんです。
 翌年、86のレースが終わったのでシルビアS13からレースをスタートするぞと自分の中で決まっていたところに、さらに背中を押してくれる人が現れました。雑誌カーボーイが主催する織戸塾っていう企画がありまして、そこに応募したら書類選考で選ばれたんです。後から聞いたら何百人という中から10人という枠に書類選考で選ばれたみたいです。それに参加したら、僕、まあまあ速かったんですよ。そこで織戸(学)選手に出会って、織戸さんが熱意を持って教えてくれてた。とくに僕にはすこし厳しく接してくれているのが分かりました。言葉もそうだけど、そういう空気感で分かるじゃないですか。ちゃんと見てくれているんだなって。それで、織戸さんに僕はレースをやれるだろうかって相談したんですよね。そしたら「お前はレースにチャレンジしなよ」と言ってくれたんです。それがレースに向かう最後の決定打でしたね。デビューする年の1月、レースをやるためにホテルを辞め、不思議と恐れは無かった事を覚えてます。

実際にデビューを果たしたレースの世界は想像以上よりも厳しく、
続けていくことだけでも大変なことだと知る松田晃司。
心の内にある上昇志向はとても強かったが、 お金とコネがついてこない……
それでも松田はチャンスを逃さず、周囲のサポートに背中を押されながら
自らのキャリアを着実に築きあげていく。

松田 晃司
S耐には98年から、GTには00年から参戦を開始した松田。GT選手権(現スーパーGT)ではトレノ、MR-S、セリカをドライブしてきた。
松田 晃司

いざ憧れの富士フレッシュマンレースへ

 織戸(学)選手に「レースにチャレンジしなよ」と言われ、ホテルを辞めたのが1月。そこから開幕の4月まで走れる富士SWのスポーツ走行すべて走り、予定していたよりも実際にかかるお金にもビックリしながらも開幕する前から僕はもう優勝する気満々でした。でも、フレッシュマンとはいえ甘くはなく、ずっと5位どまり。トップ争いはガレージアネックスのエースとKオフィスという土屋圭市さんのチームのアドバンカラーの2台が強くて、すごい高い壁だなと思いながらやっていましたね。
 フレッシュマン開幕後、5月の連休の富士GTでスーパーシルビアレースもあると聞き、僕は早速N1クラスにエントリーしました。そうしたら織戸選手もN2クラスにエントリーしていて、そこで再会したら驚いていましたね。「本当にやり始めたのか!?」って。それ以降、すごく仲良くさせてもらい、僕が所属するガレージアネックスにはいない少し上のカテゴリーをやっているドライバーの話をすぐに聞ける環境になりました。織戸選手はなぜか節目に言葉をくれる存在。僕が何かで迷っている時に背中を押してくれるんです。そんな織戸選手を始め、当時は若すぎて気づかなかったけど、どの時代を振り返ってもそうやって支えてくれた人の存在がありました。ありがたい事ですよね……できるならもう一度タイムマシーンで戻りたいですね!

松田 晃司

どん底での「救いの手」

 1年目、夏に成績が落ち込んでいる時、ガレージアネックスの社長は練習走行でエースドライバーに僕を引っ張ってもらうというメニューを組んでくれました。エースの方だって自分でお金を払ってスポーツ走行していてレースのための練習をしたいのに、僕の先導走行のための時間を割いてくれたんです。効果はてきめんでラップタイムはすぐに上がりました。でもその直後、単独走行で富士の100R走行中に前を走っているMR2がスピンしてそれにぶつかってしまった……。ラップタイムを追いすぎて視野が狭くなっていたのでしょうね。ピットに戻ってきた車は全損状態。参戦予定のレースはすべてキャンセル、もう何をして良いかもわからずに毎日海を見ていました。そんな僕のためにチームは、最終戦にもう1回出るぞと連絡してくれたんです。チームメイトのドライバーたちも忙しい中で皆仕事が終わってから集まって僕の車を作るのに協力してくれて……。この時、ガレージアネックスのあるお客さんがレースをやりたい、戦闘力のある車が欲しいとアネックスに来ていて、最終戦で僕が乗る車はどうですかと提案していたみたいです。結果が良ければっていう話でまとまって、僕を助けるために、僕の知らないところでそういう話が進んでいました。レースは5位だったけど、車はその方が買ってくれて、全損したにも関わらずある程度の精算をして1年目を僕は終えることができたんです。
 ただ車は売れたけど、1年で何もなくなってしまいました。今後どうするってなった時、なぜか僕がガレージアネックスのエースカーに乗ることになったんです。翌95年に誰が乗るっていう中で、当時のアネックスのエースと僕と親友で乗り比べをしたら、そこで僕が1番速いタイムを出した。とはいえ、レースを1年やっただけの素人、そこには、チームの思いというか、OBを含めいろいろな方の意見があったみたいです。エースカーに乗るにあたって、社長が出した条件は仕事を辞めてアネックスのアルバイトをしながらレースだけに集中すること。メカニックをして車のことも覚えながらやれと。そんな環境変化のもと2シーズン目が始まるわけですが、最終戦で僕が乗った車を買った方が走れるスポーツ走行はすべて行くって感じで練習をしていて、僕はいつの間にかマンツーマンのコーチになり、その方に同行するようになって爆発的に僕の走行時間も増えていました。また2年目のトピックスとしては、プロジェクトμのレーシングスーツを着て参戦したこと。フレッシュマン出身の竹内浩典選手がフレッシュマンの環境をより良くしようと、優秀なドライバーにブレーキパッドをフルスポンサードするスカラシップを開始したんです。これもキャリアを考えるとなぜ僕が選ばれたのか……自分を取り巻く人たちの力だったわけですよね。
 そんな支えのもと、96年はチャンピオンを獲れました。2年目ではあるけど、フレッシュマンレースを見る目としては、手伝いの4年間も含めれば6年目。そうしたチームの環境が良かったのだと思います。その成績とプロジェクトμがフレッシュマンの優秀ドライバーをミラージュカップにステップアップさせるスカラシップがスタートしたタイミングが合い、97~98年はミラージュで走りました。それがその後のN1耐久、目標であったGT選手権には約7年、ドライバーをやらせて頂きました。そこで土屋武士君や脇阪兄弟を始め多くのプロドライバーと公私共に仲良くさせて頂き、ドライバーとして本当に多くの事を学びました。07~08年は服部尚貴、ヨッシー先輩(吉田寿博)をチームメイトにスバルからニュルにチャレンジ。その後にドライバーとして引退を考えた時期もありましたが、S耐でスバルのチームを手伝っていたヨッシーが「だいぶまとまってきたから手伝ってくれよ。まだ終わるのは早いぞ!」と連絡を頂き、それ以来毎年スポットで年3~4戦出させてもらって、今年も同じくやらせてもらいます。自分のチームを持ちたい、若い子を育てたいという夢がある中で、そんなチームで走らさせてもらっていることに幸せを感じますね。レースは結果がすべてですけど、今は結果までのプロセスを楽しめる。S耐だから楽しめるというのはあるけど、S耐にはそういう魅力もある。ここ数年は、スバルのイベントなどで一般の方と触れ合うチャンスも増えたので、今後もより多くのレースファン、自動車ファンを増やしていきたいですね。
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